きみみたいにきれいな女の子
理屈じゃない部分で強く惹かれる曲というものがあって、この曲もその一つだ。
自分がきれいかきれいじゃないかは別として(きれいではないです。)、独身時代はよくこの曲を聴いては、自分のもの悲しさの揺らぎの波に同調させたりしていた。
ふしぎな曲だな、と思う。
泣いているという事実は明確で、幾度も繰り返される。けれども、その理由ははっきりと描かれていない。描かれていないけれど、勝手に心に入ってきて同調してくれる。
丁寧と怠惰の匙加減が、とても絶妙だなと思う。
妙な時間に風呂に入る、たぶん不規則な生活をしている割に、ちゃんとバスタブに身体を埋めて、丁寧にシャンプーする。
ピチカート・ファイヴの描いてきた女の子像的に、不規則な生活は遊びのせいだろうなと思う。
この曲自体が、「プレイボーイ・プレイガール」というアルバムに収録されていて、アルバムタイトルそのものや、前後の曲の享楽的で虚飾的な雰囲気からも、都会でスマートに遊んでる女の子像をイメージする。
あえてこう表現するが「20代の女の子」を描くとき、今の時代だとこんなに品よく作られた生活感では描かないし描けないと思う。実際、この曲を好み同調していた私自身、呆れるほど思い切りのよいそして何の物語性もない、ただの怠惰な生活にいた。バスタブ、使わな過ぎてうっすら汚かったし。それでも、「いろんな女の子にフィットするもの悲しさ」を感じさせるこの不思議さよ。
20代の頃はこういう、正体不明の不安や悲しさを根底に抱えながらも、少しだけ楽しく生きていたような気がする。
今の私の悲しみは「子供たちへのクリスマスプレゼントの一部が不発だったこと」であり、不安は「年始はともかく年末3日間の晩御飯どうしよう」だ。ルオーの絵画並みに輪郭線が太い。元気な不安。
***
我が家の、まだきれいじゃないけどかわいい女の子たちはどうして泣いているか。
最近とみに、こっちには理解しきれないけれど本人には心底切実な理由で泣いている。
次女の場合。
「今日は2回しかかわいいって言われなかった」
ハピネスすぎる。ピースフルすぎる。
1日に2回かわいいと言われるなら、単純計算で年間に言われる回数は2×365で730回だ。
私は、髪を切ったときと新しい服が特にお気に入りだった時、夫に言わせるので年5回くらい。
私の146倍かわいいって言われている。
そして多分カウントに入ってないが、私も次女に一日3~4回はかわいいと言っているので、もう計算はしないが相当言われている。
ねえ、お母さんも泣いていい?今年5回ぐらいしかかわいいって言われてないって、泣いていい?
自分がかわいいと言われる存在である、という前提で生きているのもいい。ずっとその心持ちでいてほしい。かわいいと言われ慣れていないと、あいさつ程度のカワイイを真に受けて、変な奴に騙されるから…というのは私の母の言である。百理はないけど一理はある。
長女の場合。
「〇〇ちゃんが怒るのが怖いの…」
これはかなりよくわかるというか、わかる通り越して大丈夫か?と思う。
いや、怒られたことに対して、「うちの長女ちゃんをいじめるな!!」という気持ちなわけではない。
○○ちゃんと娘の関係性を見る限り、精神的に未発達な者同士の諍いだろうなぁと思うので。
それよりも心配なのが、友達とけんかにならず、「怒られた」と受け止めているという部分だ。
実際にけんかになっているのかは、目撃していないから分からないけど、いっそけんかであった方が安心する。
同じ歳の、同じタンポポ組なんだから、「怒られた」じゃなくてさ、嫌なこと言ってくるとか、強く言ってくるとかでいいんじゃないかなぁ…。これは、語彙がないから「怒られた」と表現しているわけではない、と母的には思っている。
彼女にとっては、先生の軽い注意や指摘も「怒られた」とカウントされている。
自慢じゃないけど、いや自慢でもいいけど、先生からは「よく話を聞いてくれて、とってもおりこうさんなので、叱ることはないですよ~」と言われている。それもそれで心配。
彼女は、世の中に対して下手(したて)に出ているというか、周囲の人やモノを大きく見すぎてるかもなぁというのが、私の心配の正体だ。
まぁ、心配なところのない人間の方が少数派なので、ざっくり括ると「繊細」な彼女を見守り時に誘導する、それくらいしかできないと思っている。
きみもかわいいを数えてくれ、メッチャ言われてるはずよ。
***
と、子によって泣く理由は様々だけれども、ここで言及してないいくつもの涙についても、私は感慨を覚える。またしても。
成長に感動してばかりだな。
「飯(授乳)」「風呂(および排泄)」「寝る(眠いなら寝てよぉ…。眠くて泣くって何よ。)」で泣いていた時代からすると実に人間味があり、個性的で、心にまで命が行き渡っていくのを目撃しているような。
また、本人すら訳も分からず泣いていた、壮絶イヤイヤ期からすると、詩情ある涙でもあるなと。涙の理由が、自分で見えていて口にすることができるのも、とてつもなく大きな成長だ。
涙とともに、自分の心をよくよく見て、繊細さとタフさを両立させてほしい、というのは少し贅沢な願い。
もう少し大人になったら、また訳も分からず涙する時代がやってくると思うよ。たぶん。おそらく。もしかしたら。
時代が変わるし、「きみみたいにきれいな女の子」だって、もう30年近く前の曲だから。書いていて驚愕している。
あと10年ちょっと先は、「女の子」はもっとタフな存在になっているだろうし、そもそも20代を「女の子」と呼ぶことがいよいよ許されなくなっているかもしれない。
でも、今の、自分の中では明確な理由があって流す涙も、そしてこれから先あるかもしれない理由のない涙も、たとえ時代にそぐわなくなってたって大切にしてほしいと思う。
とうに大人になった人を「女の子」と呼び、その涙を歌った曲が、さしてきれいじゃない女の子だった母の心には切々と染み込んだんだよと伝えたい。良くも悪くも、表現活動が矢鱈自由だったころ、人間の弱さはこんなに美しい曲になったんだよ。
10年ちょっと先の女の子(まだティーンだから女の子)が、果たしてピチカート・ファイヴに辿り着くんだろうか…。こんな繊細な曲は、親の勧めで聴いてほしくないからなぁ。
さりげなく、CDの棚に「プレイボーイ・プレイガール」並べておくね。勝手に取っていいよ。
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