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アートポスターをいくつか所有しているが、それである程度の満足を得ていることも本当であるのだけれども、本物の美術品から得られるものは、やはり違う。

絵画は特に、その世界観や技法に取り込まれるような気分に、見ていると浸ることができる。構図の美しさや、美を極めようとする気迫が感じられ、それを見るこちらの意識も整序されることとなる。

それは流行に乗ったり、世俗的な受けがあって評価されることもあるが、基本的にはそれ独自の単体としての完成がある。そして時代を選ばない性質を持つ。気に入ったものを手元に置いておけることは僥倖に他ならないのだ。美術品とは美術館に展示しているものという認識だが、幸運にも手に入るということが無いこともない。そうしたものへの思いは、他の人よりも尚更に強くなるものだと思うのである。

その地域から生まれる芸術というものは多々あるが、その地域性に囚われない性質を持つのも、また美術品である。何かしらの影響を地域性から得ているとしても、その性質に飲み込まれずに、独自の価値を放つこと。何の影響下から生まれたかということよりも、それ自体の独自性の美という価値。これらを得てこそ、それらは輝きを放つことになるのである。

美というものを追い求める人への憧れがある。しかし、とても縁遠い存在であるという自覚もある。それを美しいと思える感性は持ち合わせていても、生み出す側になるには、特殊な感性が、また別に必要であるという認識があるからだ。コレクションすることはできても、製作者にはなれないだろうという事実は、何も悲観的になることではないけども、多少の羨ましさは残る。目に映る美術品は、いくつもの作品と競合し他者を淘汰してきて残ったものであるということが、更にその迫力を増す。

美的なものとの触れ合いは、自身の全体的な感性へと影響を及ぼす。美しさに触れるということは、バランス感覚を養う。総合的な感覚を研ぎ澄ますという効能を期待しても、それは嘘にならないことである。芸術品が、投機対象になってしまうことは、その性質からの副産物に過ぎないことである。あくまでも、その価値の内在的絶対性が、金銭的な価値の変動に巻き込まれている、というだけだ。

逆を言えば、価値が本来的なものとして評価されず、非常に廉価になってしまった、買い時の美術品というものもある。柳宗悦が民芸品と将来名付けることになる雑器の数々は、価値を見出されずに、投げ捨てられるような価値、価格から、その本来的に内在する美的価値の大きさが上回ってこそ存在しているものである。美術品にも、こうした現象が、無いとは言えない。似たような話なのである。

その美を知ることができれば、値は購入する上での懸念事項や勘案事項に過ぎないことだ。安ければ儲けもの、と言ったもので、美を求める者にとっては、都合の良い話である。(美術品というものを自身に泊を付けるような目的的に捉えていない限りは)流行や最先端という言葉とは無縁となる美が身近にあることによって、自分の感性は勿論、それ自体から得られるものが必ずあると言って良い。

結局は、対象を見つける、又は見つめる「眼」がものを言うのだ。その眼が判断をする、または自身の感性が惹きつけられるという実際が、美術品というものを呼び寄せる。それらに囲まれる生活、というものも悪くはないのだろう。実現できるかどうかは別としてだが。

自分が新しく、つまりは知らなかった美を発見した時は、震えのようなものが来る。こういうものが世の中にはあったのかと嬉しくなるからだろう。その美の説明はできなくとも、感性は嘘を付かないと思っている節があるので、その感覚を信じるということは言うまでもない。それを手に入れたいという願望も自然と湧き出すのだが、大体はそれは「売っている」というものではない。非常に残念なことなのだけれど、仕方のないことだとも思える。美術品は公共品という側面もあるという言説を、どこかで見かけたが、個人蔵であることに終わるよりも、美術館で万人に拓かれている方が大切だと思うことも、また正直な本音となる。手に入れたいという欲求は自然発生的なものに過ぎないのだ。

いつか美を説明できるようになりたいと思っている。それは理屈や理論を語りたい、という意味ではなくて、何故に自分の感性がそれに震えるのかということを言葉にできるようになりたいのである。美に理論があることも知ってはいるが、それが自分とマッチするということは、必ずしも必然なのではない。その合致するという実際を言語化することで、その良さを共有できればいい。または良さの伝達を可能とすることで、そのものへの貢献ができるのではないかと考えている。良さを語るための言語化というものは、巡り巡って自分の為にもなる。自分の言語化による再認識が、更なる理解度へ繋がることになるからである。

言葉にできない感動のために絵画は描かれるのだと言われればお手上げだが、私はそれでも、敢えて言語化することをしてみたい。言葉の力というものは、それは文字としても、伝達可能だという確信を実際のものに、いつかしてみたい。感性も、言葉も、万人へと通じるものであるということを証明して、そこから新しい美の交流が始まるのなら、私は月並みな何かから、きっと解放されるだろう。

美は刷新である。美は総合的な判断である。それはデザイン性の「少し先」にある何かしらなのだ。

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