「ファンを持つ」責任と「ファンであること」の責任
ひとの繋がりを作るそれぞれの責任についてのお話。
ネットニュースを見ているとひとつの記事を目にしました。それは後で紹介することにして、先に書きたいことを残します。
そうですね、わかりやすい例でいきましょう。
音楽で自作の曲を売り出した人を「アーティスト」、その曲を聞いてくれる人を「聴衆」とかっこよく言いましょうか。そしてその関係がビジネスとして成り立って、さらに芸術としても成り立つようになったとするとそれは、それらに関わる人たちのさまざまな責任が重なって生み出された結果です。
責任と口にすると「やらされる義務感」と捉える人が非常に多くて、これが人と話をするときにとてもやっかいなんです。責任の言葉を出したとたんに引かれる。それもおじけづかれるというか、もうこの話できないんじゃないかとさえ思うくらいのときもあります。
でもよく考えてみてね。
責任の意味って👇
です。そしてこれは自らが負うことを自覚しての前提。誰かにやらされたり、擦り付けられたり😅するものでは決してありません。
この責任がアーティストや聴衆にもあります。大きく言えば、
ビジネスとして成り立つには、この責任関係が必須。
ところが先ほど紹介した記事には「ライブで聞きたかった曲だけ聞いたら帰るファンにアーティストががっかりした」という構図が書かれていました。
アーティスト側からしたら「え~っ!もう帰るん?(@v@)」でしょうし、観客側からしたら「聞きたかったの聞けたし、他の曲ってつまらないもんなぁ」でしょうか。状況からして気持ちはわかります。
アーティスト側はヒット曲以外は聞いてもらえないからヒット曲は歌わない。聴衆側は聞きたい曲以外はおもしろく聞けないから帰る。こうなってしいまうと、どちらも反対の方向を向いているでしょう?
お互いが自分たちが背負う責任を果たしていないのです。
このニュースの歌手、永井真理子さん。私とても好きな歌手の一人ですが、ファンの「ヒット曲だけ聞いたら」帰ってしまう行動に怖くなってしまったんですね。心情はどうあれ「届ける責任」を投げてしまった。これは残念ですし、ファンの人も離れていったのかもしれません。
ですがコアなファンの方々が復帰を望まれて、それに応えようと永井さんも復活した。アーティストとファンのお互いの責任が結実するようになっての復活をした彼女は、今後楽しみな活動をしてくれるだろうと思います。
でね。このアーティストと聴衆の関係。大きく視点を広げるとどこにでも通じます。noteやXでの(Xはちょっと違うけど)フォロワーさんは聴衆、フォロイー(フォローされている人)はアーティストなのです。
だからそれぞれの責任が存在する。それぞれの責任を全うし、お互いの関係が結実したらいろんな意味で結果が出てきます。
それぞれの責任を全うしましょうよ😊。
せっかく、「発信しよう」「応援しよう」の立場を自ら選んだのですから。
👇今回の記事を書くきっかけをいただいた記事です。
消えたら嫌なので全文引用させていただきます。
永井真理子さんがんばって!。応援してます。