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紙の本について述べてみる。

一冊一冊が完結した形態となって、人は書籍を手にする。その一冊はどれも世界観を構成していると言っても過言ではなくて、そしてそれは実際の機能でもある。

「わざわざ」紙を書籍という形態にするのは、その内容が、そうするに値するものだと判断された、証左でもある。昔は丁寧に箱に入れられた文学作品も珍しくなかった。そうした丁寧さが、その内容の格を示す、絶好のメルクマールでもあったのだ。

情報の束ではあれど、過去はモノとしての側面も強かったのではないかと思う。愛蔵版という編集を丁寧にされた、長期間の保存、所有を想定された書籍の形態も存在する。つまりは、それは読めれば良い、という簡易の判断を超えていて、持っていること自体に喜びや満足感をもたらすものであったのである。

装丁というものがあることによって、モノとしてのメッセージ性も高いものと言える。ぱっと見で、人に購入したいと思わせる訴求力の為の側面というのも当然にあるが、それ自体が完成するために、装丁というものが不可欠なのである。

内容という情報が古びない限り、それは価値を変えない。古本屋というものが存在することが可能な理由は、リサイクルショップ的なものではないのだ。流通に乗らなくなってしまっても、その価値を「変えない」という存在理由が、人を、読者を、昔の書籍の購入に向かわせるのである。判読可能な限り、その内容如何で、価値は普遍的な様相となる。アナログな存在であることが、未来を貫通することになるのは、面白い現象だと思う。それは保存に適しているし、ネットワーク「無し」でも価値を変えることはないのである。

過去に「民芸品」というものがあった。それは名もなき職人達が、無意識の領域で作り上げた、無数の手数の掛け方から生じた日本的な、そしてアノニマス的な美の在り方であった。それは当時は当然に価値というものは認められず、単なる日用品、もしくは雑器という扱いに過ぎなかった。それが、ある時期に光を当てられ、価値を増大し、今はそれらは、市井の人々の手に届くことは無いに等しいものになった。値が付けられない、「非売品」となったのである。つまりは流通に乗ることすら無いものなのである。経済的な観念で語ることすら出来なくなってしまったのだ。

紙の本にも、この傾向は出てきている。生産されることがなくなって、尚且つ流通にも乗らないそれは、プレミアが付くという現象によって当時の値と比べて破格の値段になることもザラなのである。「運良く」流通している時に購入すれば、安価とも言えるような値段線で購入が普通に可能なのだが「運悪く」その機会を逃してしまうと、手に入れることは難儀になったり、値段的に、遠慮せざるを得なくなる結果となることになる。情報内容は変わらないのに、モノとしての側面が、その外面的な価値を変動してしまうのである。

その点、電子書籍にはそれが無い。いつ発売していようが、何年経過しようが、その値が変わることは皆無である。これは画期的であって、我々の為になる現象であると言えるだろう。そのモノとしての側面を思い切ってバッサリと切り捨て、情報の束であることのみに焦点を絞って生まれたものが、電子書籍という形態である。それ用の端末であったり、スマートフォンがあれば、その情報は、内蔵され、常に手元にあると言って良い。本棚を持ち歩けるというキャッチフレーズも、あながち嘘でもないのである。

こうして、紙と電子媒体を比較してみると、モノとしてのニーズの違いが浮き彫りになる。所有欲を満たすことや、出来栄えというものに惹かれる人には、紙の本は、それ故の価値を有し、内容を本体として考える人には、電子書籍という形態が全てのニーズを満たす。むしろ、私見としては電子書籍という形態の出現した現実があるという時点で、後者のニーズの方が上回ってきていることを示しているのではないかと思える。単行本のサイズの本であれば(又は新書や文庫でも)、完全に電子書籍で代替可能という認識がある。こういう現実が出現したということには、もっとこれからも注目していきたい。本棚は、残り続けるのか、それとも電子端末の中に内包されていくのか、見ものである。

電子書籍は、本棚の限界を突破したなとも思う。それらが本棚である限り、その収納されている本は入れ替えをしなければ、新しい本を入れることはできない。(それを手間と思わないのなら、それはそうなのだろうが)入れ替える本を選ぶ、本を売りに出す、又は廃棄するという判断と行為を、常に行わなければならないことは、面倒と言えば面倒であったりする。個人的には。本棚から溢れ出す、本というものの存在は、気になってしまうものなのである。

そうしたことから煩わされないことは、電子書籍端末のお陰である。置き場の問題は消えるという、とてつもない恩恵である。電子化しているものだから、購入しに行く手間が省けるというのもある。読みたい時に、購入ボタンをクリックするなり、タップするなりすれば、深夜にも新しい「本」は、手元に届くのである。この恩恵も、もっと大勢の人が知って良いことだと考えている。結局の所は、本というものが、どのようなものか、という認識の仕方に帰結することなのである。

双方の利点を語るならば、まだまだ行えることなのだが、これではキリがないので、ここでお終いにしたい。対立するもののように語ってしまったが、「書籍」も、「電子書籍」も、共存が可能なのである。しかし性質上、比較してみると大きな違いがあることも分かった。ネットワークが作り上げた電子書籍という存在の仕方は、私にとっては、とても大きな変革であった。出版行為が簡易となったという事実から得られるもの。それはこれからこそ、真に意味を発揮するに違いないとも思うのだ。

書籍のマテリアル性についても、もっと考えていきたい。並べられた本を見るのも、悪くないものである。聖書は活版印刷の発明によって、市井に拡がっていった。それと似たようなことにも思える。手間をかけて数冊作るのがやっとの聖書は、印刷技術で無数に発行できることになって、その内容や思想は拡がりを見せた。電子書籍の発明も、その出版の簡易性も、その出来事に近似しているのだ。というのが、私の、この話題への視点、及び見方なのである。「本」とは、一体、何なのだろうか?

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