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ポメラで書くということ

主な使い道は、「思いついた一文を保存する場所」である。

メモとしては長く、かといって長文を書くという訳でもない、そんな文量を収めることが主な用途となる。使い続ける内に、そうした使い分けが可能となっていき、それ故の在り方を獲得しているのが私のポメラとなる。

Wordでもない、Google Keepでもない、そうした選択肢があることが、私の書くことを一様に終わることをさせない。PCと分離した機能があるということが、書くことを多様にしてくれることになる。

ポメラというものを使い始めてから、ずっとこの調子なので、私の独自的な使用方法になっているということは自然な流れだとしても、この自然獲得的な機能性との付き合い方が良いと思っている。私がそうした使い道を見出したということが、きっと重要な意義を持つ。本来的な、スペックとしての使い道なら、これ一つで作品を一作書き上げたり、ページ分けをして様々な用途に対応させることはできるのだろうけども、私はポメラの単一的な部分を重要視している。それに合った使い道としてはとにかく「メモというには、少し長い文章」や「思いついた、意義深い何か」を書き記すことに限ることになる。

使う時間は長くはない。頻度も多い訳ではない。しかし、無くてはならないというモノであることが大切な実際である。これの代用品はない。メモ帳で同様のことをしても、きっと意味が異なるのだ。身体感覚として、ポメラを使うモードみたいなものがあって、それに合ったものが書けるということが心強い。まさに身近にあってくれて助かるというモノなのである。いつかもしかしたら、使い方は変わるのかもしれない。しかし、今の在り方が、今の私の原動力を支えているのが事実なのである。

執筆するという行為に特化したデザインであることが、また意義深い。それを目に入れると、書くということ以外は考えなくなるという効用もある。自分の書くという行為の集中力が削がれないのだ。             そして、ここで書く記事というものを「乱発」しないで済んでいるのは、ポメラの存在するお陰だと言って言えないこともない気がする。一旦はどこか自分用の場所に書きたいことを書き、するとそこから他者に発言するに値することが浮かび上がるということも多々あるからだ。普段の様々な書き方というものがあって、その纏まりとしての執筆、記事がある。

過去に書き溜めたものをポメラで見直すというのも、私の創作行為には必須である。その時にだけ、書けたことがある。それを思い出し、次の執筆の繋ぎとして機能するのだ。過去の自分の執筆行為が今の自分に影響を与えるということがある。その記憶のリマインダーのようなものは自分を引き上げ本来的に戻す役割がある。気落ちしている時に過去に書いたものを見直すと、気分が立ち直っているということもある。これは自分の書きたいように書けているという実際があるが故だと思っている。自分には「本来的」な状態というものがあると考えているので、その状態になっているか、又はその状態から離れてしまっているかは、意識的なものだけではなくて、客観的な出力の成果からも、見て取れる。過去の執筆というものは、その絶好の事例となる訳だ。

マルチタスクを前提としているのがPCの機能面である。その点で(noteもそうなのかもしれないが)ポメラには、そうした意図的な機能面は無い。どこまでも単一的である。それが、とても良いのだ。「他の機能があることで気が散らない」という側面が、恩恵として活きている。noteという場所でも広告がちらつき始めたら、今のような活性は望めないと思う。余計な情報を捨てることができることが、とても大きな「機能」なのである。

頭の中はクリアであったり、カオスであったりする。そうであるので、単一性というものは、カオスの場合でさえ、頭の中を整序することに一役買う。バラバラな考えが纏まらないという時にもポメラを起動してみると、書きたい文章が綺麗に出力されたりもする。これは絶対的な成果ではないけれど期待していいことでもある。これはきっと私に限っていることではなくて、だからこその、ヒットをした製品という面もあるのではないかと推測できる。書くということは、多くの人に訴求するのだ。それはでも、それ故のものを書けた時に限る。だからこそ、その為の環境も無視できない要因なのである。

結局、Wordで電子書籍になるもの(予定)を書き上げてみたり、Google Keepで普段のあらゆることへのメモ書きを行い、そしてポメラで思いついた、ちょっとした一文を書き留めるということが常套手段となることである。私の執筆ルーティーンとも言えるだろうか。これに、noteでの記事の執筆を含めると、私の執筆活動の全容が、何となくでも浮かび上がるのではないだろうかと思う。

ポメラの記事を書いたつもりだが、ここまで書いて来て、noteでの執筆が最も特異なものであることを再確認した。誰かに読まれること前提の文章というものは、当然に書く時の心持ちも違うからだ。いつかそのことについても、書いてみるのも一興かもしれない。自分の内的世界が閉じないことは、noteありきなのである。唯一のルーティーン化していない執筆活動としてのnoteの存在について書くことは、内的世界と外的世界を繋げているものが、どういうものか認識することに役立つ気がする。

ポメラの存在を知って書くことの楽しさを持った時から、今現在に繋がっているかと思うと、それも意趣として実に面白いことである。私に限らず、書くという行為は、きっと誰かに求められている。

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