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家族は好きだけど、一緒には住みたくはない
週末は実家に帰っていた暇真(いとま)です。
家族とお墓参りに行ったり、岩盤浴に行ったり、家電量販店でステッパー(足踏みマシーン)の踏み心地を確かめたりしていたら、あっという間に週末が終わってしまった。
帰省のたびに私は、家族が好きだなーと実感する。次会う時も家族には健康でいて欲しいし、できるだけ毎日を幸せに過ごして欲しいと心から思ってる。
でも、それと同時に一緒に暮らすのは違うなーとも思う。「実家に帰ってきて」と言われると心がザワザワする。私には私の生活があるし、そこは親の介入を受けたくない。それってちょっと変だろうか。
私は、退職した事を親に報告していない。
なぜって、親が心配するからだ。親は心配すると、「これからどうするの?」と聞いてくる。答えられないと、もっとたくさんの言葉で私を焚き付けてくるだろう事が目に見えている。
それは大きな視点で見たら、きっと私への愛なんだと思う。ありがとう。でも、今の私としては、その愛を受け取りたくないんだよな。自分がヤバい状態なのはわかってるから、そっとしといて欲しいと思う。ただでさえ問題が山積みなのに、「親への説明」という厄介ごとまで抱えるのはイヤ過ぎる。
その事を親しい人に話したら「親のそれは愛じゃ無くない?」と言われた。私は「失礼な事言うなよ!」と笑ってしまって、咄嗟に「愛だよ!」と返せなかったのだけど、やっぱり愛ではあると思うんだ。
うちの親が私を愛していないはずがない。ただ、その愛の形を私は望んでいないと言うだけなんだと思う。
一般的に、親の愛は大きく2タイプに分かれそうだ。
たくさん心配して守ってくれる、つまり「積極的介入タイプ」と、本人のやりたい事を応援してくれる「放任タイプ」。
私が求めているのは放任タイプなのだけど、うちの親は積極的介入タイプだから、近づき過ぎると息苦しさを感じたり「その愛はいらないよ」となってしまうのかもしれない。
その点、弟は親の愛情をうまく受け取り、お弁当をつくってもらったり、身の回りの世話を焼いてもらったりしている。親が与える愛と、弟が受け取りたい愛の形は上手くフィットしたという事なんだろう。
私はそれを見ても、特別羨ましいとは思わない。
例えば、実家にいたら「服を脱ぎ散らかしても洗濯してもらえる」というメリットがあるかもしれないけど、それは同時に「親に下着を見られる」という事で、「親のタイミングで洗濯が実行される」という事でもある。イヤ過ぎる。いつ新しい下着を買い替えたかなんて把握されたく無いし、私服はオシャレ着コースで分けて自分のタイミングで洗濯したい。
そんな感じで、私は私がしたい事をしたいタイミングでする事に重きを置いているから、ある程度親とは物理的距離があった方が良いんだ。あまりに近いと、親の愛が大きすぎて、つまり積極的介入を受けすぎて、私はそれを鬱陶しく思ってしまう。
私は家族が大好きだ。
ただ、お互いがちょうど良い関係でいるためには、私たちは近づき過ぎてはいけないと思う。この愛が長く続くように、私たちは離れた場所で生活すべきだ。そして私は適度に帰省して「遠い場所で生活してるけど、家族を大事に思ってるよ」というのを態度で示すべきなんだろうね。
私はつい、親の求めに応じたくなってしまうけど、そうやって自分の将来を諦めたら、老いた親に対して優しくなれないと思う。「若い頃自由にさせてくれてありがとう」と思えるように、私は今、自分がやりたいように生きるべきなんだろうな。なんて思った。
家族をずっと好きでいるために、家族の側に居続けない方がいい場合もあると思う。
— 暇真 (@note_itoma) December 8, 2024
「親が望むから夢を諦めたけど、本当はやりたい事があって…」という状況になったら、もともとは愛だったモノが、憎しみに変わってしまう。愛を最大化するためには、一時的に親の欲求を無視するのは仕方ないと思う。
2024/12/08_無職日誌(80日目)
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