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美についての一考察

デザイン性が優れている、ということも一つの解ではあると思う。

機能に準じたものを作れば、それは自然に美しいものになるという考え方も知っている。だが、それでも「美」についての全てを語っていることにはならないだろう。

美とは、より全体的な、もしくは全体を内包している概念なのだと考えている。その全ての要素が、纏まりを得て、それは「美しい」という感想や感激を生み出すのではないだろうか。

絵画に感嘆の息を漏らす時、それは何も構図が綺麗に決まっているとか、美麗に描かれているということは一要素に過ぎず、考えうる全ての美的要素が総合して、一つの完成を得ていることが、感動の因子なのではないだろうかと考える。そこには不純物は含まれず、単純な自己表現に終わるものも、皆無である。美は昇華されて生まれ出るものなのだ。

自然の風景を美しいと思う心もある。そこには手垢が存在する余地はないし、人間の意図というものに支配されない厳然とした美が存在しているからだろう。それを写し取ろうと、執念を燃やして描く画家も多いと容易に予想はつく。その自然物そのものも、描かれた絵画も、同質ではないが、美的な要素を含んでいることに違いはない。前者も後者も、しかし見る人によっては、その美を共有するということがないことも起こり得る。ということは、美とは感性の問題なのか?こういう人間の触覚的な要因も含めて考えると、途端に美は難解な要因へと変化する。古今東西、過去から連綿と続く、美への問いかけは、終わりや決着を見たことがないことも不思議ではないことなのだ。

私見としては、美は「総合感覚」である。前段階として、美的な要素を含んでいることは言うまでもないことなのだが、そこから更に、全体としての完成を見る総合性があって初めて、人はそれに美的な感動を獲得すると考えている。その物事の背後関係も、そうした美を見る感性に響く要因の一つと数えることも忘れてはいけないことである。そうした意味でも、総合した感覚と言えることなのだ。

個人的な趣向としては、加飾の類に美を感じることは少ない。むしろ引き算の美という方面に陶酔をすることが多い。無駄がない、そして押しつけがましさが無いことが、美という要素として強いものである。しかし結局は、それ自体を目にしないことには、それを美しいと思えるかどうかは未知数となる。「君は、こういうものが好きだったよね」と言われて渡される何かが、私の美的な満足を得た試しがない。それはつまり、「要素」だけでは不足なのだ。考えてみれば当たり前なのだが、感性は実際に目にしないことには、つまりは総合的な判断を下せないことには、判別しようもないことだ。

逆に言えば、自分の中に潜在的にある美感は、実際を経て躍動することである。ショッピングで店内を見回していると、わっと心動かされるものに出会う時、それは意外性と、元々こういうものが好きなのだという実際が混ざり合って、結局は好みに合致するという出来事になる。それは案外に説明が難しいことでもあって、だかしかし自分にとっては自明の理であって、その判断を誤ることはない。

美に理論があることも知ってはいるのだが、そうしたことを知らずとも、美を前にすると心は踊る。何を言いたいかといえば、美は理屈ではないのだ。感性に響いているという事実が、それが私という人間の美への捉え方を表出しているのである。再三に繰り返すが、「美」とは昇華現象なのである。

ちゃちなものに対して不快感をもよおすのは、「こんなものでいいだろう」という製作態度の元で、それが生み出されたからに他ならない。その心象は、モノそのものに反映される。過去に大量生産品というものが、粗悪品であることと同義であった時代は、ニーズを満たすことのみに意識を向けた、その結果なのだろう。反して現代に大量生産であることと、粗悪であることはイコールでは繋げないものだ。これは美という感覚、感性、実際が、生活に浸透しているという喜ばしい現実なのである。人は、必要のみにあらずなのだ。道具も美術品も、どんなものもその場限りの関係であることはないのであって、長い付き合いになるのなら、選んで使えるものなら、そこには美的要因が欠かせない。

最後に、ただ美しければいいというものでもないこともあるという事実について語る。茶器には歪みというものが、美しさを加味するという考え方がある。◯◯好みと茶道家の名前を入れれば、美感はいかにもなそれであれば美しいというものでもないという日本的な考えがあることに、私は興味深さを感じる。利休好みであれば、それは簡素であることがとても重要な要素となる。元の道具の使用の用途を離れて、茶器として使用することによって美しさを発したこともあるのだと言う。割れた皿を金継ぎすることも、それ故に美を増すという現象が起こり得る。意図しない、美の誕生という訳だ。

朽ち果てる美、滅びの美学というものもある。ここまでいくと、美に耽溺し過ぎではないかというのが私の見解なのだが、抗えない感性であることも、美の要素として数えても嘘にはならない。美術とデザインには、明らかな線引きがある。どちらも美を追求しているのは間違いないのだが、未だ美術に軍配が上がることに、私は特に異論は無い。美の奥深さは用途を超えることも視野に入れなければ嘘になると思うのだ。美の深遠さを知るのは、ついには人間の生き方に帰着するのだと思っている。

アーティスティックな美。造形的な美。生き方としての美しさ。美を取り巻く考えは、終わることがない、人生に付随する、必須の追求するべきことである。新しい美を知る時、人は人生を新生する。

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