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『天体のメソッド』(アニメ)

待望の10年越しに見ることの叶ったアニメ作品である。

今年は作品の10周年記念という事で、youtubeにて全話一挙配信が行われているのだが、それの視聴を12月21日(土)にすることができたという訳である。作品の存在自体は知っていた程度だったのだが、実際に作品を見てみると私の感動は、当初の想定のそれを軽く上回ったものとなったのだった。

まず、移住先や旅行先としての描写ばかりであった北海道(札幌市)が舞台のメインに据えられて、そこの出身者がメインの登場人物として描かれ、生活しているというのは、非常に画期的であった。

従来の北海道(又は札幌市)を舞台とした作品では、それがあったとしても、その舞台であることの必然性が薄かったり(つまりは他の土地でも代替可能)、リアリティが薄かったりしたものであるが今作は、その土地に住んでいる人間が視聴しても、文句のつけようがなかった。それ程なのである。

作品自体の設定は、リアリズムの対極に位置することは否定できないというか、それがフィクションとしての特性であることは疑いようもないのだけれども、そのフィクション性の高さと、リアリティのある生活感覚が上手いこと混ざり合い、その作品世界を構成していることに驚きを隠せなかった。

この作品を視聴することに、「何故?」や「どうして?」という疑問を挟むことは野暮である。緻密な設定に裏打ちされたSF作品であるということはないのは間違いない。しかし(偶然にも)連続して視聴することが叶ったことによって、作品の一貫したスタイル、内容の矛盾の無さを実感することができた。この作品に、ぐたぐたとした設定を語るような場面は一つも無い。かといって推測を促すというものでもない。その作品自体のパワー、勢いに気圧されつつ、一気に全体を見通すことによってその魅力は最大限に感じ取ることが可能となる。

中学生である主人公たち5人(+ノエル)以外の目線は無いと言っても過言ではなくて、この徹底性が視点の移動やブレを消しており、彼女たちの「願い」が物語の駆動開始地点であったということを最重要視していることが伺える。例外として主人公、乃々香の父親の出番、物語的役割があるということ以外は(回想の母親の存在もそうだが)他はハッキリとノンネームド、所謂モブキャラである。5人の純粋な願いが円盤を呼び寄せ、世界は「一変しなかった」という訳だが、主人公たち以外に、焦点が当たることは皆無という演出、内容に、無駄を削ぎ落とす効果を見事に表した気がするのだ。この世界は、彼女たちの目線で出来上がっている。

北海道の外(つまりは道外)に物語的視点が移動することも「皆無」であって、乃々香も東京からの転校生ではなくて、出生は舞台となる霧弥湖町である。東京には、7歳の頃に母親の病気の治療のために転居したのであって、(14歳に至るまでの東京の描写も一切なく)「トンネルを抜けた先」にある舞台から物語が始まるという演出に、既存の北海道作品との気合いの入れ方の違いを感じたものだ。言ってしまえば、完全に、この作品は道民の物語なのである。架空の北海道が、舞台ではあれども。

個人的に一番気に入っているのは、母親のお墓参りをする回となる。この回は、ちょっとした息抜きの回という側面もあって、しかし登場人物の心情的な変化を表す、大切な回でもある。EDが個別の、特殊演出になっていることからも、製作スタッフにとっても、その力の入れ具合が別格の回であるということは推測できるのだ。とはいえ、追記するならば、この作品に、所謂「捨て回」は無い。故に単純に好みの話でセレクトした回なのだが、どの回も必然的な必要の要素を含んでいることによって『天体のメソッド』は丁寧に編まれたタペストリーの如く、どの糸も大切な一要素になるのである。

作品の演出的効果を語るのなら、空に巨大な「円盤」が出現しても、世の中は「変わらなかった」というのが、大まかな作品の大前提である。これがあることによって、唐突に登場し、常に主人公たちを「見守る」という存在の「ノエル」が居ることも、不自然さに加えることを拒否することが可能となって、更に、そのフィクション性が物語の魅力を阻害することが無くなるのだ。ノエルと円盤との関係性は、舞台装置ではあれども、重要な設定ではない。重要且つ大きな設定であることは違いないのだけれども、円盤は作中では、所詮は「何もしない存在」なのである。大切なのはノエルの方だ。

白状すると、全くの初見で、この10周年配信を見たというのは事実とは異なることである。というのも、youtubeのみで配信されている本編の「後日談」に相当する第17話『もう一つの願い』の視聴は、既にしていたのである。その時の作品への感想は(よく内容が当然に後日談なので掴めていなくて)「なんだかほんわかとした作風だなぁ」というものであったのだが、この17話に至ることが、どれ程の喜びと奇跡を内包しているのかというのは、本編を見てこそ分かることであった。本編で彼女たちが成し遂げたことの総決算が、この17話として纏まっている。怒涛の終盤の展開から、この17話へと着地することによって初めて、この作品は完結を見ることが適うのである。そこもまた感動であったのである。

実に視聴できて良かったと実感した体験であった。(演出の意図を掴み損ねることが無い限り)作品としての不満点は皆無であると思う。むしろ、円盤への言及や、設定が細かく語られるような作品であったとしたら、ここまでのアニメ作品としての評価、及び感動や独特の世界観に浸ることは不可能であっただろう。そういう意味でも、私には、リアリズム作品には不可能な表現の達成をしたという金字塔的なアニメ作品になったのである。

このアニメ作品は唯一無二である。類似性の無いということが、傑作と感動の両方を実現している。北美市(≒札幌市)と霧弥湖町を繋ぐバスターミナルは今はなくとも、作品の中には永続するのだ。