人生はタイミング 陰に実直であれ!
先日、綺麗な虹の架け橋を、タイミングよく撮ることができました。
虹は写真に収めるまで、待っていてはくれません。
こちらの思いとは裏腹に、直ぐにすーと、跡形もなく消えてしまいます。その時は綺麗に撮れて、感謝したのです。
いつ何処に現れるかは分かりません。時と場所。この二つのタイミングが合わないと、出逢えないのです。
素敵な人と巡り逢った時のようでもあります。
人生もまたタイミングがとても大事です。
九死に一生を得るような体験は、そうそうないと思いますが、車を運転中にヒヤリとする場面など、そうした些細なことは誰にでもあるのではないでしょうか?
2012年に、山梨県中央道の笹子トンネルで天井板が落下し、9名の方が亡くなられた、傷ましい事故がありました。
このニュースを見たとき、私はぞっとしました。
この前通ったトンネルだ。と
そして、自分が通った時に、事故に遭わなくて本当に良かったと、心から神様に感謝したのです。
私が事故に遭っても、何ら不思議なことではありません。タイミングが良かっただけの話です。
ほんの少しのタイミングで事故に遭ったり、また助かったりもします。そのタイミングは自分の力では、どうすることも出来ないことだと思うのです。
人生は、良いタイミングの時もあれば、悪いタイミングの時もあります。
先日、高校生の娘が発熱し、コロナに感染しました。吹奏楽部の県コンクール3日前です。
出演することが出来なくなり、泣いていました。
毎日遅くまで練習して、夏休みも遊びにも行かず、そのためだけに、今まで頑張ってきたのです。私はその姿を見てきたので、とても居た堪れない気持ちになりました。
しかし、親としてはどうすることも出来ないのです。
娘にどんな慰めの言葉や、励ましの言葉をかけようかと熟考しました。
そして、優しく諭すように娘に語りました。
「今回は残念だったね。辛いね。けど人生はいいことばかりじゃない。寧ろ辛いことの方が多い。お父さんは、辛いことや悲しいことがあった時は、神様から与えられた試練だと、思うようにしている。
その試練は、節みたいなもの。竹はたくさん節があるから強い。強風に晒されても柔らかくしなって、折れることはない。
節を乗り越えて、人は成長していくものだと思う。その節から新しい芽が出る。今回はその勉強だったんじゃないかな。云々」
娘は、泣きながら頷いて聞いていました。
娘にとって今回は、最悪のタイミングとなってしまいました。
コンクールが終わってから発症していれば、何の問題もなく、娘も私も辛い思いをしなくても良かったのです。しかし、そうだったらなにも気づくことはなく、心の成長もなかったと思うのです。
辛いことや悲しいことは、時になんの前触れもなく突然やってきます。
しかし、避けて通ることはできません。泣いても通らなければ、いけない定めなのでしょう。
踏ん張って、通り切るしかないのです。
人生の節にあたった時、どのように思案し行動するかが、大切だと思います。
身の回りに起こってくる事象は、原因があって結果があります。特に自身にとって都合の悪いことは、何かそこには意味があることで、内観しなくてはいけないことだと思うのです。
納得出来なくても、原因を探ることが必要です。
原因というのは種であり、種は正直です。
トマトの種を蒔けばトマトが成る。胡瓜の種を蒔けば、胡瓜が成る。トマトの種を蒔いて、胡瓜が成ることはありません。
良いことも悪いことも、自分が蒔いた種があり、いつか芽が出て事象となり、現れてくるのです。
天に向かって唾を吐けば、自分に返ってくるのと同じように、悪い種を蒔けば悪いことが自分に返ってくると思うのです。
今、世間を騒がしているビックモーターの不正も同じことで、その代償はとても大きなものとなるでしょう。
正直者が馬鹿を見る世の中であってはいけないと思うのです。
実直に通っていれば、いつか必ず良い芽が生えてくる。そう考えた方がポジティブになれて、人生幸せなことだと思うのです。
話は変わりますが、天理教の教祖(おやさま)が昔、ある信者にお聞かせ下されたお話に
また教祖は、「働くというのは、はたはた(側々・傍々)の者を楽にするから、はたらく(側楽・傍楽)、と云うのや」とお聞かせ下さいました。
人の見ていないところで善行することは、なかなか出来ることではありません。
また陰口を言うことは簡単ですが、陰で人を褒めることは、なかなか出来ません。陰で人に褒められたら、こんな嬉しいことはないのですが、、、
人が見ていない陰で、なにをするのか。
そこに自身の真実の姿が映し出されます。
陰が謹厳実直であること。
そういう人を、人は信頼すると思うのです。
「実直な人」
私の好きな『雨ニモマケズ』が浮かびます。
※本文はカタカナと漢字ですが、読みやすく平仮名と漢字にしています。全文ではありません
※「日照り」の部分は、カタカナの原文では「ヒドリ」です。ここでは「日照り(ヒデリ)」としています。
誰にも褒められなくても、陰で人のことを想える人でありたいものです。
子供たちには、陰に実直で人の痛みが分かる、優しい人になってほしいと、願うのです。
ー了ー
最後までお読み頂き、有難うございました🙇