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91回目 "The Wars Against Saddam" を読む(Part 6)。大統領は 父Bush から Clinton そして 息子Bush に替ります。無法者 Saddam の追い落としはまだ完了していません。

イラクがクウェートに侵攻・略奪したのが 90 年 8 月、連合軍に追い出されたのが 91 年 3 月でした。しかし、その後も 13 年間の長きに渡り Saddam Hussein はイラクの大統領として居残ったのです。こんな大統領には国民の暮らしを慮る余裕も理想もありません。大統領の息子二人と娘ふたり、その親よりはましかと思いきやそれ以上の悪(ワル)でした。


1. Clinton の行動を描くに当たり、Simpson は Clinton の気質を端的に表現します。

世界の人々にとっての「米国の大統領の大事さ」にしばし気を失うほど、私には重い話題です。

[原文 1] For a man of such understanding, he wasted a good half of his second term in office -- the period when he could have achieved the most -- simply trying to stay ahead of the posse as a result of his inability to control his sexual desires. and for a man of undeniable humanity, who really cared about the ordinary people of the world, he spent a great deal of time attacking them and bombing them: in Serbia, in Kosovo, in Sudan, in Afghanistan. And of course in Iraq. Bill Clinton was a remarkable and in many ways a noble man, yet he had more innocent deaths on his conscience than any American president since Richard Nixon.
[和訳 1] これ程までに図抜けた物事の理解力の持ち主であったのに、この男は第二期目の大統領任期のほぼ半分、最も実り多かったであろう期間を失ってしまいました。淡々と努力を続けておれば政治の世界の同類たちの上に立ち続けることができたであろうに、自分の性的欲望を自制できなかったが為でした。彼は誰もが認める人間的な優しさに溢れた人間であって、本当に世界中の庶民のことを思っていたのです。しかしこれと矛盾することに、任期中の多くの時間をそのような人々に銃弾を発射し爆弾を落とすことにも費やしました。セルビアで、コソボで、スーダンで、アフガニスタンで。もちろんイラクででもです。ビル・クリントンは特筆に値する人間です。色んな面で高貴さを持つ人間です。そうではあっても、リチャード・ニクソン以降のいずれの大統領よりも大勢の一般市民の死を自らの良心に負担させたのでした。

Lines between line 1 and line 10 on page 248,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback

丁度この部分を読んでいた日に、倉本 総 氏の発言を東京新聞、2024年5月3日付朝刊で読みました。氏の言葉、「人を殺せるか、兵士として戦場に行けるか、それを心に入れて憲法改正の是非を人々は考えているのか疑問だ」との主旨の言葉が Simpson 氏の言う「Clinton の良心が負った重い負担」と重なり私の頭の中で反芻されます。

倉本氏に限らず、日本におけるこの分野の議論にあって抜け落ちていることが多いのは「日常の生活を送る場所が爆撃どころか戦場になることの恐怖・残酷さ」です。反芻によって私の頭の中にはこの残酷さだけが未消化の塊として姿を現します。

カズオ・イシグロの "When We Were Orphans" にあって上海の繁華街一帯を占拠したのは日本軍でした。私自身の体験として、この上海から逃げ出し紆余曲折の上、米国に住まいを移した教会の牧師夫妻の息子(化学分野のPhD)と同じ会社の同じ部門の同僚として 2 年半過ごしています。その間何度も「日本人へのわだかまり」を語り合いました。招かれてご両親の家で静かに心温まる味わいの中華料理も体験しました。 同僚である私たち二人、 27 才の頃でした。


2. Saddam の軍が Kuwait で殲滅されたのに Saddam は大統領に留まったことで引き起こされた苦悩。

Kuwait の街を 1990 年 8 月末以来占領していたイラク兵士たちの無法・無秩序な振る舞い、91 年 1 月後半に連合軍の反転攻勢が始まるとその圧倒的な強さ、そして闘う目的の虚しさ故に戦闘意欲の無い兵士達、そして逃亡する兵士の割合の高さを取り上げる記述は、読者の既に読み記憶するところです。

米軍を中心とする連合軍は即座に軍をバグダッドまで進めるのでなく、91 年 1 月 15 日(ニューヨーク時間)のデッドラインを定め、軍の撤収、サダーム政権の解散並びにその後の政権・政策ブランの提示を迫った国連決議へのイラク側の反応を待ちました。実際にはデッドラインが満了して間もない 1 月 17 日(バグダッド時間)には、バクダッドへのミサイル攻撃が実行されたことも読者は読みました。父の Bush が大統領の時(Jan. 1998 - Jan. 2003)のことでした。

91 年 2 月 24 日の夜明け前には、Kuwait を占拠している Iraq 軍に向けて、米軍と英軍の大量のロケット弾が 発射されました。またその日の夕刻には米英軍、並びに仏軍の部隊がサウジ領域からイラクの砂漠地帯に入り込み Kuwait から敗走してくるイラク兵を攻撃したことも読みました。

米国政府高官 James Woolsey (発言時は Clinton 政権下の CIA 長官) の言葉、すなわち後日談なのですが、これを傍証としながら、米国側が犯した大失策として時の Bush 政権の躊躇、地上軍をイラク国内に進めることを躊躇した政策についても読者は読みました。Saddam Hussein を政権から排除する機会をのがし、この男を生き延びさせたのでした。

これらを予備知識として持っている読者を前提に次の文、段落が現れます。

[原文 2-1] In 1992 Saddam Hussein, putting his fears of espionage before the interest of his people, introduced a new series of controls and methods of surveillance over the dozens of international aid agencies which were helping to rebuild Iraq after the destruction of the Gulf War. They were so restrictive that most organizations decided to pull out rather than subject themselves to treatment that was often hostile and sometimes put aid workers' lives in danger.
[和訳 2-1] 1992 年のこと、秘密下に侵攻する自身への敵対活動への恐怖への対策に忙しくて人々の生活を考える余裕のないサダーム・フセインは国際機関の出張組織の活動に対する一連の規制とそれら活動の監視体制を新たに導入します。これら出張組織は湾岸戦争で破壊されたイラクの人々の生活の再建を援助するものでした。この規制は厳しいもので殆どの出張組織は、その所員達をその規制に服させることを選ぶよりも国外に退去させたのでした。規制の多くは敵対的でその規制下では援助活動を担う所員の命に危険が及ぶのでした。

Lines between line 11 and line 17 on page 248,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback

[原文 2-2] Before the invasion of Kuwait in 1990, Iraq had entered the front rank of developing nations. There was some poverty, but Iraq's educational and health standards were distinctly higher that those in Egypt or Syria, and were starting to approach the levels of the Gulf States. All this vanished as a result of the invasion and the war. As early as March 1991 the Finnish politician Martti Ahtisaari, visiting Iraq on a fact-finding mission for the United Nations, was seriously alarmed by the consequences of the war.
  'The recent conflict has wrought near-apocalyptic results,' he said, 'Iraq has, for some time to come, been relegated to a pre-industrial age.'
[和訳 2-2] 1990 年のクウェート侵攻が発生する以前の頃のイラクは発展途上国と呼ばれる国々の中ではトップ・ランクの一員に数えられていました。確かに貧困な人々も少なくはなかったのです。それでも教育と健康管理の面では他の国々、エジプトやシリアのそれらを越えていて、湾岸諸国の域に接近していたのです。このような事情はこの侵攻とそれに続いた戦争によってすっかり消滅しました。戦火が治まって直ぐの 1991 年 3 月には国連が事情調査の為の人員をイラクに派遣しました。そのチームを率いたフィンランド人政治家のマルティ・アーティサリはその戦禍の悲惨さに驚愕します。彼は「この度の衝突はあの黙示録に劣らないまでの悲惨な結果をもたらしています。これからの一定期間、イラクは産業と呼べるものが未だなかった時代のレベルの生活を強いられるだろう」と表現しました。

Lines between line 27 and line 36 on page 248,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback


3. Clinton の気質に比較するべく Tony Blair の気質も Simpson は漫画家のような視線で描きます。

まだ終わっていなかった Saddam Hussein の追放の為の行動は、それまでの大統領で最低の知能指数の持ち主であった(という報告のある)George W. Bush (息子)とそれをサポートする以外の選択ができなかった Blair が実行することになりました。

その Blair の気質、彼がおかれた状況は Simpson によると次の通りです。

[原文 3-1] To his closest colleagues, Tony Blair had all the qualities a visionary leader should possess -- except one. He was passionate, highly articulate, quick-witted, a charmer who possessed the human touch. As a young man he spoke to a friend about his longing to achieve something for his country. Tony Blair was a conviction politician, a man who wanted to do things, to change the country for the better, not just a Harold Wilson figure for whom power itself was the aim of politics. But he had one major failing: he wanted to be liked.
[和訳 3-1] 彼を取り巻く政治家たちとの比較で言うのですが、彼 Tony Blair はビジョンを掲げて仕事に取り組むタイプの政界リーダーに必要とされる全ての気質、そんな観点からは欠陥と言うべき気質が一つあったものの、それら必要とされる気質の全てを備えていました。情熱的で、人並みはずれた精緻さを示し、頭の回転も速く、人間性に富む好男子です。若さ溢れる人間に共通の特性として自国の為にこんなことをやり遂げたいとの抱負を親しい友人には漏らしていました。Tony Blair は確信を持って行動するタイプの政治家です。やり遂げたい事を頭に持ち続けています。それは「この国の人々の在り方」(国家でなく country)を良くすることです。ハロルド・ウィルソンの様な人間であること、すなわち政治に携わる理由に権力を挙げるなどもっての外だと考えていました。 しかし大きな欠陥が一つあります。人に好かれることを常に希求しているという彼の側面がこの欠陥なのです。

Lines between line 18 and line 25 on page 265,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback

[原文 3-2] This brought all sorts of secondary problems with it. It ensured that he was overly dependent on his close allies: people like Peter Mandelson, Anji Hunter, Alistair Campbell. It made him extremely sensitive to what the newspapers said about him. It lured him into a dangerously dependent relationship with the newspapers of Robert Murdock's News International. And it meant that while he dominated British political life, especially in the absence of any imposing figure on the opposition benches, he was inclined to defer to one or two foreign leaders: specifically, Bill Clinton and George W. Bush.
[和訳 3-2] この欠陥がさまざまの二次的なトラブルを引き込みました。彼に近しい政治家仲間の意向に必要以上の配慮を加えることに繋がったのです。仲間とはピーター・マンデルソン、アンジ・ハンター、アリステア・キャンベルたちのような人々です。この欠陥は様々な新聞が彼のことをどう言ったかを極度に気にする方向に彼を導きます。この欠陥はロバート・マードックが支配するニュース・インターナショナル社が発行する幾つかの新聞に危険なまでに大きく依存する事態に彼を引き入れました。その結果、英国の政界を自らの手中に収めているにも拘らず、彼は外国のリーダーである人物の一人あるいは二人に、具体的には Bill Clinton と George Bush にかしずくように振る舞うことになりました。手中の収めていると言いましたが、この当時、労働党に対抗する党のリーダー格たる人物に大物政治家といえる人間が不在だったことにもその原因があったのでした。

Lines between line 26 on page 265 and line 2 on page 266,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback

[原文 3-3] Blair, though an instinctive European, subscribed wholeheartedly to the basic tenet of British foreign policy, which was that Britain's position in the world depended mainly on keeping close to the United States. As a result, when he came to power in 1997, he set out immediately to make himself Bill Clinton's closest ally. It wasn't altogether difficult. Clinton was something of an anglophile, yet he had not been at all close to Blair's predecessor John Major. (Major had ham-fistedly tried to help George Bush senior's chances in the 1992 presidential election by agreeing to a search of British police and security records for anything Clinton did during his time as a Rhodes scholar at Oxford which might be used against him by the Republican Party.)
[和訳 3-3] 骨の髄までヨーロッパ人といえる体の人である Blair は心底より英国の外交政策の原則に沿った考え方、世界の体制における英国の今の立ち位置は合衆国との緊密な関係の維持に懸かっているとの考え方をしていました。その結果、1997 年に首相になった時にはすぐさま Clinton の近しい盟友と認められるべく画策し始めました。この画策は一言で言って難しい仕事ではありません。Clinton は Blair の前任者であった John Major とは全然近しくはなかったのですが、英国人好きであったのです。(Major は1992 年の大統領選挙に際して、執拗に Bush(父)が大統領に再選されるべく力を貸したのでした。英国の警察や国家安全機構が保有する、Clinton がオクスフォード大のローズ財団の奨学生として英国に住まいした期間の Clinton の行動の記録を調べ尽くすことを約束したのです。共和党が Clinton への攻撃材料を探す作業に加担したのです。)

Lines between line 3 and line 13 on page 266,
"The Wars Against Saddam", a Pan Books paperback


4. 無神論者 Christopher E. Hitchens の議論における武器としての名言・明察。

左翼的な評論家の多くが米軍の武力攻撃がイラクの一般の人々にもたらすことになるであろう被害の悲惨さに陸上部隊のイラク国内への進行に反対しました。英国国内でもかつてなかったスケールのデモが発生します。

そんな中で、徹底して左翼よりな発言で知られ、それを自認する Christopher Eric Hitchens (2011 年癌により死亡)は Bush と Blair のイラク侵攻方針に支持を表明しました。 この Hitchens 氏の名言・明察といえる言葉 "Epistemological Razor 剃刀の刃のごとき哲学" を Wikipedia の記事に見つけました。次の通りです。

[原文 4] "What can be asserted without evidence can also be dismissed without evidence"
[和訳 4]根拠を明示できずしてなされる主張を拒否するに、拒否する根拠の提示など不要です。


The article under 'Christopher Hitchens' in Wikipedia


5. Study Notes の無償公開

今回 Part 6 の読書対象である Pages 247 - 293 に対応する私の Study Notes を無償公開します。A-5 サイズの用紙に両面印刷することを前提に調製しています。公開するワード形式とPDF形式のファイルの間に内容文書の差異はありません。役立てれば幸いです。