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どうする!?100冊超の積読本/AIには書けない文章を楽しむ/『戸外の日記』自己を外界に映し出す
2023年6月26日
買ったのに読んでいない本のなんと多いことか。
ダブって買うことのないようにスマホのアプリ「読書メーター」に記録しているのだが、その登録も滞っている。思い立って登録し始めたがー。
多すぎる。100冊を超えたところで全容を把握するのが怖くなってしまい中断。
100冊、週に2冊読むとして1年はかかる。その間に絶対に新しい本が増えるだろうし、図書館で借りて読むことも多いので週2冊というのもかなり希望的な数字だ。どうしてこんなにたまってしまったのか。なぜ買ったのに読まないのか。いや、すぐに読む気がないのになぜ買うのか。
ほしいから、です。
本以外のものに関しても「買って安心」という傾向がある。いつか着る服、いつか使うバック。「その時」がいつやってくるのかは全くわからない。
100冊超(推定2倍はありそう)の積読本は、いつ訪れるかわからない「その時」に備えているのだ。ちなみに買ったのに見ていない映画DVDも多数あり。こちらも「その時」に備えている。準備万端、そういうことにしておこう。
少し前に目にした翻訳に関するツイートに得心。
ツイ主の翻訳者さん曰く、原作が「読みにくい、わかりにくい」と言われる作品の翻訳に対し、「わかりにくい」という感想があるが、「その感想にひっそりと安堵したりする」と。
原作の読みにくさを言語を超えて伝える翻訳者の技量もすごいし、「ひっそりと安堵したりする」という”してやったり感”というか、翻訳家としての矜持の示し方がカッコイイ。
AIによる自動翻訳の精度はどんどん向上するとは思う。そうだとしても、人の手でしかできないことがたとえ無駄なこと、かえってややこしくなること、コスパもタイパも最低なことだとしても残ってほしいと思うし、それを楽しめる読み手でいたいと思う。
ちょっと話は変わりますが、とある映画のレビューに「抜け感があってイイ」という表現があってビックリした。
「抜け感」は、リラックスした雰囲気や上手な着崩し方、の意味で使われるファッション用語。が、たぶんその映画(なんの映画か忘れました)にしっくり来ていたのだろう、違和感はなく「ほほう、そう来たか」と思った。
絶対に、いや、今のところはAIには書けない表現だと思う。「こなれ感」「落ち感」「肉感を拾わない」……、使ってみたい。
アニー・エルノーの『戸外の日記』(堀茂樹・訳)を読み始めた。
図書館で予約をしたのが昨年(2022年の10月) 半年以上も前のことなのでなぜこの本を読もうと思ったのかもサッパリ覚えていなかった。
そうか、アニー・エルノーは2022年にノーベル文学賞を受賞した人だった。その小説ではなく日常をスケッチ的に綴ったもの。
緒言にある
人が自己をあらわに見出すのは私的日記(ジュルナル・アンティーム)による内省においてよりも、むしろ自己を外界に映し出してみる時だと確信している。
という一文。おそらく本の紹介か何かでこの一文を見たのだと思う。
「外界」というのは匿名の他者たちが生きている「戸外」の日常的な場のことだろう。そんな場に散在する社会的現実のしるしを拾い集め、読み取り、書き留める営みだ。その営みを通じて、彼女は期せずして自己認識を深めたわけである。
書くことに求めていることのすべてを言い表されている気がした。