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Kaiserreich進捗報告120 ベラルーシ

(原文はこちらから)

こんにちは、Vidyaországです。主にはドナウ系の国家タグの開発を担当してますが、今回は2月から取り組んできた白ロシアのリワークについてお話します。ただし今回のリワークと、そしてロシアのリワークに関しても、今週末のパッチでは実装されません。前回からそれなりに時間が経過しましたが、ほとんどの内容がバグ修正パッチです。私たちのDiscordに参加してない人に改めて伝えると、今週末にアップデートが実装されます!ご存知のように新しいパッチでは古いセーブデータとの互換性はありません。

では前置きはこれくらいにして、ロシア・リワークの箸休めを楽しんでください。今回はロシア革命の内戦の灰燼の中から生まれた国家の一つ、白ルーシ(White Ruthenia)です。

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ベラルーシ語を捨ててはならない、そうすれば我々が死ぬことはない。-マチェイ・ブラコフ(フランチシェク・ボグシェヴィチ

長い間、白ロシアはKaiserreichで奇妙な立場に置かれてきた。役割については明確だ。「東の壁」の最東端、そして最弱の国家であり、ドイツが押し付けた君主制国家であり、カイザーの縁戚が率いられた中欧同盟の端っこの国だ。

設定面では現在の基準に追いついていないが、先王の二人の息子を巡る比較的興味深いプロットが存在する。病弱な兄粗暴な弟の不和が、やがてより大きな政治闘争に広がっていく。

今でも機能している国家タグをリワークするのには、大きく分けて二つの理由がある。
1.ドイツ帝国にはベラルーシに王国を建国し、皇帝の兄弟を冷え切った沼地に送り込むような計画などなかった。
2.先述のストーリーに合わせるため、登場するホーエンツォレルンの王子たちは、はっきり言って失礼なレベルで誤った性格付けがされていた。

そのため、このリワークではもっともらしい設定、もっともらしい対立を盛り込む。そして中でもかなり興味深いのは、国家建国計画の中で実際にベラルーシ人が着想し、やがて単なる歴史の注釈に消えた国、ベラルーシ人民共和国だ。

略史

ドイツが無制限潜水艦作戦の再開を断念した1917年、のちにベラルーシとなる領域は岐路に立たされていた。国の一部はドイツに占領され、戦場となった地域では厭戦気分が高まっていた。もともと地域は非常に貧しかった。帝政時代には中央政府から軽視され、識字率も10~20%と、ロシア国内でも最低レベルだった。

ロシア二月革命と同時期、ベラルーシには無数の「全ロシア」組織が存在し、その中でも二つの主要勢力が存在した。ロマン・スキルムント率いる「郷土運動(Krajowcy)」はミンスクを拠点とし、ポーランド=リトアニア人アイデンティティ論を持っていたが、当時は衰退傾向にあった。もう一方の「ベラルーシ社会主義グロマダ(Hramada:議会・連合)」は左派民族主義綱領を唱えていた。この二つの運動はロシア制憲議会の選挙ではあまり成果を挙げず、やがてボルシェビキの影に覆われてしまった。だが両組織は協力し、1917年4月にラーダ(Rada:評議会、正式名称は複数回変わった)を結成、スキルムントが議長に就任した。ラーダは勢力を拡大し、ボルシェビキ10月革命に対抗し、12月に全ベラルーシ大会を開幕した。だがベラルーシの独立と自決権を可決したことで、ソヴィエトは全ベラルーシ大会を強制的に解散させた。

1918年2月、ドイツはソヴィエトにブレスト=リトフスク条約を受諾させるため、攻勢を開始した。ドイツ軍がまたたく間にミンスクを占領したことで、当時ボルシェビキとの対立や現地住民の無関心などの問題を抱えていたラーダも即座に接触を図った。だがブレスト=リトフスク条約では白ロシア地域はソヴィエト・ロシアに残留することになっていたため、ドイツはラーダに微温的な回答しか返さなかった。

こうした不利な状況の中でも、1918年5月、ラーダはベラルーシ人民共和国(BNR)の独立を宣言し、同月25日にはソヴィエト・ロシアとのすべての関係を断絶した。この宣言に注目したのが、誰あろうエーリヒ・ルーデンドルフだった。彼は新たに誕生したベラルーシ国家を親ドイツ国家に変え、ロシアの影響力やポーランドの拡大を抑えようとした。

この時点ではいまだラーダの実権はほとんどなかったが、それでもドイツは着実に地域にリソースを投じ始めた。ラーダによるベラルーシ語の学校建設を支援し、民衆の教育とベラルーシ・ナショナリズムの育成を支えた。

だがドイツの支援は代償が伴った。4月、フラマダは分裂し、比較的親ドイツ派の社会民主党(BSDP)、急進的な反ドイツ派の社会革命党(BPS-R、ロシアの社会革命党とは無関係)、中立寄りの社会連邦党(BPS-F)に分かれた。こうした後退を挟みながらも、ラーダは国内問題に注力するために一定の団結を維持していた。ところがドイツ軍は西部戦線増強のために軍を引き抜いてしまった。

占領軍の撤退によってベラルーシの未来は危ぶまれたが、1919年にはフランスが降伏し、ソヴィエト・ロシアも反革命勢力の白軍と対峙していた。ドイツ帝国は西部方面を確保したことで、今度は赤軍と戦う白軍を支援し、とうとうベラルーシも正式に独自軍を創設した。ベラルーシ軍の直接の関与は限定的な規模にとどまり、西ロシア義勇軍がベラルーシを西部ロシアへの侵攻拠点にした程度だった。

やがて白軍も修正ブレスト=リトフスク条約を承認し、ベラルーシ人民共和国も正式に承認された。だがドイツの強い影響下に置かれ、その勢力圏に組み込まれたのは明白であったため、ベラルーシはその後も「白ルーシ(White Ruthenia)」と呼ばれた。またブレスト=リトフスク条約によってドニエプル川・ドヴィナ川以東、ヴィーツェプスクやポラツクへの領土主張も放棄した。多くの民族主義者は祖国ベラルーシがドイツの戦略に何ら主張する手立てがない事実に失望した。

1920年と1921年は国家の枠組み作りにおいて非常に重要な年になった。1918年初頭に公約されていた全ベラルーシ制憲議会の選挙と開催が実現し、ベラルーシ人民共和国憲法が制定された。そして1921年9月25日には第一回ソイム(Sojm:議会)選挙が開催され、ベラルーシ社会民主党が中道・左派の政党と連立を形成し、第二次フラマダことベラルーシ農労連合を結成した。新生フラマダは当初社会連邦党と連立を維持していたが、やがて新たな現状を受け入れた社会革命党や、ユダヤ人労働者総同盟(ブンド)が連立に加わった。

その一方で、スキルムント率いる人民党を始めとする非社会主義系野党もキリスト教民主主義の台頭とともに成長し、全国民主協会を結成した。それでも議会でのフラマダ優位を脅かすには至らず、やがて成功を重ねる中道左派政府との連立を形成した。左右どちらにしても、国の開発、教育の向上、民衆へのベラルーシ人意識とベラルーシ文化の強化を追及するという点では一致していた。

開始状況

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ゲーム開始時の白ルーシ。国家元首のブラニスラウ・タラシケヴィチはベラルーシの言語学者。ベラルーシ語の体系化・標準ベラルーシ語の形成に大きく貢献した。

準独立を果たした頃から大きく前進したものの、白ルーシはいまなお他の中欧諸国に比べて後進国である。国はいまだに農業を主力とし、低い識字率は今なお課題になっている(それでも1936年には40~50%に上昇している)。そして大多数の国民(主に貧しい農民)が熱望している農地改革は暗礁に乗り上げている。社会民主党の覇権も揺らいでいる。党内では農地改革の進行をめぐって左右両派の分裂が強まり、連立相手の極左政党は野党や、時には与党にまで論陣を張っている。

軍部は帝政ロシア時代の将校やドイツの訓練を受けた将校から構成されている。彼らは急進主義に傾き、反対野党に受け身一方の政府に不信感を強めつつある。根強い影響力を有するドイツ軍事顧問団と大使館もフラマダに冷ややかを視線を向けている。フラマダが党内の「隠れ社会主義者」を制御できなくなった場合、彼らは容赦なく切り捨てにかかるだろう。

最後に、議会には第三極、ヴァツラフ・ラストフスキーが存在する。一時期社会革命党に参加していたラストフスキーは有力な政治家、作家、歴史家で、1906年からベラルーシ民族主義運動に参加している。強硬な民族主義者・反ロシア主義者であり、ベラルーシをロシアの影響から抜本的に切り離そうとし、そのため言語改革や「興味深い」過激な理論を展開している。1920年に社会革命党を追放されると、ラストフスキーの周りには失望に暮れる民族主義者、遅々として進まない農地改革に行かれる農民、軍の幹部など、徐々に信奉者が集まっていった。議会でのラストフスキーの影響力は限定されているが、その一歩外では精力的に執筆活動をし、科学アカデミーの会員であり、軍部にも友人がいる。

このように、政府が農地改革を再開・完遂できるか、同時に急進派を遠ざける事ができるかが、その後の白ルーシのルート選択を左右することになる。

現状維持ー社会民主党政権の存続

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農業人民大臣のヤン・シエラダは自前の農地改革政策に関する報告書を提出する。彼は農業省への予算を増額すれば、求められている結果を出し、計画に対する民衆の信頼を回復し、さらには2年以内に収穫量を増大させることができると楽観視している。しかし与党連合の左派は納得せず、やがて今後のフラマダ会議でシエラダ案の継続か、強制的な農地再分配を含む急進路線を採用するかが大きな分かれ目になってくる。

こうした議論のさなかにブラックマンデーが発生する。白ルーシも確かに被害を受けるが、国の後進性が幸いして比較的軽微にとどまり、むしろ政府にとっては経済的独立性を向上させるチャンスになる。ブラックマンデー後も、政治家と国民の注目はより影響の大きい農地改革問題に向けられる。

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プレイヤーがシエラダの提言に賛同すると新たな一連のディシジョンが解禁され、改革の完遂を目指すことになる。このディシジョンで計画のEffectivenessとPopularityが変化し、時間内に二つを一定のレベル以上に引き上げることで、計画を完了させる。もしもどちらかのレベルが“Disastrous”にまで低下してしまうと、計画は失敗の烙印を押され、政府にも大きな影響を被る。

プレイヤーが農地改革を継続する間も、社会民主党ルートの方針ツリーを進めることができる。ブラックマンデーからの復興に取り組み(ただしドイツ本国の回復に左右される)、ユダヤ人組織からの支援を取り付ける(人口のおよそ8パーセントを占めている)。また国の教育制度を拡大してベラルーシの民族意識を強化し、かつて自らのナショナリティに無関心だった国民の目を覚まさせ、ベラルーシを他のヨーロッパ諸国に比する国に変えていこう。ツリーの最終段階で、ベラルーシの民族再興は最高潮に達し、政府は世界に対して「白ルーシ」に代わって「ベラルーシ」の国号を使用するよう通達する。

まとめると、社会民主党はベラルーシ人民共和国で健全な社会民主主義を育成し、ベラルーシ文化の発展を目指す。ロシアはベラルーシの地を取り戻し、国家建設の十数年の成果を破壊しようとしている。

クーデター

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フラマダ会議で社会民主党の急進派が独自政策を追求するか、農地改革が失敗すると、軍部が台頭し、ドイツ軍事顧問団と外交団の支援を受けて、民選政府を転覆させ、イデオロギーが父権的専制に変わる。この陰謀の中心人物はラドスラフ・オストロウスキだ。彼はフラマダの党員だったが、サンディカリズム勢力の伸張に失望してしまった。オストロウスキイの失望が、クーデターの限定的成功につながった。

前政権の大半は命からがらクーデターから逃れ、地方部で再編を図る。そしてわずかに残ったオストロウスキ派のメンバーが新たな中央ラーダを組閣する。低い正当性の中、オストロウスキは全国民主協会の支持を取り付けようとする。協会はクーデターに驚愕しているが、安定回復につながる唯一の可能性を秘めている。

協力することができれば、与党は権威的民主主義に変わり、「新人民政府」ツリーが解放される。協会に拒絶されれば、オストロウスキはラストウスキに支援を要請せねばならない。ラストウスキは窮地を察しており、厳しい条件を突き付けてくるだろう。実際にラストウスキは政権参加者を追放し、自力で国を支配し、イデオロギーも国家大衆主義に変わる。

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権威的民主主義ルートのツリー。国家元首のラドスラフ・オストロウスキはバニラのベラルーシのファシスト指導者でもある。史実では人民共和国で教育大臣を務めた。崩壊後はポーランドに移住し、幾度かイデオロギーを変えながらも右派に転向し、ナチス占領下のベラルーシでは中央ラーダ議長に就任している。

権威主義民主主義ルートでは、中央ラーダは新憲法を制定し、行政府の権限を強化し、政治制度は議会主義から脱却し、中央ラーダは大統領と内閣に変わり、議会に代わって議長に回答する義務を有する。議会の権限は大きく縮小し、議員も政府支持者や軍の代表が占める。最終的に、オストロフスキイはドイツと帝国協定との関係を密にする。国がロシアの脅威に対処できるかに掛かっているのは承知の上だ。

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国家大衆主義ルートの方針ツリー。史実のラストウスキは歴史家で、1919年から23年までベラルーシ人民共和国亡命政府の首班を務めた。その後ソ連に帰国するも逮捕され、38年に処刑。

国家大衆主義ルートでは、ラストウスキが中央ラーダの実権を握る。軍や自前の準軍事組織の支持を得て、新体制に反対する人々を逮捕する。

ラストウスキのイデオロギーは農本主義、コーポラティズム、ナショナリズムを基礎にしている。農民は国の中核であり、比して裕福な地主は外来のポーランド人か仇敵のロシア人だ。ゆえにこそ地主の土地を収奪し、ベラルーシ人の農民に分配しなければならない。各階級は国家に従属すべきだ。ラストウスキの言を借りれば、民衆は「ロシアの催眠」から目覚め、全力でロシアの影響を取り除かなければならない。そして最終的に、ベラルーシ民族は新しい名前を採用しなければならない。ベラルーシ人の最古の祖とされる中世の部族、クリヴィチだ。

彼方に待ち構えるロシアとの戦争はおそらく不可避だ。ロシアはふたたびクリヴィチ人を征服しようとしている。ラストウスキが過激な思想を実現できれば、侵略者は血を見ることになる。

人民軍

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各政治ルート共通の軍事ツリーでは、二つの分岐ルート、中央部の共通部が用意されている。ベラルーシ人民軍は対ロシア戦争の最前線となるのは目に見えているが、前線を維持できるかは不透明で、参謀本部は国家存続のための準備に取り組まなくてはならない。

左のルートでは、これまでフラマダが想定してきた伝統的アプローチを表している。人民軍を独立した軍隊に育て上げ、ドイツの援軍が到着するまで耐える。このルートでは将校の能力向上や小火器の国内生産が含まれている。またドイツから重火器を購入しつつ、徐々に生産能力を向上させ、輸出依存から脱却する。これは野心的な計画で、完了時間は長い。国が脆弱な期間は長くなるが、長期的には強くなる。

右のルートではより「現地重視」の解決策を表している。軍が反映すべきなのは人民共和国初期の非対称戦争の成功と、そしてベラルーシの現状だ。ベラルーシには独力でロシアの猛攻を止める力はない。そのため人民軍はドイツ軍を支援する純粋な補助軍を目指し、ゲリラ戦に注力する。このルートでは州軍を郷土軍に改革する。ひとたび敵が到来すれば、郷土軍は機先を制してレジスタンス運動やパルチザン軍を組織する。このルートはより「安い」解決策で、完了までの時間は少なく、準備も少なくて済む。

中央の共通ルートでは基本的な国産武器生産の土台を作り、「東部要塞」を拡張し、パルチザン軍を組織し、最後に空軍を創設する。

工業化

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白ルーシの工業力が少ないのは誰もが知っている。政治危機が片付けば、プレイヤーは独自ディシジョンが解禁され、工場や資源、研究が終了していればその他の建造物も獲得できる。それでも工業力はかなり限定される。

領土拡大

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ドイツは当初リトアニアを支持し、ドヴィナ川とドニエプル川に戦力的、ともすれば人為的な国境を設定した。そのため白ルーシはベラルーシ民族の一部しか領有せず、建国当初はベラルーシ人民共和国ははるかに多くの領土を要求していた。1922年にリトアニアとウクライナの国境は確定し、ゲーム開始時の白ルーシはこの地域の領土を要求してはいない。だがどちらかの国が動乱に見舞われ、帝国協定から離脱すると再び領土主張ができる。だがロシアとの関係が悪化しているため、白ルーシは東部地域に領土主張をしており、特にスモレンスクへの主張は過激で根拠も薄弱だ。

白ルーシは上記の領土をすべて中核州化できるが、それぞれのステートの中核州化ディシジョンに必要な政治力、完了までの時間には三つの段階が用意されている。

例えば、ヴィーツェプスクとクルィチャウはベラルーシ人が多く居住しているため難易度は「簡単」だが、スモレンスクはベラルーシ人の数は少なく、ロシア化されているため難易度が「高い」。

よほどの幸運に恵まれるか事前の設定で変えない限り、通常のプレイですべての領土を獲得できないことは注意してください。

今日の進捗報告は以上です。魅力的で、ともすれば騒乱に包まれた歴史を抱えたマイナーなヨーロッパの国家タグの新しい、より深いコンテンツを楽しんでくれると嬉しい。言うまでもないが、まだ公開時期は発表できません。コンテンツはまだ多くのブラッシュアップやテストが必要です。読んでくれてありがとう!

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