国連がその本部のあるニューヨーク時間を基準に、1991年1月15日 0 時を期限として、イラク軍にクウェイトから撤退する様に要求していました。
John Simpson を中心としたBBCの取材チームは欧米軍の反抗の開始を想定してイラクへの入国を果たします。そして Baghdad の有名ホテルの高層階の部屋から街にミサイルが降り注ぐのを自身の目で観察、撮影します。
イラクにこのようなタイミングで入国出来たことには、ジャーナリストたちによる、それなりの努力があったのです。
イラクによるクウェート市全域の武力支配が続く中、Amman (隣国のヨルダンの首都)でイラクの外務大臣が会見を開きクウェートに閉じ込められている何万人もの外国人の取扱い(出国・帰国をどのように実行するのか)の説明会が開かれたのです。その終了時の混乱の中で、Simpson は自分の顔を知っていた外相にいきなり口頭で入国許可が欲しい旨、伝えます。予想に反してその外相、その場の即断で入国許可の口約束をくれたのでした。もう一つ Simpson が驚いたのはそれが空手形でなかったことでした。
そんな経緯で、世界各国のジャーナリストがイラクに入国できることになりました。しかし入国したばかりのジャーナリスト達には、それぞれの本国政府から、バグダッドへの爆撃が始まると見込まれる故、即刻バグダッドから退出しろとの要請が発せられます。その結果、退出したジャーナリストも多かったのですが、残った者も少なくなかったのです。
1. 爆撃下の街、幾つものミサイルが襲う夜間のバクダッドをホテルの上階から観察し、翌朝にその惨状を見て廻りレポートします。
1月17日の夜、爆撃の始まることが必至であることから、ホテルの客も関係者も、おそらく近隣の人たちもがホテルの地下に退避した為、地下の部屋は人がひしめき合い、体臭も充満します。Simpson のチームメンバーはここを抜け出し守衛たちの制止を振り切り自分たちの部屋に戻ったのでした。
ホテルの高層の窓から観察・撮影した夜。その翌朝には何とかタクシー運転手を見つけて、その破壊された現場の観察に出かけます。
2. 自身の感情を吐露せずにはおけなくなったのでしょう、Simpson 記者の無力感を印象的な文章で。
次の引用は '35. BOMBING' と題された節、ミサイルが降りしきった夜とその翌朝、ミサイルが終了した午前中のバグダットでの体験です。
一般市民が逃げ込んでいたコンクリート製の地下室もあるシェルター・ビルディングがミサイルで破壊され、シンプソンが数日前に取材に訪れた学校はそのすぐ隣にありました。教室で進行していた女子学生向けの英語の授業(be 動詞人称変化の練習)をしっかりと観察していたのです。
3. ミサイルによるバグダッドの街の攻撃の後は砂漠地帯で大量のイラク兵が抵抗できずに戦車群の前に命を失ったのです。
米国を中心とする西欧諸国の連合軍が圧倒的に、イランとの戦争で疲弊しきっていたイラク軍をせん滅する様を Simpson はこの節 36. Desert War に「生々しさ」を排除することなく例示してくれます。
生々しい描写の後の締め括りの部分を以下に引用します。
4. Baghdad へのミサイル攻撃は一晩、一か月後の砂漠地帯での戦闘は 40 時間で完了。Saddam Hussein の軍隊は完敗でした。
しかし、その結果 Saddam Hussein は大統領の地位は固まったと Simpson は解説します。
5. Study Notes の無償公開
A-5 サイズ用紙の両面に印刷し左をステープラーで束ねることを前提に調製しています。私が読解時に作成したノートです。ご自由にご利用ください。
今回は原書 Pages 200 - 247 が読書の対象です。ここに公開するファイルはWord形式とPDF形式の2つです。双方は同じ内容です。