1. 読むことそのものが喜びである モーム の文章
福田尚弘氏の note 記事(モームの入口②「コスモポリタンズ」)の心地良い紹介文章に誘われて、その原文を読むことにしました。W Somerset Maugham の短編集 "Cosmopolitans" にある ”The Bum" です。
英語原文は私の前回投稿にある "The Wash Tub" と共にインドの団体(?)の archive.org なるサイトに無償で公開されている書籍、 Cosmopolitans に収載されています。
私の今回の記事では、”The Bum" の冒頭文章を取り上げます。
別にこのことを知ったからとて、この文章の読み手には医学知識や料理のレシピを知ることで得られる類の利益はありません。この程度の内容の事柄をこれほどまでに工夫を凝らして書き上げられたこの文章は、読み手に対してあなたはこんなに面白いやり方で表現できますかとチャレンジしてくるのです。テレビ番組で人気を博しているそれなりに易しいクイズ番組と同じ楽しみを振り撒いているのです。
2. モームの文章と対局をなすかのように平板な文章の例
書き手が達意の文章と小説の文章の区別、この小説における適否を考えた上でこの様に平板な文章にしたのか否か良くは分かりませんが、次の翻訳文(ドイツ語の小説の英訳文)に出くわしました。(「ほんやくWebzine」という私的グループにより公開された投稿記事です(下段に引用先を掲示)。
広く翻訳文にあっては、原文が小説であっても、原文の意味を忠実に伝える方を優先すべきだと私は思っています。闇雲に原文が持つ雰囲気だの遊び心だのの再現を狙って原文の意味を疎かにされるのを私は好みません。私が「小説の翻訳には頼りたくない」と思う理由がここにあります。
上にモームの文章の和訳を記してはいますが、この和訳文を作るに当り、私には原文の雰囲気を映し出そうなどとは全く考えたことはありません。意味が通じる範囲で元の文章の使役関係などをそのままにしたい、文章の意味が明確であるようにとは望んではいますが。
このようにして出来た上記の和訳文はおそらく次にあげるドイツ語原文の英訳文と、「平板な文章である」という点で似ているのだろうなと思っています。この記事を読んでくださっている方々に読み比べて頂ければとの趣旨でございます。
ここに引用した文章は、私が 今や昔となった35 年間、仕事にしてきたエンジニアリング分野の作業マニュアルや化学工学分野のプロセス・エンジニアリングの世界の言葉と変わりません。
この文章を読むとこの男の顔や人柄よりもこの作業手順がどういう理由の下に順序だって行わねばならないのか、冬になって配管の水が凍結するので水を残してはならないのだなとか、万が一にも栓が甘くて配管内に水が漏れて流れ込んではいけないのだなとか、倉庫のヒーターを傷めないように取り外し、ベッドの横に取りつけて使うのだから気合を入れてやらないとまずいなとかついつい考えてしまいます。小説そっちのけです。私にはそれはそれで面白い世界です。今ではなつかしさが心をよぎるような要素も加わります。
平板な文章は芸術ではないと言いたいのです。ただし小説が芸術であるためには平板な文章であってはだめだとは言っていません。小説の価値は文章の巧みさのみで決まるのではありません。
3. "The Bum" の時代を頭に描いてこの短編を読む。
Cosmopolitans なる単行本が発売されたのが 1936 年で、それに先立つ何年かに渡る期間に Cosmopolitan という雑誌に連載されたモームの 30 本の短編の一つがThe Bumだということです。この舞台となったメキシコはトロツキーがロシア革命の後、スターリンの政権から敵視され亡命していた土地です。このトロツキーがメキシコで殺害されたのが 1940 年とのことですから "The Bum" の時代(想像するに1932 - 1935 頃)、そしてモームが描く町の様子(歴史の知識・学習した経験には乏しいながら、私が想像する当地の社会)とよく一致するのです。またローマでの「モームとこの男の出会い」も私が会社員として外国の都市に駐在していた時のこと、安いホテルで一人で食事していて言葉を交わした若い日本人たちグループが居たという経験とも、時代が70年程ずれてはいても、よく一致します。
余談ながら驚いたのはこのトロツキーがウクライナのヘルソン地区に生まれ育ったとの記述(ウィキペディアJP)でした。
4. Study Notes の無償公開
例によって私の Study Notes を無償公開します。この短編 "The Bum" の一遍全体に対応するものです。A-4 の用紙に両面印刷すると A-5 サイズの冊子ができるように調製されています。