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『ウェンディ&ルーシー』(ケリー・ライカート、2008年)

『リバー・オブ・グラス』(1994年)、『オールド・ジョイ』(2006年)、『ウェンディ&ルーシー』『ミークス・カットオフ』(2010年)と監督作をまとめて見て気づくのは、ケリー・ライカートが疎外に並々ならぬこだわりを持っているらしいというごく当たり前のことだ。
たとえばデビュー作の『リバー・オブ・グラス』は明るくうらびれた主婦が似たような境遇の男を連れて殺人犯になろうとするし、ひと時代空けて撮られた長篇二作目『オールド・ジョイ』では既婚男性と未婚男性の埋めがたいギャップが暴露されるし、西部劇をジェンダー的かつ人種的に再構築した『ミークス・カットオフ』にいたると人々は文字通り荒野をさまようしかなくなる。
生きることは辛いこと。ともすれば悲観的すぎるこのテーマは、どうしようもなくライカートの映画に横たわっているように思われる(全作を見たわけではないので念のため「思われる」と書く)。
とはいえ、映画が本来楽天的なものであることも違いなかろう。見終えてほんの少し頬を緩ませ、どれもうしばらく生きてみるかと思いながら映画館を出る。こうした経験は少なくとも私にとって一度や二度ではない。大体映画なぞ誰かに見られるために拵えられるのだから作り手とて未来について考えぬわけがあるまい。
ライカートは映画をつくりながらこの楽天主義と悲観主義をほとんど同時に唱えている。いいかえれば、彼女の映画のなかで人は絶望の淵に追いやられるとともにわずかばかりの希望を掴むのだ。
『ウェンディ&ルーシー』はそれを極限まで押し進める。

若きウェンディ(ミシェル・ウィリアムズ)は、愛犬ルーシーとオレゴンからアラスカを目指して職探しの旅に出ている。所持金も底を尽いてきたウェンディはふと魔が差してルーシー用の肉を万引きし、捕まってしまう。数時間後店に戻るがルーシーの姿はない。折しも車は故障して動かず、ウェンディは焦りだす。たまたま知り合った老警備員の力を借りて保健所を覗いても見つけられない。車中泊も相棒も失ったウェンディは田舎の姉夫婦に金銭援助を求めようとするが貧しい彼女らに頼ることもできず、八方塞がりに陥る。すると、保健所から連絡がありルーシーが見つかったというが、すでに貰い手がその身を受けとっていた。ウェンディはルーシーとなんとか再会を果たし、ルーシーの幸せを願いながら郷里へ帰っていく。

犬ものなどというジャンルがあるかどうか定かではないが、仮にそのようなものを提唱してよければ、『ウェンディ&ルーシー』は間違いなくその歴史に名を連ねるはずだ。
そう断言したくなるのは、ひとえに実際そう名付けられた名犬ルーシーによる名演のなすところが大きい。
なんといってもその無邪気さがいい。なにせミシェル・ウィリアムズに本気で尻尾を振って懐いているのだから、ルーシーは群を抜いて見る者に親しみを起こさせるし、ウェンディとの再会時われわれが久方ぶりに見る黄金色の背中はルーシーならではの愛おしさを醸す。この世に犬映画は数多あれど、ここまで愛情をもよおさせる犬とていまい。

無論、それを引き出したライカートの功績は計り知れない。おそらく役者に本当に車内生活をさせたであろうこの作家は、ウィリアムズとルーシーの仲睦まじい雰囲気が画面に充溢する点からもあきらかなように、外部描写に徹底して執着するリアリストである。ノマドの髪は軋み、爪は汚れているのだ。
両者デビュー作でただならぬ浮遊感を獲得していながらも、アメリカ映画のインディペンデント道を堂々歩む『パーマネント・バケーション』(1980年)のジム・ジャームッシュとの差異はここにあるといえよう。

リアリズムの感覚はウィリアムズが次第に見せる「寄らば斬るぞ」といわんばかりの無機質さからも放たれる。拿捕され、罰金を取られ、愛犬と離ればなれにされ、車にそっぽを向かれ、家族からも遠慮がちに遠ざけられ、自身の鏡像と思しき惨めな男性に対峙させられ、ウェンディは行き詰まる。事態が悪い方向に転がっていけばいくほど、いくら活発といえど彼女はこちらに哀感を覚えさせるだろう。
要するに、ウェンディは目も当てられないほど可哀想なのである。明示的に説明はされないが、本当は根の好い彼女がおそらくは不景気で職を失くしたのだと気づいたとき、観客は同時に彼女の罪が罪ではないと知る。真に悪いのは社会のほうだからこそ彼女のさまを見ていられないのだ。

しかし不思議なことに、この映画はかようにリアリズムを追及するとともに、それとは無縁の――あるいは逆にハイパー・リアリズムとでもいえようか――ロベール・ブレッソンを参照したとしか思えない画面が展開されもする。万引き後パトカーの後部座席に座らされるウェンディを助手席から捉えたショットは『抵抗 死刑囚の手記より』(1956年)の模倣であろう。ウィリアムズのぶっきらぼうな表情がブレッソンのいう〈モデル〉の概念に近接しているように感じられる。
それ以上に、この映画では手のクロースアップが多用される。特に金銭授受にかんするシーンでそれらが導入されるのだから、これがブレッソンの遺作『ラルジャン』(1983年)への意趣返しであることはあきらかすぎるほどあきらかだ。
罰金やタクシー料金でのみ交わされる手、あるいは反対に金を出すまいとして捕らえられた手。手が大写しになったらそれはウェンディが痛ましい目に遭うことを示す。

ウェンディはほとんどすべてを失い、行くことも帰ることもできずただここに居留まらねばならないという非決定状態のまま宙吊りにされる。これほどの悲劇があろうか。
終盤、為す術もなくうずくまるウェンディに、老警備員が話しかけてくる。保健所から電話があったから掛けなおしてみろ。携帯電話を渡されたウェンディは果たしてルーシーが見つかったと知る。映画で最も感動的な瞬間が訪れるのはこのときだ。貰い主の住所をメモしようとして慌てるウェンディに、ペンを持った1本の手が伸びてくる。警備員の手だ。この瞬間、キャメラはことさら彼に切り返すこともなく、ただウェンディのバスト・ショットにさりげなく手が滑りこむ。これまで全篇を通じて手の表象が冷淡なものでしかなかったことを知る観客にとって、彼の手はどこまでも慈愛に満ちた温かい手なのだ。これが絶望のなかの希望でなくて何だろうか。これもまた明示されぬまま終わるが、老警備員も不景気のあおりを食った人物のひとりであった。

ライカートの映画において、人は人を思いやることができる。『オールド・ジョイ』の未婚男性がホームレスに小銭を差し出したように。『ミークス・カットオフ』の妻が先住民に水を差しだしたように。
隣人愛も棄てたものではない。

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