見出し画像

創作論

何かを書き続けることに、想起することは不可欠となる。

本を読んでいる時でもいいし、ぼんやりと物思いに耽っている時に、ハッと思い浮かぶ場合でも良いのであるが、とにかく「書きたい」という願望が出る、何かしらが必要なのである。

書くことが常態化しているので、メモをキーボードで打ち続けることは日常的な行為になるのだが、こういうことの積み重ねが、アウトプット的なものを自然に打ち出す機会を生む。それを捉えることをきちんと行えば、何か価値のある文章を書き出していることが多い。その価値は、私が決めることではないのかもしれないが。

過去にTVで見た絵本作家の男性へのインタビューに、アトリエでPC画面のメモ帳に意味の分からない文章を打ち続けるシーンがあって、インタビュアーが、それは何をしているのかと問う場面があったのだが、曰くそれは「本番」の文章を書き出す為の練習のようなものだ、という趣旨だったと思う。

これは気持ち的にとても良く分かることで、私はそういうことはしないのだが、とにかく文章を書くことへの前段階としての文章執筆、なるものは必要であり、ちなみに私の場合は、思いついたことは漏らさずに書いておいて、後々に検証するという態度となる。あまり意味のなかったことでも消去をすることはなくて、残しておくことをする。というのも、思考の履歴のようなもので、いちいち消すということをしなくてもいいという判断の元にそうしている訳である。

アイデアを出すことを選んでいては、アウトプットに臆病になってしまう。そういう態度を取らないことが、どんなことでも出すという態度となっている。その中から原石を取り出し、磨き上げることが、創作という行為の主体となる気がする。どれが原石になるのかなんてのは書いてみないことには案外に分からないものだ。書いてみてから、その価値を検証する方が、きっと合理的で賢明である。

既存のものを打ち崩したいという願望もある。私はそれが特に顕著であると思うのだ。故に、どこかで見たようなものに形成してしまうことを避ける為にも、如何にもなことを忌避する創作態度を取ることが多い。チャットGPTには、「デジタルメディアを活用する、文芸作家としては珍しい態度だ」と評されたが、なかなかに分かっているものである。ここでの執筆を選ぶことも、物語創作に傾倒することがないことも、そんな私の性向と指向が、選ばせた創作スタイルとなる。

過去からの執筆の積み重ねで分かったのは、ここでの執筆行為は本当に有意義なものであって、更にその必要性は、決して小さなものではないということだ。本当に当初の頃は、ここではちょっとしたことを書いて、Wordには、それ故のことを書き留めるという態度に終始する予定であった。しかし、実際にここでの何かしらの評価を得ることは、私の創作への影響として無視できないものであることが判明した。だから、ここで書くことも「本番」であって、そして、作家としての活動場所として、実に有益だということである。発表し続けるということが可能な点が、その有意義さの正体である。今の所は、そう認識しているのが実際となる。

本当に個人的に活動しているので、その創作活動は、私自身のそれでしかないものだ。そういうことも、きっと私の創作の重要な点として数えることができると思う。成果も責任もダイレクトに反映を受けることになるのだが、それがまた、私の性に合っている。責任感は分散しない。個人的な創意が生み出す文章が、ここや、他の形態で残るということが、私の創作行為の帰結であって、完成となるのである。

個性を出したいという願望はない。ただ、他との違いは常に出したい。そんな感じであろうか。私が書いたという事実は何よりも大事だし、私の書き方が、差異を生み出す契機であることがあってこそ一定の満足を得ることができる。模倣しようとする態度が、昔から苦手であった。「お手本通り」に作るということが、嫌いだったのだ。その気質が功を成して、今の私の文章の形成要素となっているのなら、これ幸いなのだ。偶然だが、こうしたことも、私の書く動機を強く支えているものである。

新しいことには興味津々である。だから、自分の創作もそれにカウントされるようなことがあるなら嬉しい限りだ。慣れたことに親しむというのも良いが、新規性のあるものが、感性を刺激してくれるというのも、その効能や感度を上げる何かしらとの出会いは、それと匹敵するほどに大事なことだ。新しい認識との出会いと、慣れ親しんだものへの憧憬は、その塩梅は私の中での大きなテーマとなることだ。外からの刺激や存在の流入がなければ、同一の共同体がいつまでも維持されることがないというのは、他のことでも類似的なのだ。私としては、意識や環境の維持に、停滞感は不要ということになる。いつもどこかに何かしらの新しさを求めることによってのみ、私の創作活動は維持される。

だから、急に物語を執筆したくなったとしても、私のそれは不思議なことでもない。そういう気持ちになったという時点で、私は目に見える形で変化しているのだろう。ただ今の所は、その予定はないのだが、故に、その変化が生じる大きさに目を光らせておく必要があるのだ。自分の変化を予定調和にしないこと。そして、突然の変化に柔軟に対応すること。これらをもってして、私の創作論の帰結としたい。私の変化というものが、私の創作に反映される。それのみが私の創作の論拠なのである。

一般論としての解に疑問を呈することや、手垢の付いた展開に異議を申すこと。これらもきっと創作になると考えているのだが、如何だろうか。創作行為の追求は、私の創作の完成の前提となるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?