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言葉の重みは口にする回数か?

誰もが迷う「愛する言葉」の重さについての記録。

本日も書下ろしで残します。テーマは言葉の重み。

書いていると3000字弱になって少し長めになりましたので、コーヒーやお酒などお好きなものを片手にゆっくりと読んでみてください。

書き残す回数を重ねれば書く内容も変わるかもしれません。でも「今の時点ではこうだ」ということを残す。これは自分の考え方の履歴になるので有用です。そしてあわよくば、みなさまの何らかを考えるきっかけになればこんなにうれしいことはない。

言葉を言った人によって重みが左右されるというのはよくある話です。また、言葉自体に重みがある・ないということもよくある話です。

私はこれを断ち切った世界を作りたいという考えでnoteを書いていますが、おおむねそれはできそうなことだなと感じてきています。

これから書くことはおそらく、ほとんどの人が一度は考えたことがある内容かもしれません。答えがないものだけに答えを求めようとはしませんが、なぜそう思うのか・感じるのか、だけは外さないように書き残します。


愛していると何度も言ってほしい女性。

女性の多くはそう考えているのかもしれないですね😅。周囲を見渡す限りそんな話をよく聞きます。

でももし、日常で愛しているが溢れたら、幸せだけれどもその一方で、愛しているの言葉が軽くならないか

これも世の男性陣(日本人だけかもw)は一度は思ったことがあるはず、いや口にした人も多いかもしれません(笑)。このテーマを外国の人と話すとね、面白いことに彼らは口をそろえてこう言います。

ユーはなぜそんなしょーもないことに頭を使うんだ、
愛しているなんて何回言っても減らないじゃぁないか!
だから毎日、それこそ顔を見るたびに言うんだよ😆

外国人の言葉をわかりやすいよう訳したもの。実際はもっとファンキーな英語w

言葉に重き意識を置こうとするのは、どうやら日本人の特徴らしいですね。なぜなのか、その理由を考えてみたんです。そしたら面白いことがわかりました。

街中の駅の改札前で日本人のカップルが名残惜しそうにいちゃいちゃしているのを見たとき、なんか腹立ちません?😅。いや、自分のリアルが充実している・してないはちょっと置いといて、第一感情は「なにやっとんねん」が多いと思うんです(たぶん偏ってるかも)。

ところがね、このカップルが金髪の似合う青い目をした外国人の美男美女ならどうでしょう。まるで映画の1シーンを見ているかのごとくスルーしますよね。場合によってはチラ見で眺めながら(うらやましい…!)などの心の声を抑えつつ横を通り過ぎているかもしれません(笑)。

これこれ。この違いが言葉の重みを考えるか考えないかの違いになっている。

え?なんのこといってるかわからない?

では紐解きましょうか。

日本人、外国人とも愛情表現のもとは、好きだ・愛している、で同じです。そしていちゃいちゃしている行為も同じ。ところが違うのは、それを眺める人の意識

外国人は、外国人や日本人たちがいちゃいちゃしているのを見ても、映画の1シーンのように気持ちはスルーします。ところが日本人は、外国人たちは許せるのに日本人たちがいちゃいちゃしているのを見ると「なにやっとんねん」と思ってしまう。ここに日本人の、日本人たる意識が隠れています。

つまり日本人は、自分たちは日本文化に染まった人間だという自意識があるんですね。そしてその日本文化とは、「謙虚であるべき」と「自慢しないが美徳」という意識に影響された独特のもの。そこには、言葉の重みすら重視するという根っからの古い思想が宿っているみたいです。

だから日本人カップルを見ている日本人の私たちはもはや、「言葉の重みを大切にする」という思想から抜け出せないどころか、どっぷり浸かってしまっている。その確たる例として、日本人男性は「愛している」を連発することに疑念を持つ、ということ。頭では外国人たちの「愛している連呼」が正しいとわかっていつつもどこかで、「愛しているが軽くなってしまう」意識を持ってしまっている。だから愛しているをたくさん言えない。

もはや私たち日本人はその呪縛からは逃れられないでしょうね😅

どうすればいい?なんて声も聞こえるかもしれませんが、これはもうそんな日本文化とうまく付き合うしかないと思います。

でもそんなこと言ったって、「愛している」って言われなかったら不安だ、確認ができない、言ってほしい、などいろんな声が女性からは振ってきそうですが(笑)、そこね~、考えてみたんですけど、こうじゃないかな。

・「愛している」の言葉が欲しいのは「愛されている実感」を形成中
・「愛されている実感」は「愛している」の言葉の量から作られていく
・一度「愛されている実感」が作られたら、次は「愛している」の言葉を発するタイミングで「愛されている実感」を実感する

愛しているという言葉が欲しい理由

つまり、「愛されている実感」を作り上げていくための「愛している」と言う言葉が、一度その実感が形成されてしまったら「愛している」の連呼はもう効果がないといういこと。ここまで来たら効果があるのは「愛している」というタイミング。このタイミングが、既に出来上がってしまった「愛されている実感」をさらに発展させるには必要なこと。そしておそらくこれは、

日本人にしか通用しない
「愛している」と発するタイミングを重視する文化

だと思います^^。

ね?こう考えたら、言葉の重みを重視してしまう日本人文化とうまく付き合っていける気がしませんか😊?

だから世の男性日本人たちは、愛しているはこまめに言いましょう。そして二人で愛し愛されている実感を持てたのなら今度は、愛していると言葉を交わすタイミングを外さないようにしましょうか(笑)。

むずかしいんだけどね~これ😅。激ムズだとは思います。駄菓子菓子、これは必要なことですわ。

いや、まじでそれくらいしか、言葉の重みを人によって変えてしまうようなことをスルーするやり方ってないような気がします。

もっと私の考え方が発展していって良い方法が見つかるかもしれませんが、今のところはこの方法を極めていくほうが現実的だなと思います。

なんか話が少しずれた気がする?(笑)、いや、ずれてないか。

いったんここらで纏めておこう、今の認識を。

言葉の重みは回数だけど、回数にあらず。
それは作り上げたい意識の関係の段階によって、
回数から回数でない方に変化すること。
その変化をしっかり把握しておけば、
「言葉の重みが回数か?」の疑問ぐるぐるからは解消される。

こんなとこでしょうか。

愛する愛される、愛されたい実感などなかなか現実的は話を例にあげましたが、そんな偉そうなことを言えた私ではありませんので😅、

ディエムが言っているということと、
言ってる内容は
切り離して考えてくださいね!



※こんな #なんのはなしですか あってもいいよね~(笑)
※駄菓子菓子を初めて使えた喜び(笑)


#言葉の重み #国語 #愛すること #コミュニケーション #生きる


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