【初告白】 私の疑念ーー仙台の八木山の知的障害者施設・亀亭園の火災 1956年 @宮城県
・・・ここで、参考にした引用元の一部は、下に書きました・・・
①◆1955年(昭和30)10月18日:現・大崎市 松山事件←【🔴 冤罪】
②◆1956年(昭和31)12月11日:亀亭園の火事(原因 〜 放火で学校を焼いた履歴をもつ軽度者による火遊び)
③◆1957年(昭和32)2月12日:精神薄弱児福祉協会の設立総会→精神薄弱児施設・小松島学園の創設へ。 (仙台市にある旅館の白萩荘に、宮城県内から教育・福祉関係者ら200人あまりが集まった。)
④ 🔲 1957年(昭和32)11月13日:川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内のアメリカ軍基地はすべて姿を消す。
(→→→ アメリカ兵の相手をする女性達のための、中絶などのための愛宕橋診療所??も、この時期に役割の主柱を失っていたのか??
→→→そのような不妊手術や中絶手術の経済的 また保健的循環を保つために、
〜 優生手術の件数の増大
〜 愛宕橋診療所の強化
〜 小松島学園の創設 が、なされた??
? まだまだ、これらも 皆 私の推測です。)
◎ 上記の4件の間隔は、とても短い。そして、亀亭園の火事の後から 200人の要職の人々を集める 精神薄弱児福祉協会の「設立総会」の間隔も、極めて短い と 私は思います。
(もちろん、福祉施設の回復 そして 大きな改善のために 関係者の努力が注入された賜物であったーーとも想像しますが、。)
🔴 私の疑念・・・亀亭園の火災の原因は別にあり、「権力による放火殺人事件」だったのではないだろうか?
→→→ 最終的に、小松島学園や他の施設 等々も 使い、宮城県は 1,406人への強制優生手術まで到達させたのだ。
この 「権力による放火」を当てはめた方が、スムースに【歴史年表の流れ】の辻褄が合うように思えます。
◎ 当時、まさに 日本や宮城・仙台は 激動の時代であった。
◎ だが しかし、、年月の経過の後になっても、優生保護法政策については、その勢いを宮城県も日本国全体も、、高度経済成長などで 多くの日本人が豊かな時代へと変貌を遂げても尚、停止させなかった!
なぜ か?。。 システム的にも、法的にも、お金を得る人々までの流れの仕組みを変えなかった・変えることを「選ばなかった」からではないか?。 とても長い間、楽に、安易に、お金も回る、、日常となったシステムが続いた場合、それは簡単には止められないだろう。
優生保護法政策は、そもそも 「日本国憲法」とはサカサマの法律・政策であった。 いわゆる「憲法違反」、 「違憲」であったのにもかかわらず、優生政策を 直ちに止めるべき【経済的大国】の地位へ到達しても、 止めなかった責任は いったい 誰にあるのか?。これは本当に、広く 深い問題なのだ。
そして、その 総括を早く、とにかく急がなければならない!
現在 高齢となっている優生手術による被害者たちが 哀れすぎる。 一人ずつ他界しているのだ。 無念の今日と、復讐すべき 明日は、まさに 日本国民の内側の腹の中の問題なのだ。 一日一日と、。
この日本国に住む みなさんも、宮城県の私達も、ひじょうに遅すぎる!
わたしたちの罪は さらに 重なっている。さらに 深まっています。
《参 考》
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https://tansajp.org/investigativejournal/1183/
Tansa 強制不妊 「精神薄弱児」施設の火災 連載レポート(4)
2018年03月01日5時00分 加地紗弥香
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【宮城教育大学 図書館】にも 所蔵
『宮城県における精神薄弱児施設の誕生と分類収容
ー亀亭園・「愛の十万人(県民)運動」, そして小松島学園・ほたる学園ー』
清水貞夫(宮城教育大学名誉教授)、相澤雅文(京都教育大学)
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https://photo-sendai.com/search/decisions/kensaku/keywords:占領軍/dispnum:50
仙台よみとき用語年表
→→進駐軍(米軍) 概説 1945年(S20)9月~1957年(S32)11月
→→米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<全キャンプ返還> * 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
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