1年計の砂時計を訪ねて。
毎年1月1日を迎えると「長い1年が始まったな」と思うけれど、このnoteを書いているような夏の終わりには「もう1年が残り半分もない」と思う。そんな風に思うことは誰しもあるんじゃないだろうか。
こうやって1年の長さを考えるたびに、私は砂時計を思い出す。それも数分を計るための小さなものではなく、1年計と言われる巨大な砂時計だ。
それがあるのは島根県の仁摩サンドミュージアム。存在を知ったのは漫画『砂時計』がきっかけだった。今でも実家の本棚に残っているぐらい好きだった作品で。物語の詳細は割愛するが、冒頭に例の大きな1年計の砂時計が登場する。
主人公の母はその砂時計を見ると「1年って思ったより長い」と言い、主人公である娘は「1年って思ったより短い」と思う。
「1年の長さは変わらないのに違うことを思うのか」「私はどう感じるだろうか。いつか見に行きたい」。そう思ってから5年が経った時(それももう今から10年ぐらい前の話になるが)、ようやく仁摩サンドミュージアムへ訪れた。
今でいう聖地巡礼で、漫画に登場する鳥取砂丘と琴ヶ浜なども組み込んだ分刻みのスケジュール。電車を1本たりとも逃せない弾丸旅行だった。
朝、新幹線で東京駅を出発すると京都に立ち寄りおいしいものを食べ、その日のうちに鳥取へ移動。翌朝早々にバスに乗って鳥取砂丘へ向かった。
「日本一の砂丘はどんなものだろう」と思っていたらそれはそれは広大で、朝とはいえ夏の日差しを遮るものがないなか登るのは一苦労。だけれど登りきった先に広がった景色には息を呑んだ。
目の前を遮るものはなにもなく穏やかな日本海と薄青の空だけがあって、砂丘を登った疲れも吹き飛ぶほどの美しさだった。静かに吹く風も心地よかったことを今でも覚えている。
鳥取砂丘でもう少し過ごすという選択肢が頭に過ったが、一番の目的はここではない。そしてなにより時間がない。登るのに想定よりも時間がかかったせいか、早くもタイムリミットが迫っていた。
慌ただしく砂丘を下ってバスに乗り、鳥取駅からは特急列車に乗り込んだ。ちなみに山陰本線は日本海沿いを走っていて、進行方向の右側に座るがおすすめ。時折海が見えてこれまた絶景だ。
途中、米子駅で特急から鈍行に乗り換え、数時間電車に揺れると目的地のある仁万駅に降り立った。
人が少ない静かな駅で商店街もない。車の往来も少なく誰にもすれ違わないまま道をひたすらに進んで行くと、巨大な三角形の建物が遠くに見え始めた。念願の仁摩サンドミュージアムだ。
「あそこにあの砂時計があるのか」。そう思うと自然と足取りが早くなって。ついには仁摩サンドミュージアムのエントランスにたどり着いた。
館内は、平日の昼間とあって、確かほとんど人はいなかったように記憶している。そして中を進むと天井の高い開けた場所につながっていて。それが遠くから見えていた、あの三角屋根の空間だ。
見上げると、砂時計があった。
天井まで距離がありすぎて思ったよりも小さいような印象だが、きっと近くで見たらその存在感は圧倒的なものだろう。地上からは砂が落ちている様子はわからないけれど、1トンの砂を1年かけて落とすのだそうだ。そしてきっちり1年経つとひっくり返す。
これが1年の長さか――。
巨大な砂時計の中にある砂の量を見て、どちらかというと1年を短いものだと思った。
想像より少なく感じられたこともあるかもしれないが、当時の私が時間はたくさんあるように思っていたことも大きいだろう。バイトで忙しくしながらも好きなことに時間をかけることができたし、こうして旅行をすることも自由にできていたから。
けれども時間の流れは一定だ。だから1年を長く思うか短く思うかは自分の感覚、過ごし方次第。また次にここへ訪れたら、思うことが違うかもしれない。この1年計と再会する日を楽しみに思いながら、仁摩サンドミュージアムを後にした。
今の私が見たら、きっと1年を長く思うだろう。なにせ社会人になってからは毎日がとにかく目まぐるしくて、1年が一瞬で過ぎ去っている気がする。
時間が短くなった訳ではないのに、1年ってこんなに短かかったっけ?と思うぐらいに月日が経つのがとにかく早い。毎年あっという間に1年が終わる。
そんな日々の中で、時折仁摩サンドミュージアムで買った砂時計を眺めることがある。数分を計るための小さな砂時計。さらさらと落ちる砂をじっと見ているだけのこの間は、時間が少しゆっくりと流れているような感覚になる。
1年のうち約1,000万分の1の時間。ほんのわずかなひとときだけれど、私のちょっとした息抜きだ。