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123回目 Schrodinger: "What Is Life?"を読む(Part 2)。 一粒の原子は簡単に耳たぶを通過できる。耳たぶに気付かれないし害が及ぶこともありません。これは統計学的な物理の教え。

Original Text may be found free at:
https://www.arvindguptatoys.com/arvindgupta/whatislife-schrodinger.pdf
or https://herba.msu.ru/shipunov/school/univ_110/papers/schroedinger1944_what_is_life.pdf

前回の記事で読み知った、ワトソン、クリック、ポーリング、そして中屋敷 均氏のお話はすべてDNAの分子的構造が解明されて後の話でした。 "What Is Life?" は、指先に触れているのに今少し捕まえられない棚の上の箱である答えを、今当に捕まえんとしている時代にあって、先端を行くひとりの物理学者シュレジンガーが、自らの思索を開示するものです。

シュレジンガーが、ナチスの勢いが増すドイツ・オーストリアからアイルランド・英国に逃避していた 1944 年に出版されています。母国語でない英語にするために英語を母語とする何人かの学者の校閲も受けて綴られた英文です。


1. 原子・分子一つひとつの世界と、耳たぶや胃といった目にも見える物体の違いの重要性が取り上げられます。

岩波文庫の和訳本「生命とは何か」のお二人の訳者が、この部分の翻訳時にSchrodinger のこの文章の重要性に気付かれていたとは思えません。もっと時間をかけて読み直して欲しかったと思わずにおれません。

[原文 1]I can imagine that many a keen student of physics or chemistry may have deplored the fact that every one of our sense organs, forming a more or less substantial part of our body and hence (in view of the magnitude of the said ratio) being itself composed of innumerable atoms, is much too coarse to be affected by the impact of a single atom. We cannot see or feel or hear the single atoms. Our hypotheses with regard to them differ widely from the immediate findings of our gross sense organs and cannot be put to the test of direct inspection.
[和訳 1] 我々の五感を担うところの複数の器官、これらは我々の身体という組織体の確とした部分を構成するのですが、この器官を形作る組織が、前述した桁外れに大きな比率を思い起こせば、巨大な数の原子で構成されていることは明らかで、その格子の目は余りにも粗いため飛び離れた一粒の原子が加える衝撃に影響されることはありえないという事実に納得できなかった経験をお持ちの方々が、真剣に学ぼうとしている物理学や化学の学生たちの中にも少なからずいらっしゃることだろうと私には思えます。一つひとつバラバラに存在している原子はそれを触って解るとか、見て解るとか、聴いて解るということがありません。これら(五感を担うところの器官)に関する私たちの仮説(理論的説明)は、私たちが通常見知っている五感を担う器官(the immediate findings of our gross sense organ)からかけ離れていることに加えて、直接的に調査する形式の試験に賦することも不可能です。

Lines between line 11 and line 20, on page 8, Erwin Schrodinger
"What Is Life? & Mind and Matter", Cambridge Univ. Press 1992

[岩波文庫にある和訳文] われわれの感覚器官はいずれも、多かれ少なかれ身体の緊要な部分を形成し、したがって(右に述べた身体と原子との大きさの比が莫大なことを考えればわかるように)、感覚器官それ自身が無数の原子から成り立っているので、これら感覚器官のどの一つも、ただ一個の原子の衝突で左右されるにはあまりにも粗大すぎます。この事実を多くの精鋭な物理学徒や化学徒が嘆いていたであろうと、私には想像されるのです。われわれは、単独の原子を眼・耳あるいは手でさわって感ずることはできません。原子に関する仮説は、粗い感覚器官を通じて直に知ったこととは大いに異なっており、直接検査してこの仮説を試すことは出来ません。

Lines between line 4 and line 11 on page 21, 岡小天・鎮目恭夫訳
(2008年第1刷、2023年第24刷)「生命とは何か」岩波文庫


2. 英国の数学+物理を専門とする学者、Roger Penrose 博士が寄稿された推薦の辞。

生命の神秘を解きほぐす科学の深みに這入れないとも、一般の読者に向けたこの専門家の言葉は正確に読んでおきたいのです。

この前文 Foreword は次のように書き出されています。私はこのcompelling なる言葉に特別に強い共感を抱きます。

[原文 2-1] When I was a young mathematics student in the early 1950s I did not read a great deal, but what I did read – at least if I completed the book – was usually by Erwin Schrodinger. I always found his writing to be compelling, and there was an excitement of discovery, with the prospect of gaining some genuinely new understanding about this mysterious world in which we live.
[和訳 2-1] 1950 年代初めの事ですが、数学専攻の学生であった私は沢山の読書をしたとは言えない学生でした。その様な中、最後まで読み終えた本となるとその多くが Erwin Schrodinger の本でした。私は何度も彼の本には心を掴まれ引き込まれました。発見の喜び・興奮があったのです。私たちが生きる神秘の世界に本当に新しい観点からの理解に向けた手掛かり・希望を彼の本に見出したのでした。

Lines between line 1 and line 7 on page x, "What Is
Life? & Mind and Matter", Cambridge Univ. Press 1992

[原文 2-2] None of his writings posses more of this quality than his short classic What is Life? – which, as I now realize, must surely rank among the most influential of scientific writings in this century. It represents a powerful attempt to comprehend some of the genuine mysteries of life, made by a physicist whose own deep insights had done so much to change the way in which we understand what the world is made of.
[和訳 2-2] このような彼の著作の中でもこの引きつける力に際立つのがこの小編「生命とは何か?」です。今になって改めて感じるのですが、今世紀に書かれた科学的エッセイの中で最も影響力を持った作品の一つなのです。この小編は生命の神秘の一定分野を解読すべく人々がつぎ込んだ力強い研究活動とはどのようなものであったのかを、物理学者の目から見たその姿を教えてくれます。この物理学者ご自身の深い洞察力は、この世界が出来上がっている仕組みに向けた人々の理解に革新を起こす過程において大きな役割を果たしました。

Lines between line 7 and line 14 on page x, "What Is
Life? & Mind and Matter", Cambridge Univ. Press 1992

[原文 2-3] The book’s cross-disciplinary sweep was unusual for its time – yet it is written with an endearing, if perhaps disarming, modesty, at a level that makes it accessible to non-specialists and to the young who might aspire to be scientists. Indeed, many scientists who have made fundamental contributions in biology, such as J. B. S. Haldane and Francis Crick, have admitted to being strongly influenced by the broad-ranging ideas put forward here by this highly original and profoundly thoughtful physicist.
[和訳 2-3] これが書かれた時代の慣行を想像するに、書き手と読み手の双方の間にここまで徹底した過ち探しを求めるのは例外的だと思えます。そうでありながらも、この小編は愛らしさ、でなければ格式と言う縛りとは無縁で、親しみ易い書き方に終始します。その結果、専門以外の人々、科学者を目指す若い人々にも読みこなせるのです。事実として、生物学の基礎的分野に多くの功績を残された科学者たちの多く、J. B. S. Haldane や Francis Crick が`、この小編に開示されていた、彼、オリジナリティに富み、深さ窮まる考察で知られるこの物理学者の手になる、広い視野があってこその意見に衝撃的な影響を受けた旨証言されています。

Lines between line 14 and line 23 on page x, "What Is
Life? & Mind and Matter", Cambridge Univ. Press 1992

[原文 2-4] Like so many works that have had a great impact on human thinking, it makes points that, once they are grasped, have a ring of almost self-evident truth; yet they are still blindly ignored by a disconcertingly large proportion of people who should know better. How often do we still hear that quantum effects can have little relevance in the study of biology, or even that we eat food in order to gain energy? This serves to emphasize the continuing relevance that Schrodinger’s What is Life? has for us today. It is amply worth rereading!
Roger Penrose, 8 August 1991
[和訳 2-4] 人間が行う思索に多大な影響を残した数々の作品と同様に、一旦その内容を理解するとその内容が真実であることを、恰も内容自身がベルを鳴らすかのように、読み手の耳に真実だよとのシグナルが届きます。それほどまでの内容なのに、腹が立つほどに大きな割合の人々、この人々にこそ良く解って貰いたいと思うような人々からは、気付かないで無視され続けることは良くあります。今日でもなお量子力学は生物学の研究には大して役立たないとか、私たちが食事を摂るのはエネルギーを得るためだと主張する人々が、どれほど大勢いることでしょう? 驚きです。ここに示す私の献辞は、シュレジンガーの小編、「生命とは何か?」が今日も変わらない存在価値をもっている旨、強調する目的でしたためたものでございます。この小編は真に読む価値のあるものでございます。 (ロジャー・ペンローズ、1991 年 8 月 8 日)

Lines between line 24 and line 32 on page x, "What Is
Life? & Mind and Matter", Cambridge Univ. Press 1992

余談ながら、Penrose 氏のこの献辞を読むと、一か月以前に読んだ Joseph Conrad の英語も 今読みつつある Erwin Schrodinger の英語も読みづらいことこの上なしだと感じます。ここまで理屈っぽく書かないと理路整然とした文章にならない訳ではないはずであろうにと思わずにおれません。


3. Schrodinger の英文はやっぱり下手なのです。

下手、ambiguous な文章の読解の挑戦される方は次の引用原文を読んでください。

そうでなくて彼の教えを頭に入れたい方は添付の Study Notes を片手に原書(Cambridge Univ. Press, First print 1992)、または本記事冒頭に記したサイトにある原文をご覧ください。

ambiguous なのは次の引用部分でだけではありません。おそらく全体がそうでしょう。ambiguous な箇所の理解には読み返して理屈の通るような解釈が何なのか、それでいて書かれている単語の意味を逸脱しないかと考え抜く以外はないのです。

[原文 3-1] THE WORKING OF AN ORGANISM REQUIRES EXACT PHYSICAL LAWS
[和訳 3-1]「生物の生命活動には(動作を指揮する法則として)正確無比の(正真正銘の、紛れものではない、)物理法則が不可欠です。」
(生き物の個体が生き物である故の機能を発現するが、その動作は物理の法則に従うのであってそれ以外の指示を受けてするのではない。)

Lines 28-29 on page 8; "What Is Life?", Cambridge Univ. Press

[原文 3-2] If it were not so, if we were organisms so sensitive that a single atom, or even a few atoms, could make a perceptible impression on our senses - Heavens, what would life be like! To stress one point: an organism of that kind would most certainly not be capable of developing the kind of orderly thought which, after passing through a long sequence of earlier stages, ultimately results in forming, among many other ideas, the idea of an atom.
[和訳 3-2] 前述のようなことがもし事実でないとすれば、すなわち、一粒の原子、少し譲って数粒の原子が私たちの五官に認知可能な変化を加え得るほどに、私たち生物が鋭敏であったならば、—オオ天よ(さあ大変な事態です)、生命が、今の私たちが知っている生命とどこまで遠くかけ離れていたことでしょう! ここで私は、一つ強調すべきことを記しておきます。仮に存在し得たとしても、このような生物は、ほぼ間違いなく、論理的な思考とでも言う行為を実行し成果を生みだすことはなかったでしょう。ここでこの論理的な思考とは、何らかの発想から始め、それを一定順序に従う何段階もの工程を経た結果、ようやくにして、それもこれ以外の沢山の発想も行いながら、一粒の原子という構想にまで発展させる類の行為のことです。

Lines between line 30 on page 8 and line 2 on
page 9; "What Is Life?", Cambridge Univ. Press


4. 慣用句や熟語の的確な使用が英語なる言語になぜ不可欠なのか。

この著作によって、英語の勉強にあって面倒で仕方なかった慣用句や熟語の役割が実感できるというものです。

ついつい以下のようなことを呟きました。憤懣は貯めておけません。

シュレジンガーは決して観念的なことを述べてはいません。もし読み手がこの文章を観念的だとか、形而上世界の話だとか、高尚な科学者は宗教者とか孤高の仙人の境地に昇り詰めるものだ、と少しでも感じるなら、英語が読めていないということでしかありません。但し彼の英語は外国人の英語であって英語を母語としないことから、自身の母語の単語をそれに近い英単語で置き換え、母語の文法を英語の文法に変更するにあっても硬直した置き換えに留まっていると思えます。英語の話者なら慣用句を使い克服するような細部の依存関係を一つひとつ言葉にせざるを得ないシュレジンガーは、あきらめずに頑張っているに違いありません。話す内容の厳密さと発想の積み重なりの詳細を書き記したい彼自身の熱意に引きずられる結果だとも言えます。

読者としては話の中身の重さに魅かれて努力する寛容さを発揮するべきでしょう。それに値するのです。


4. 指に触れた感触が脳に伝わり脳が判断を下す。身体の中で何が起こっているのでしょう?

今読み進んでいる節 'THE WORKING OF AN ORGANISM REQUIRES EXACT PHYSICAL LAWS' の終わり近くの一節を引用します。

[原文 4-1] The reason for this is, that what we call thought is itself an orderly thing, and (2) can only be applied to material, i.e. to perceptions or experiences, which have a certain degree of orderliness. This has two consequences. First, a physical organization, to be in close correspondence with thought (as my brain is with my thought) must be a very well-ordered organization, and that means that the events that happen within it must obey strict physical laws, at least to a very high degree of accuracy.
[和訳 4-1] この理由は、私たちが思考と呼ぶものが、それ自身が規律でできあがるものであることにあり、もう一つの理由は、この思考は材料(素材)それも一定レベルの規律を充たす認識なり経験だけをその対象にできる《思考を材料(素材)だけに適用できる》ことにあります。この結果、次の二つの事情が発生します。一つは物理的な組織が思考との間に密接な相当性を保つとなると(例えば私の脳と私の思考との間にある相当性のごとく)、当該組織が高度に規律に従ってなる組織でなければならないことになります。すなわち、その組織の内部で進行する動作が厳密に物理学的規則に従わねばならないことです。それも非常に高い精度が何にもまして不可欠です。

《 コンピュータで処理する為にはデジタルな信号が不可欠だという現在の常識を言い当てているようです。》

Lines between line 27 on page 9 and line 5 on
page 10; "What Is Life?", Cambridge Univ. Press

1944 年に Schrodinger が述べたこの一節が、私をして、2000 年頃に自身が読んだ Richard Dawkins の文章(Printed in 1995)を思い起こさせました。

次の引用は東京大学教養部の教科書 "The Universe of English II" に収載されたRichard Dawkins の Essay、 'Evolution Goes Digital" にある一節です。

[原文 4-2] When I was a small child, my mother explained to me that our nerve cells are the telephone wires of the body. But are they analog or digital? This answer is that they are an interesting mixture of both. A nerve cell is not like an electric wire. It is a long thin tube along which waves of chemical change pass, like a trail of gunpowder fizzing along the ground -- except that, unlike a trail of gunpowder, the nerve soon recovers and can fizz again after a short rest period. The absolute magnitude of the wave -- the temperature of the gunpowder -- may fluctuate as it races along the nerve but this is irrelevant. The code ignores it. Either the chemical pulse is there or it is not, like two discrete voltage levels in a digital telephone. To this extent, the nerve system is digital. But nerve impulses are not dragooned into bytes: they don't assemble into discrete code numbers. Instead, the strength of the message (the loudness of the sound, the brightness of the light, maybe even the agony of the emotion) is encoded as the rate of impulses.
[和訳 4-2] 私が幼い子供であった頃のことですが、母が「人間の神経細胞が連なり出来た神経の糸は身体の中にある電話線だよ。」と私に教えてくれました。ところで、この神経の糸はアナログそれともデジタル、さてどちらなのでしょう? この答えは、「双方の巧妙な混合」です。神経を作る細胞は電気を通じる電線ではありません。それは細くて長いチューブです。その中を化学物質の変化が手渡しされるように移動します。あたかも火薬で地面に作られた導火線がブスブスと弾けて火が伝わるのに似ています。但し神経の糸にあっては、しばしの休憩の後には元通りに回復します。この波の強度、それに対応する導火線の温度の高さも同様ですが、この強度はその移動の途上にあって、上下方向の振れを持っているのですが、当該情報の意味には影響しません。神経の糸を伝わるコードはこの種の振れを無視するのです。化学反応パルスの有無だけが意味を持つ、すなわちデジタルの電話において電圧を高低の二段階で読み取るの同じ仕組みです。この意味で神経システムははデジタルなのです。しかし神経を伝わる衝撃はバイト単位に組み上げられている訳ではありません。すなわち神経の糸の中を移動する衝撃はとびとびの数を意味するコードを形成するために一定数の組を作るということはありません。それに代わって、これら衝撃が発生する頻度が、伝える事項の強弱(音の大きさ、光の強度、更には、おそらくですが苦しさの強弱)の伝達役を果たします。

Lines between line 13 and line 29 on page 80,
"The Universe of English II" University of Tokyo Press


5. Study Notes の無償公開

今回の読書対象はこの本の序文ページから初めて Page 10 の上部2/3までです。ご自由にご利用ください。