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【歌詞考察】藤井風『満ちてゆく』がすごすぎた。まるで現代のお経。
今年もこの時期が来てしまった。
そう、僕の誕生日だ。
僕は6月13日で27歳になる。
この年齢まで生きながらえたことを喜ばしく思いつつ、もうこの年齢になると歳を取るのは辛いもので「もう27歳かぁ。。早いなぁ。。」と悲しくなったり、毎年必ず誕生日に連絡をくれるが誕生日にしか連絡を取らない友人からのLINEに喜んだり、様々な感情が胸に去来する。
そんな悲喜こもごもの中、僕の脳内の大部分を占めるのは、藤井風に対する嫉妬である。
彼と僕は誕生日が1日しか違わない。
彼の方が僕より1日遅れて生まれてきたのだが、彼は今や世界を股に掛ける大スターだ。
かたや僕は、せっかくもらった1日のアドバンテージも空しく、今日もネットに妄言を垂れ流している。
今もまさに、彼の今時点での最新曲『満ちてゆく』にフォーカスし、「やっぱり根底には仏教的思想があった!」という胡散臭さ満点の記事を書こうとしている。
ただ、これは妄言でもなんでもなく、彼の歌詞を(深読みであったとしても)読み解いて理解することで、知らぬ間に大きな差をつけられてしまった同輩に「歌詞の理解」という一点だけでも並んでやろうという僕のわるあがきなのである。
せっかくなので、以前『ガーデン』の歌詞考察をしたことを活かし、『ガーデン』の歌詞や、その根底にあった仏教的思想との繋がりを踏まえてより深い考察ができればいいなと思っている。
まずはぜひこちらを読んでから続きを読まれたし。
1番サビまで
走り出した午後も
重ね合う日々も
避けがたく全て終わりが来る
あの日のきらめきも
淡いときめきも
あれもこれもどこか置いてくる
それで良かったと
これで良かったと
健やかに笑い合える日まで
ここでは終始「どんな物事にも終わりがくる」ということが歌われている。
まさに諸行無常。
「走り出した」「重ね合う」と「きらめき」「ときめき」が対応しているのもすごく素敵だ。
打ち込めるものや愛する人に出会ったときの「きらめき」と、それとともに過ごした日々の「ときめき」。
そんな過去の輝かしい瞬間や感情も最終的には手放さなければならない。
これは物事への執着を放棄することでもある。
現実をあるがまま受け入れる「受容」の心が大事であり、それこそが心の平安をもたらす。
つまりここでは、物事への執着を捨ててあるがままを受け入れることで、真の心の平安が得られ、「これでよかった」と思える日が来るということが歌われている。
1番サビ
明けてゆく空も暮れてゆく空も
僕らは超えてゆく Ah
変わりゆくものは仕方がないねと
手を放す 軽くなる 満ちてゆく
満ちてゆく
ここもAメロからの流れを踏んで考えれば、
「世の中は諸行無常だから目先の物事にいちいち気に病むな」
というようなメッセージに見える。
ここの「手を放す」という表現で思い出されるのは、『ガーデン』のラスサビ前の一節「掴んだ手 解き放て 空の果て」である。
僕は以前の記事でこの歌詞について「社会というガーデンを捨て、何にも期待せずあるがままを受け入れることで煩悩から解放され解脱に至ることができる。」と考察した。
『満ちてゆく』でも似たようなことを言っているのではないか。
つまり、「この世は諸行無常。だから、どんな素敵な瞬間も、どんな辛い瞬間も必ず終わりが来る。だから、この幸せが続けばいいななんて期待もせず、この苦しみがいつまで続くのかなんて絶望もせず、あるがままを受け入れることが大事である。それができれば煩悩から解放され、満たされた気持ちになるよ」ということではないだろうか。
2番サビまで
手にした瞬間に
無くなる喜び
そんなものばかり追いかけては
無駄にしてた"愛"という言葉
今なら本当の意味が分かるのかな
愛されるために
愛すのは悲劇
カラカラな心にお恵みを
ここでは一転し、「慈悲」について歌われている。
仏教用語での慈悲について、浄土真宗得蔵寺のHPでは
慈悲は、他者の苦しみを理解し、その苦しみを和らげることを心から願う感情や態度を指します。
(中略)
仏教における慈悲の心の本質は、自己利益や条件を超えた無償の愛と共感に基づいています。
とある。
つまり、見返りを求めない無償の愛こそが慈悲である。
「愛されるために愛すのは悲劇」というフレーズからも、「満ちてゆく」では、この見返りを求めない「慈悲」こそが本当の「愛」だと歌っているのではないだろうか。
2番サビ
晴れてゆく空も荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく Ah
何もないけれど全て差し出すよ
手を放す 軽くなる 満ちてゆく Oh Heh
ここではどんな状況でも愛をもって接することの重要性を歌っている。
先述した仏教の「慈悲」の実践を表現しており、無条件にすべてを差し出すことで心が軽くなり、満たされることを示している。
すべて差し出すことで満ちてゆくというのは矛盾しているようにも見えるが、世の中は意外とそういうものである。
「与え好きの法則」というものがある。
要は、ものを与える人のもとにはものが集まってくるという教えで、現代においては情報において用いられることが多い。
情報を教えてくれる人のもとには人が集まり、与えた情報の見返りとしてその人たちの持っている情報が得られるのだ。
だがその見返りありきで考えてはいけない。
それこそが煩悩であり、苦しみを生むものだからだ。
あるがままを受け入れ、無償の愛を捧げていく。
それによって内面的に満たされてゆくのだ。
ラスサビまで
開け放つ胸の光
闇を照らし道を示す
やがて生死を超えて繋がる
共に手を放す 軽くなる 満ちてゆく
晴れてゆく空も荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく Ah
何もないけれど
全て差し出すよ
手を放す 軽くなる 満ちてゆく Oh Heh
『ガーデン』もそうだったが、このラスサビ前の部分で一気に仏教色が強くなっている。
「胸の光」とは、仏教における「智慧」や「悟り」を象徴していると思われる。
「智慧」とは、物事の真実の姿を見抜く知恵であり、「悟り」はその知恵に基づいて得られる覚醒状態を指している。
これを「開け放」ち、「闇を照らし道を示す」ということはすなわち、
仏教における苦しみの原因である「無明(無知)」の状態にある衆生に対して、自身の「智慧」や「悟り」によって救いの道を示すということを表している。
そうすることによって「生死を超えて繋がる」と言っている。
「生死」は輪廻(サンサーラ)を象徴している。
輪廻は、生まれ変わりと死を繰り返すサイクルであり、仏教の最終的な目標はこの輪廻から解放されること、すなわち「解脱」を達成することである。
つまり藤井風は仏教の最終目標「解脱」への道をここで示している。
さらに「繋がる」とあるように、自分一人ではなくみんながこの「解脱」に至ろうよと言っているのである。
人々を悟りに導く存在という意味で、この歌は大乗仏教における仏陀になるための手順書、つまりは現代のお経なのだ!
まとめ
この歌で歌われているメッセージをまとめると
・物事への執着を捨て、あるがままを受け入れましょう
・見返りは求めず、無償の愛を捧げましょう
・そうすることで解脱でき、苦しみから解放されるよ
・解脱したら、自分以外の者も解脱に導いてあげよう
ということになる。
この一連の流れは、さながら仏教の修行と解脱のプロセスであり、それを『満ちてゆく』という曲で表現しているという意味で、現代版のお経なのだ。
藤井風はついに新たな経典まで作っちまったのか。。。
藤井風へのライバル意識から、ある一点だけでも奴に並ぼうと思って始めた歌詞考察だが、人間としての格の違いをまざまざと見せつけられる結果となってしまった。。
そんな僕への鎮魂歌こそがこの『満ちてゆく』なのかもしれない。。