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戦国大名!〈毛利氏〉

どうもふわすけdoです
歴史解説第二弾です
第一弾の記事も一番後ろに貼っておくので是非ご覧ください
では最後まで戦国大名の勇姿をお楽しみください。


1. プロローグ

戦国時代にて中国地方一帯を宇喜多氏とともに治め中国地方にて覇を唱えた大大名がいることをご存知でしたか?その名も毛利氏
もとは安芸国(広島県西部)一部を治める弱小勢力に過ぎずさまざまな戦いに明け暮れていました。そんな中いかにして毛利氏は中国地方で覇を唱えることができたのか紹介していこうと思います。


2. 毛利氏の家系

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Numbers(iPadアプリ)で作成しました(制作時間40分)
とりあえず毛利両川の武将を紹介いたします。リクエストがあればコメントいただければ幸いです。

 ○ 毛利氏

鎌倉幕府の忠臣である大江広元の息子である毛利季光を祖先に持つ名家で室町時代は影響力を弱めるも戦国時代に毛利元就により中国地方にて宇喜多氏と共に覇を唱える。
・毛利 元就
〈 毛利氏を中国地方統一に導いた 〉
毛利 弘元の次男として生まれたがお家騒動回避のために若くして母と別れ父は生活下で早死にし壮絶な幼少期を過ごしていた。ただしばらくすると兄と再会を果たし毛利氏の一人の将として様々な戦争で活躍。当主になってからは数々の外交戦略や武勇を発揮し毛利氏を盛り立てた張本人。その武勇から数々の人たちから人気を集めている。
詳しくはこの記事に載っているしこれ以上やると長くなるので後ろの記事をご覧くださいね。

・毛利 隆元
〈 毛利元就の息子として大内氏や尼子氏の戦いに貢献 〉
毛利 元就の長男であり弟も吉川 元春の武勇と小早川 隆景の知謀を足して二で割ったバランスの良い名将。若くして亡くなるが亡くなっていなければ毛利氏はもっと発展することになったことはまず間違い無いだろう。若い頃に大内氏に人質として預けられるが環境はそこまで悪くなかったようで大内/毛利連合の尼子攻めで父子で再会を果たす。

・毛利 輝元
〈 毛利氏の血筋を守り抜いた西日本の大御所 〉
毛利 輝元は野望が大きく毛利氏を縮めた愚将と呼ばれることもあるが豊臣 秀吉や徳川 家康に叶うはずもなくただ時代の流れに最低限あらがった勇将と呼べるだろう。実際に桃山時代では二番目の勢力を誇り関ヶ原の戦いでも西軍の総大将を務める程の器量を持ち両川に支えられつつ動乱の安土桃山(織豊)時代を生き抜いたことができたことは評価に値すると思う。というよりはシンパシーを感じるというか親の代とかがすごいとプレッシャーとかあると思うんですけどそれでも生き抜いたことは先例というかそれを知ると励みになりますね。

 ○ 吉川氏

・吉川 元春
〈 数多くの戦いに勝利し無敗伝説を持つ猛将 〉
100もの戦いに参戦し無敗という伝説も持つ武勇派の大将で毛利 元就の次男として誕生。母である妙玖の実家である吉川氏に嫁ぎ以降も対 織田信長戦でも豊臣秀吉が中国大返しを始めた途端 追撃すべしと強く主張したことなどから吉川元春の武勇がうかがえるであろう。

・吉川 広家
〈 毛利氏を守った外交官 〉
吉川 広家は吉川 元春の実子で吉川家16代目当主です。その後岩国藩の藩主となり幕末まで長州藩を支えた。吉川 広家は毛利家では安国寺 恵瓊に並ぶ外交官の立ち位置にあり関ヶ原の戦いでは安国寺氏は西軍に吉川氏は東軍と内応していたためどちらにせよ毛利氏を守ることができていたということなんだとか。ただ関ヶ原の戦いにて西軍は敗北し安国寺 恵瓊は捕らえられ斬首されてしまう。まぁ逆に西軍が勝てば吉川 広家が斬首だったと思われるため毛利氏を命懸けで守った外交官と言えるであろう。

 ○ 小早川氏

・小早川 隆景
〈 毛利氏を豊臣秀吉から守った世渡り上手の智将 〉
小早川 隆景は毛利元就の三男として誕生し厳島の戦いなどでも両川の名に恥じぬ活躍を見せた。武勇派の吉川 元春とは異なり知謀で行う戦は豊臣秀吉も認め朝鮮出兵でも撤退時の総督者として任命したほど。
ちなみに中国大返しでは「去る敵を追わず」の通り武力抵抗を訴えた吉川 元春に対し豊臣秀吉への服従を瞬時に判断し毛利氏の安寧を考え続けた。その影響もあり小早川 秀秋(豊臣家の親類)がいつか問題を起こすことを読み取り毛利氏の容姿ではなく小早川氏に養子にもらい受けたほどであるという。

・小早川 秀秋
〈 関ヶ原で家康と内応し東軍の勝利に貢献 〉
豊臣 秀吉の親類(実家:木下家からの親族)として豊臣家において重視されたが秀頼の誕生で小早川氏の養子として小早川 隆景お預かりとなった。小早川 隆景の死後に小早川家当主として関ヶ原の戦いに参戦。要害:松尾山城と1.5万の兵を引き連れており西軍内でもかなりの大勢力だったが東軍の将兵らと内応し西軍に雪崩れ込んだことで東軍の勝利に貢献。旧宇喜多氏の領地の備前岡山藩の藩主に任命された。だが少年期からのアルコール依存症の反動として早死にし後継もいなかったため小早川宗家は断絶した。


3. 毛利氏の勢力圏と政治

勢力圏の変遷や代表的な政策を紹介します。

 ○ 勢力圏

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1516年…毛利 元就の前の前の当主である毛利 興元の代に9人の豪族が盟約を結び
     安芸は一時的に一つにまとまり毛利氏も平穏を保っていた。
1560年…この頃には大内氏と手切し所領を奪取し中国地方の統一まであと尼子氏
     と豪族を残すのみだった。
1582年…上図のものは1582年の末期の図で織田 信長の後継者となった羽柴 秀吉
     (のちの豊臣秀吉)と宇喜多氏と毛利で三分する領地配分となった。
1600年…関ヶ原の戦いにて西軍総大将を務めた毛利氏は改易やお家取り壊しは
     免れたものの減封され毛利氏はかつての所領を大きく減らすこととなる
(毛利氏の最盛期)…違う参考文献を用いた資料のため上図に混ぜるわけにはいかなかったため下にて掲載いたします。ちょうど織田 信長が石山合戦に手こずっている1870年代に毛利氏は宇喜多氏と同盟を結び中国地方の大半を支配下に入れていたためこの頃が毛利氏の最盛期と言える。

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 ○ 内政

・毛利家の傘連判状
毛利氏が安芸国や備後国など現在の広島県一帯を中心に治めた成長期の段階で毛利氏が改めて国人衆と盟約を結ぶためにこの判状を作ったとされる。この判状は。豪族や家臣が対等な関係であることのあらわれとして傘の広げたように円を中心に棒状に名を連ねることから傘連判状と呼ばれ、また人を大事とする価値観は毛利家の基盤となっている。

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 ○ 外政

・両川(りょうせん)体制
毛利氏を中心に小早川氏と吉川氏が左右の腕となり毛利氏を支えるような形になったことからそれぞれの「川」の文字をとって「両川体制」または「毛利両川」と呼ばれています。内政かどうか厳しいラインですが外政として扱います。
養子縁組などで毛利氏を盛えさせ、残してゆこうとする元就の戦略に圧巻!。
・宇喜多氏との協力
宇喜多氏は備前とその周辺など現在の岡山県を中心にした勢力で毛利氏とは同盟という形でしたが実際は独立ではなく保護下といった感じです。豊臣秀吉の中国地方への出兵では毛利から手切れし豊臣秀吉に加担した。そのため豊臣秀吉が迅速に中国大返しを果たし天下を取れたことの遠因とも考えられる。


4. 毛利氏の戦い

  - 安芸平定

ここでは「有田中井出の戦い」と「相合元綱の内紛」と「郡山城の戦い」と毛利の武名を轟かせ安芸国統一の足掛かりとなった戦いである3つを紹介いたします。
・有田中井出の戦い
安芸で最大級の豪族である安芸武田氏が尼子氏の庇護を受け毛利氏との盟主である吉川氏の所領に侵攻してきた。当時、当主である毛利 興元を失い不安定になった毛利氏の情勢から救援に来れぬと見計らい行ったものと考えられている。そこで家臣らは傍観と参戦の二論に分かれていたが参戦を決意。有田城を取り囲む武田軍を牽制しつつ中井出に陣取る猛将:熊谷 元直を討ち取り武田軍を崩れさせた。最終的には総大将の武田 元繁も討ち取ることもでき毛利氏の武勇は安芸全土のみならず中国地方一帯に広がったのだった。
・相合元綱の内紛

元就の父の三男に生まれた異母弟であったが幸松丸が若死し家中が不安定になる中で渡辺 勝や坂 広秀などが相合 元綱を引き立てクーデターを画策していた。そのため元就はお家安泰のために船山城に構える相合 元綱を滅殺。またクーデターを企てた2人は誅殺された。
・郡山城の戦い
毛利氏が拠点を構える郡山城に尼子氏が侵攻。大内氏の増援を待っている余裕もなく元就らは勝機を模索。しかし元就は家中に間者(裏切り者)がいることを見破り兵法の第三十三計の“反間の計”により尼子氏を囲地と呼ばれる守りにくく攻めやすい青光井山に陣取らせ大内氏とともに挟撃。尼子一族でも勇将:尼子 久幸を討ち取る戦果をあげることに成功した。

  - 月山富田城の戦い

 ・第一次月山富田城の戦い
郡山城にて勝利した毛利氏と大内氏がてを結び出雲に侵攻した。尼子氏に従属していた勢力が大内氏に寝返り月山富田城まで迫っていた。しかしそこから大内氏から寝返り尼子氏に戻る氏族が急増。これが尼子氏の謀略であった可能性が高いがそれによって大内氏は撤退を決意。本来は大内氏の不甲斐なさが招いた敗戦だったが毛利氏が殿(しんがり)を務め多くの将兵を失う結果となった。またこの戦いで毛利 元就の身代わりとして亡くなった渡辺 勝の息子の渡辺 通が討死し忠義の将として今でも一部層で尊敬されている。

 ・第二次月山富田城の戦い
毛利氏が勢力圏を広げる中で最後の最大抵抗勢力である尼子氏との合戦で地獄の兵糧攻めと化した戦争で毛利氏の中国地方統一の総仕上げとなった戦いである。
出雲国の各城を落とし海上の警備を行い完全なる包囲網を形成。猛将:山中鹿之介の抵抗も虚しく尼子氏の月山富田城は落城し中国地方一帯は毛利氏の所領となったのであった。
またこの後に尼子再興軍が山中鹿之介ら尼子残党により形成されるが皮肉にも自分たちの元居城の頑強さを前に敗北してしまっている。このことから月山富田城がいかに頑強なのか窺えるだろう。

  - 厳島の戦い 

大内氏でクーデターを起こした陶 晴賢は謀反の兆しを見せ始めた毛利氏に危機感を覚え毛利氏を打ち破る計画を練っていた。七千の兵を晴賢は派遣したが三千の毛利の兵を前に打ち破られてしまう(のちに前哨戦と呼ばれる「折敷畑の戦い」)。
すると晴賢は二万の大軍を引き連れ出陣し毛利は窮地に立たされた。しかし毛利氏はまたしても間者の前で嘘の情報を漏らすことで晴賢の忠臣を失わせ、また厳島に宮尾城というあえて弱い城を築きまた桂 元澄に嘘の寝返りを行わせ大内方の将兵を誘き寄せることに成功。また小早川水軍や村上水軍の援護も受け陶軍を挟撃することに成功する。結果的に陶軍は惨敗し晴賢は自刃しこの奇襲は日本三大奇襲の一つに数えられている。

  - 織田信長との戦い

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中国地方を含み兵庫以西を狙っていた織田 信長は重臣の羽柴 秀吉を総大将として派遣し毛利氏と戦わせた。その中でも名戦と謳われる2つを紹介しようと思う。
・鳥取城の戦い
鳥取城は吉川 経家が城主を務めていた難攻の城。その城の様子に羽柴 秀吉も力づくでは落とせぬと理解し包囲し兵糧攻めに持ち込んだ。また周りの商人から兵糧を毛利氏の倍の値段を出すといって買い取り完全なる兵糧攻めを行った。
半年後に鳥取城は落城。くしくも毛利氏は尼子氏を打ち破った月山富田城の戦いと同じ戦法で城を奪われたのだった。
・備中高松城の戦い
鳥取城の戦いとともに「豊臣秀吉の三代城攻め」に数えられる名勝負。清水宗治が城主を務める名城で湿地帯に囲まれた難攻の城でした。そこで羽柴 秀吉は豊富な水を逆手に取り近くの川を堰き止め川の水を流し込み備中高松城は一部水没し一帯は湖と化したとか。またこの城の落城とともに毛利氏と羽柴氏は和睦し羽柴 秀吉は信長の仇敵に当たる明智 光秀との合戦に向けて中国大返しを実行。結果的のこの戦いが明智 光秀と羽柴 秀吉の山崎の戦いの展開を変えた戦いと呼べるだろう。

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  - 関ヶ原の戦い

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天下分け目の関ヶ原の戦いで毛利氏は名目上は西軍として参加し当主の輝元は西軍の総大将となったが毛利輝元は大阪城で日和見。関ヶ原には息子の毛利 秀元や両川の当主の吉川 広家や小早川 秀秋を派遣し総勢は西軍の1/3以上にあたる3万でそのうち半数が寝返り半数は日和見であったため西軍の勝利は見えなくなってくると誰もが予想できるだろう。小早川氏はもともとそこまで立場がなかったため裏切りを敢行したが毛利氏はなぜ日和見に終わらせたかというと吉川広家が内応し毛利氏は参戦しないことを約束していたから、とわかっている。
詳しくは新しい記事で書きます。


5. 毛利氏の名城

毛利氏は中国地方で覇を唱えるまでそして唱えてからも数々のめいじょうを築いておりその中でもおすすめの城をピックアップしたのでよかったら(★は過去に筆者が訪れたことのある城)。でも参考文献のリンクの方をチェックしていただけた方が良いかと思います。

○ 郡山城  (広島県安芸高田市)
毛利元就が安芸統一のあたりから居城とした山城で広島城などと共に日本100名城に登録されている。
○ 宮尾城  (広島県廿日市市)
厳島の戦いに向けて毛利元就が築いた城であえて弱い場所に築かれているため名城とは言い難いが戦略上の重要仮拠点であったことに間違いはないだろう

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○ 三原城 ★ (広島県三原市)
小早川隆景が築いた水城で小早川水軍の拠点となりまた補給拠点としてかなりの重要な役割を果たした名城で江戸時代以降は三原藩として別氏族が統治した。

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○ 広島城 ★ (広島県広島市)
毛利輝元が築いた城で関ヶ原で敗戦勢力・外様大名とみなされて以降は福島正則が城主となり広島の町開発に着手した。戦前は旧国宝(当時でいう国宝)に指定されていた。
○ 萩城 ★  (山口県萩市)
長州藩の藩庁が置かれた城で砂丘上に築かれた名城。関ヶ原での敗戦後に広島城に代わる毛利氏の居城として築城された。
○ 岩国城 ★ (山口県岩国市)
吉川元春の息子の吉川広家によって築かれた平山城で城は山に築かれ藩庁は城下町に築かれ江戸時代に仙台藩や松山藩などで見られる典型的な形。唐造りの独創的な仕組みは人々を魅了する。


6. 毛利氏の武士道 (名言や教え)

毛利氏は数々の知将がおりまた数々の教えや名言を残しているためその例を紹介したいと思います。良い参考文献があった以下の武将のみ掲載しております(けっ、決してめんどくさかったわけじゃな、ないですよ)。

○ 毛利 元就
 ・我 天下を競望せず
  … 中国地方で覇を唱えた元就だったが大内氏の旧領を取ろうとしたことを除く
   とそれ以上のことを求めない武将としての謙虚さが窺える
 ・三矢の訓(三子教訓状より)
  … 毛利隆元(長男)吉川元春(次男)小早川隆景(三男)へ放った言葉
   3人が協力すればことは成就し仲違いとなれば皆は共倒れとなるということ
   隆元の死後は輝元に移行される
 ・百万一心
  … 一日一日を一人一人が力を一つにしてことを行うこと

○ 毛利 隆元
 ・文をもって治め①、武をもって守る② (前後に分けて解説します)
  ①… 功ある者を賞すれば忠ある者が増え、罪ある者は減る
  ②… 武力は他者を攻撃するのに用いるべきでなく己を守るものである

○ 吉川 元春
 ・律儀を旨とし、智少なく勇のみある者は単騎の役にはよいが、
  大将の器ではない

  … 後にこう続く「数千の将たる者は、自分の小勇を事とせず、智計において、
   人より勝る士でなければだめである。智勇あわせ持たずに、どうして百千の
   軍兵を指揮できようか」。


7. エピローグ

いかがだったでしょうか?
戦国時代の動乱の中で巧みな外交戦略と武勇で中国地方にて覇を唱えた毛利氏の武勇は勇気を貰えますね。
とまぁこんな話は前の記事でもしましたね。
編集中に気づいた超余談なのですが若干この戦国中国地方の世界観って若干ですが中国地方に似ている気がするんですよ。
次回予告とすれば記事を4つ近く書いてるのでいずれつぶやきます。
あとちょくちょく出てきた人のイラストは信長の野望での武将イラストです。
3/3〜3/15の暇なときに編集進めました。
今回ほとんどの図は自分とくるくるわ さんで書きました
文面も二人で書いているのでバラバラなところもありますがご了承ください。
また気になることや説明不足のところもいくつもあったと思うので気になったものはとことん調べてみてくださいね。


8. 参考文献

コミック版 日本の歴史『毛利元就』(ポプラ社 / 加来 耕三)
戦国の合戦と武将の絵事典 (成美堂出版)
戦国の城の絵事典     (成美堂出版)

https://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/mo_rekishi/index.html

歴史考証 … 攻城団〈 くるくるわ 〉さん


9.  プチネタ記事 『長州藩と幕末明治』

○ はじめに
余談なのかちゃんとしたネタなのか…
まぁそんなの考える暇あったら文章書けって話ですがね
幕末明治の変革期において長州藩はかなり重要な役割を果たしていたのは大河ドラマ好きとかは知っているとは思うのですが、その長州藩が幕末と明治においてどう重要な役割を担っていったのか毛利氏の立場になって解説していきたいと思います。
○ 本題   〜毛利敬親と幕末〜
毛利敬親は幕末における長州藩の13代目当主でそうせい候と揶揄されますがそのおかげで優秀な意見をより多く取り入れることができ長州藩の近代化を推進した指導者です。その毛利敬親の人物像は長州藩の討幕にどう関わったのでしょうか?

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毛利氏が治める長州藩は度重なる参勤交代と自然災害による影響を受け藩政が貧窮していた。そこで毛利 敬親は優秀な人材を登用し藩政改革を行う。また藩校の明倫館を開校し優秀な人材の育成にも力を注いだ。また「そうせい候」と呼ばれる家臣の言葉を否定せず積極的にやらせたため「下関砲撃事件」や「禁門の変」などさまざまな戦や問題が発生するが結果的には長州藩を潤わせ戊辰戦争や王政復古の大号令を成功させることの遠因を築いた名主とも言える。実際も戊辰戦争の論功行賞にて第一行にあたり島津 久光父子と同じ10万石を与えられた。新たなリーダー像としてぺこぱのような否定しない「毛利 敬親スタイル」がこれからさらに広がっていくことを願うばかりです。
○ おわりに
改めて幕末って戦国時代に並びロマンがありますよね
僕は幕末の志士としては大鳥圭介 公が好きだったのですが長州藩の志士も興味深いですね。深く調べてまた記事にします。
戦国時代だけでなく幕末でも活躍した毛利氏もはや凄いですね…
参考文献が少なくてテーマとして固まっていたのですが内容がそこまで充実していなかったかもです。細かいところは皆さんで調べてください。
○ 参考文献


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