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デスクにあるスペースにすっぽり入る本

ノートPCを、もう何年も変えていない。気に入っているというのも当然にあるのだが、もはやこれでなければならない、という認識があるからだと思う。

気に入っているが故に壊れるまで使い続けようという目論見があるのも本当なのだけれども、その他に「何に変えていいのか分からない」という理由もある。

ずっと使い続けてきた、という事実が、それのある環境というものを形成しているのである。だからそれなしの状態というか、その環境下をうまくイメージ出来ないのだ。それはもう道具であることを超えてしまっている。そんな気もするのである。

まずは道具から、という実践態度を揶揄する声があることも知っているが、私は道具から入る質なのであって、それがしっかりしていないと、そもそもの実践段階に入る気力が失せる。逆にその用意がしっかりとなされていれば、いっちょやってみますかと俄然やる気が出る。つまりは道具や環境から誘引されることが多いのである。

今読んでいる本は、なかなかに分厚いものなのだが、いちいち本棚から入れたり出したりするのが、億劫になっていた。しかしデスクのデッドスペースのような部分にそれがすっぽりと入ることを知ると、その本は即座に手に取れる場所が定位置となった。すると、自然とその本を手にする時間も増加することになる。こんなちょっとしたことでも、環境の力というものを感じるのである。移動なしに手に取れる本の定位置というものが現れて、私は本を読むことを自然にそうすることになったのだ。

執筆部屋に、丸テーブルを一つ増設しようという案が自分の中にある。それは作業台という役割よりは、何かの「置き場」の増加という側面があって、ふと手にしたものを、いつでも置けるという場所が欲しいのである。今現在は、どこもかしこもモノで埋まっていて、少し場に余裕がないのである。

決まり切った導線に、少し変化を付けたいという思いもある。執筆部屋という環境下は、どうしても執筆内容そのものすら左右する影響力を持つ。それは自身がそうなるように設計したというのもあるのだけれども、それは変化することを否定する為という訳でもないのだ。故に、時折には、気分転換の意味も込めて、普段の決まり切った環境下に「加える」ものは何か、ということを考える事になるのである。

そして色々と考えてみた結果、丸テーブルが一つ加わることによる環境の変化が、私が今、もっとも求めることなのではないかという結論に至った。以前の私では思い付かなかったことである。それはだから、今の私の欲求なのであって、過去の私の意識に上がることはなかったものだ。そういうことは、つまり私の変化も意味するのであって、この意識の変化を上手いこと掴むことによって、「私」というものが、良質な変容を遂げることになるのではないかという思いがある。健全な変化である。

凝り固まると、変わろうとしても変わらないことになる恐れがある。だから、そういうことが起こることがない様に、常に柔軟性を求めている側面が私にはある。何かを決定事項にする決心する力量も大切だが、決めつけばかりする自分になることは本意ではないので、気分による変化も許容することが大事だと踏んでいる。計画書に忠実に則り、事を進めることが最良の道だとは私は思わないのだ。

モノを選ぶことは、正直楽しい。あれもこれもと欲しいモノがあっても、結局は購入するものはその全てとはいかない訳で、実直にそれをすると、厳選と洗練が生じる。それをいい加減にしないだけで長い付き合いとなるモノとの関係性は随分と変わってくる。大事に使うに値するモノであるという、その事実が、環境の質を左右するのである。チープ的なモノを選ばないだけで、意識は引き締まる。その道具一つ一つが、環境を示す氷山の一角になるのだ。一つのモノから、全体の質は推し量れる。

今、私は「全体」という言葉を使ったが、一部分にだけ過剰に豪華さを加えても、意味はない。全体トータルに整えることから、部分は引き立つのである。これは何も環境の話に限ったことではない。どんなことも、全体から考えないことには、部分の意味を履き違えることになる。普段の人間性が、いざという時のその人の行動を決定することに近い。普段の心掛けは、特別な瞬間に駆動する為の、準備と本番への備えである。いきなり特別な何かを成し遂げようとしても、きっと可能性はゼロだ。普段から全てに全力で事に当たる人にこそ、その実力を活かす機会は訪れるものだという訳である。

少し精神論めいた話になってしまったが、逆に、これは実にシステマティックなことである。その人がどう動くかという実際が、その心掛けから生まれる訳だが、それは結果が自動的と言って良い程に生じるものだ。強い想いを抱いていれば、それが結果に繋がるかといえば、その実践が伴わなければそれこそ、ただの精神論に終わる。実際の行為が証明となるのは、思いとの乖離がないことだけだ。

私の執筆行為には、環境が不可欠である。故に、その実際を活かす為の発想や実践を惜しまないことが、誠実さということになるのだろう。環境的なものを揃えることには、見栄やハッタリをかます様な余裕は無い。少なくとも私には。必要なものとは、切迫した必須さという要素を持つ。その環境下での行為の結果が、執筆内容に還元され、誰かの共感や感動を生じさせたのなら、それこそ本当だ。慣れ親しんだ環境やモノ、道具の類や、新しいモノや事が、新規的な私の創作を生み出すのである。

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