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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート95 リトアニアの変更+ポーランド、ウクライナのリワークについて
(原文はこちらから↓)
こんにちは、Augenisです!今回はKaiserreichチームが長らく進めてきたプロジェクトに光を当てたいと思います。ゆっくりとではありますが、我々はヨーロッパの目立たない地域のアップデートに取り組んできました――具体的には、傀儡国の寄せ集めの緩衝地帯にして、ケーニヒスベルク以東のドイツ系国家(Oststaaten)、東欧諸国のことです。
今のところ、東欧のドイツ傀儡国は多かれ少なかれDarkest Hour時代から変わっていません(そしてDarkest Hourでも長いこと更新されていません)。確かに私たち全員にとってなじみ深いものではありますが、新たなリワークの基準に追い付いていないのも事実です。
東欧には権威主義的君主制国家がそこら中に溢れかえり、ドイツに対する無駄な反乱は挑戦というよりも煩わしさだけが目立ち、多くの歴史的人物がありえない行動をするか、ありえない場所に住んでいます。我々は皆さんを全く異なる東欧をもたらし、同時にはるかに素晴らしい体験をお届けしたいと願っています。
これだけだと大まかで曖昧すぎるので、今日はある一国に絞って見てみましょう――フォン・ウラッハ家のヴィタウタス二世の柔和で軟弱な手腕によって統治された、リトアニア王国にお連れします。
王国の成立
1917年のヴィリニュス会議で選出されたリトアニア評議会は、リトアニア民族を代表するリトアニア初の民選機関だった。だがリトアニア独立を宣言するという希望は、周辺国すべての圧力には及ばなかった。アンタナス・スメトナの指導の下、評議会はドイツ側の要望である同盟の締結と緊密な関係――あからさまなドイツへの併合ではなかったが――に対して慎重な行動を余儀なくされた。ドイツ東部総軍最高司令部、通称オーバーオスト軍政局は評議会の分離意図を認識しながらも、その行動を認めた――これはブレスト=リトフスク条約においてリトアニア割譲を正当化する重要な交渉材料になった。
初代リトアニア評議会の20人の議員たち
短い期間の間に、リトアニア評議会は三つの独立宣言を発表した。1917年12月11日に発表されたものには、ドイツとの恒久的結束に基づく関係が記され、1918年1月8日の宣言もこれを踏襲した。だが同年2月16日の宣言では、ドイツ帝国との同盟関係についての言及は省かれ、リトアニアの諸外国との関係や政府の形態については、民主的に選出された制憲議会が決定すると記されていた。こうした行動はオーバオスト軍政局、ひいては評議会にも不十分な内容だった。ドイツは新たな国家を完全に傀儡にできるような強制的な宣言しか望んでいなかった。評議会内部でも意見が分かれていた――アンタナス・スメトナは社会民主主義派の議員から余りに親独、親君主制と見なされ、その年の前半に左右両派から尊敬を集める「国父」ヨナス・バサナヴィチュスが後任の議長に就任した。だがバサナヴィチュスの指導力で日の目を見た2月16日宣言は、意義のある内容ではなく、ただ署名されただけの代物だった。
リトアニア評議会第二代議長のヨナス・バサナヴィチュス。ブルガリアで医師として働く傍らでリトアニア語新聞「アウシュラ」を発行するなどリトアニア民族復興運動に大きく貢献し、その後のリトアニア独立運動にも携わった
オーバーオスト指導部はリトアニアとプロイセンの同君連合、すなわちドイツ帝国構成国としての実質的併合を想定していた。ところがザクセンのフリードリヒ・アウグスト3世が突如として議論に加わり、ザクセン王国とリトアニアの歴史的関係を引き合いに出し、自分がリトアニア王位を引き受けるべき理由に掲げた。帝国領内のカトリック系構成国は、既に不均衡化しているプロテスタントとのバランスがさらに悪化することに反対し、プロイセンとザクセンの主張を論争化した。ここで中央党指導者のマティアス・エルツベルガーの人脈が活きた――彼は同じカトリックであるヴュルテンベルク家のヴィルヘルム・カール・フォン・ウラッハの立候補を提案した。ヴィルヘルムがカトリック教徒であること、更にポーランドとの将来的な紛争の可能性を考慮したリトアニア側がこの案を支持したことで、リトアニア評議会内の君主制にとってヴィルヘルムはほとんど申し分ない候補となり、7月11日にリトアニア国王ミンダウガス2世が熱狂的歓迎の中で即位した。当初オーバーオストはこの案に反対していたが、時間が経つにつれ、ドイツでの戦争疲弊がますます高まり、「リトアニア問題」への現実的な解決策は軍国主義者たちの「東方への衝動」を抑える形となった。
ミンダウガス2世ことウラッハ公ヴィルヘルム
1919年、オーバーオストはリトアニア評議会の公での活動再開を認めたが、いくつかの面で譲歩が見られた――アンタナス・スメトナが評議会議長に復帰し、残る左派議員は更迭され、より保守的な後任が据えられた。また評議会にはポーランド人、ベラルーシ人、ユダヤ人などの少数民族の代表も参加した。2月16日独立宣言案は可決されたが、リトアニアはドイツに対し、制憲議会では両国間の関係はドイツ有利になると保証しなければならなかった。1920年1月1日、ミンダウガス2世が即位した。リトアニアの議員たちは新王がドイツ語ではなく自分たちの言葉を使って演説する姿に驚き、リトアニア王国が正式に誕生した。国王の最初の行動は制憲議会選挙と、自身と並んで国家の成立を指揮する暫定政府の任命だった。
20年代初頭のセイマス(議会)の様子
だが多くの人々の予想を裏切り、国王は君主制の熱烈な支持者であったアンタナス・スメトナと国民進歩党ではなく、キリスト教民主党や多くの農民政党、世俗自由主義派のサンターラ党など、より穏健な民主派勢力を信任し、スタシス・シリンガス男爵を初代リトアニア首相に任命した。これはミンダウガス2世の考えだった。彼はリトアニア評議会との最初の会合で、スメトナに支配的で保守的、権威主義の傾向を感じ取り、代わってリトアニアをより民主的な制度へと導こうとした。ともすれば王国成立に最も貢献したともいえるスメトナにとって、これは不意打ちであり、以来このことを忘れたことはなかった。
ナショナリズムの台頭
1921年制憲議会で制定されたリトアニア王国憲法は、帝国協定内では最も自由主義的な内容だった――憲法はリトアニア国民の民主的権利と自由を保障し、政府における国王の役割を厳しく制限し、立憲君主の地位に留めた。国は二院制立憲君主国となり、ドイツの圧力下にありながらも、むしろドイツの権威主義的な憲法とは似ても似つかない内容になった。しかしこうした先進的な憲法も、帝国協定加盟を巡って新興国リトアニアとドイツの間で調印された数々の条約の前に霞んでしまった。パランガ合意でかつてバルト連合公国が領有していた港湾都市パランガがリトアニアに返還されたが、その見返りにリトアニアの海上貿易には厳しい制約が課された。海上貿易はメーメルとリガを介してのみ行われ、相当額の使用料と関税を課せられた。ヴィリニュスもドイツ人発展のための街となった。国境地帯のドイツ企業にはありとあらゆる規制が免除され、徐々にリトアニア経済を支配していった。ドイツ語はリトアニア語と並ぶ第二言語と宣言され、リトアニア・マルクはドイツ・マルクとの固定相場制になり、王立リトアニア軍はドイツ軍の指揮系統下に組み込まれ、武装もドイツ製だった。
20年代初頭のリトアニア首都ヴィリニュス
リトアニア政界は民族主義、親/反ドイツを巡って急速に形成されていった。リトアニアは単一民族国家ではなかった――リトアニア人は辛うじて過半数を維持しているだけで、残りはポーランド人、ベラルーシ人、ユダヤ人やその他の民族に分かれていた。少数民族に大きな文化的自治権が付与されたことで、彼らはすぐに政治結社を組織し始めた。中央ポーランド選挙委員会(Lenkų centrinis rinkimų komitetas / Komitet Polaków na Litwie, LLK/KPL)はビャウィストク地域の支配的勢力に、ユダヤ人労働者総同盟(Bundas)が当時のユダヤ人コミュニティ最大の政治勢力となった――ユダヤ人は同胞意識が強く、互助の伝統を有していたため、リトアニア経済界でドイツ企業と対抗できる唯一の民間組織となった。当のリトアニア人はもっぱら二つのグループに分かれていた。リトアニア君主制の強力な支持者である右派のリトアニア・キリスト教民主党( Lietuvos krikščionių democratų partija, LKDP)と、騒乱に満ちた建国初期に唯一強く君主制に反対し、後に共和派を糾合した左派のリトアニア社会民主党(Lietuvos socialdemokratų partija, LSDP)だ。だがその後まもなく第三勢力が浮上してきた。
リトアニアにおけるナショナリズムは、大戦終結時の独立宣言によって一時鎮静化していたが、20年代になった再び活発化した。表現の自由が認められたことで、リトアニア文化の復興が始まった――様々な民族主義的芸術や文化が現れ、プロイセン・リトアニア人の哲学者ヴィリウス・ストーロスタス・ヴィドゥーナスがリトアニアの原始信仰を復古し、ドイツ傀儡と化したリトアニアの地位に対する不満が増大した。こうした民族主義者たちはアンタナス・スメトナの国民進歩党に集結し、その後まもなく同党は排外主義、反独、反ポーランド、反ユダヤを標榜する民族主義政党へと変わった。セイマスの支配的勢力になるほどの規模ではなかったが、リトアニア軍内部から大きな支持を獲得し、1928年の事件をきっかけに行動に打って出た。
ヴィリウス・ストーロスタス・ヴィドゥーナス
1928年5月24日、国内の大半に愛された「国民王」ミンダウガス2世は闘病の末、就寝中に亡くなった。多くの人々が後継者のヴィルヘルム・フォン・ウラッハが王位を引き継ぎ、戴冠し、有能な為政者になると信じていた。だがヴィルヘルムは密かに貴賤の出であるエリザベート・トイラーに求婚し、彼女も恋に落ちてしまった。やがて父であるミンダウガス2世がこの関係を知り、禁止させた。だがヴィルヘルムは求愛を続け、エリザベートと隠れて文通を続け、絶えず彼女を手に入れようとした。このニュースはすぐにリトアニアのメディアにも伝わり、瞬く間に論争を巻き起こした。とうとうヴィルヘルムに最後通牒が突きつけられた――エリザベートと別れるか、王位に関するありとあらゆる請求権を放棄するか。彼は後者を選び、後継者の地位は弟のカール・ゲロに回った。
ヴィルヘルム・フォン・ウラッハ。史実でも貴賤結婚を理由にウラッハ公位継承権を蜂起した
ゲロは一度も王になろうと思ったことはなかった。兄が父の跡を継ぐとずっと信じて、建築家になる夢を追い求めていた。文字通り引きずられながらリトアニアに送られたとき、ゲロは学業を終えようかという頃だった。貧しく、政治的・文化的に深く断絶した国家は、ゲロが進もうとしていた祖国や夢とは程遠い存在だった。彼自身を含め、カール・ゲロが正統な後継者であると捉える者はほとんど存在しなかった。にも拘わらずゲロは王位を継ぎ、父の死後まもなくして戴冠した。死去から500年記念が間近ということもあり、偉大なる大公ヴィタウタスの即位名を名乗ったが、民衆の不信感を和らげるには至らなかった。
カール・ゲロことヴィタウタス2世。現Ver.ではミンダウガス3世
ヴィタウタス2世には国を導く才覚がなく、君主の権力は低下し続けた。ヴィタウタスには偉大な父のような治世を敷く能力はなかった――ミンダウガス2世は民族的にも文化的にも分断されたリトアニアに大きく貢献したが、ヴィタウタス2世はすぐさま悪影響を及ぼす存在になってしまった。こうした過渡期に、リトアニア民族主義者たちが行動に打って出た。民族主義派部隊によるヴィリニュスおよびメーメル占拠に向けての一大計画が練られていた。首都ヴィリニュスでは国王とセイマスを人質に取り、メーメルではドイツ人支配の象徴打破を構想していた。この計画は「メーメル蜂起」と呼ばれた。ゲディミナスの紋章があしらわれた赤いベルトを巻いた五十余名の武装リトアニア人グループは都市部の占拠を企てて現地警官隊を圧倒したが、ドイツの増援第一波によって完全に殲滅された。リトアニア警察も即座に行動を起こし、ヴィリニュス市内の民族主義分子を数日間に渡って逮捕したため、結局首都行進計画は実現しなかった
民族主義者たちにとって、メーメルに散った殉教者たちの血塗れのシャツは自由リトアニア闘争の新たなシンボルとなり、他の人々も王国の腐食の兆しを感じ取っていた……
1936年に向けて
アンタナス・スメトナはメーメル蜂起との関与を一切否定し、実際に陰謀に係わった証拠も見つからなかった。だが国民進歩党は一時的に解散し、同じ指導部、党構造、イデオロギーを継承し、名前だけをリトアニア民族主義連合(Lietuvių tautininkų sąjunga, LTS)に変えた。リトアニア右派の長老は嘘をついていると信じる者や、はたまたサンディカリストの陰謀と疑う者、さらにはスメトナは単なる表看板であり、裏で操っているのはカリスマ性を持つ得体の知れない院内幹事、アウグスティナス・ヴォルデマラスではないかと考える者もいる。
バニラリトアニアのファシスト指導者でもあるヴォルデマラス。史実ではリトアニア共和国初代首相。26年の軍部クーデターで初代大統領スメトナと共に復帰したがその後対立、独自のファシスト団体「鉄の狼」を率いて政府を批判した
メーメル蜂起の余波はすべての政治スペクトラムの政党に影響を与えた。民族主義者の台頭への反発として、ポーランド人、ユダヤ人少数派の政党が勢力を伸ばした。社会民主党も躍進し、ステポナス・カイリースの指導の下、激動の20年代を乗り切り、地盤を固めた。カイリスは党の民族主義色を薄め、代わりにポーランド人やユダヤ人の少数民族との同盟を模索し、オーストリア・マルクス主義に基づく多元的な「民族文化自治」を公約に掲げた。1937年選挙が近づく中、社会民主党はキリスト教民主党の覇権に対する最大の障壁として立ちはだかっている。
ステポナス・カイリース(前列中央)と社会民主党員たち。カイリースはリトアニア評議会で独立宣言に署名した十八人のうちの一人
リトアニアの選挙政治の枠組みから遠く離れた場所では、互いに対立しあう二つの運動が存在している。1930年に結成したリトアニア活動家戦線(Lietuvos aktyvistų frontas, LAF)は右派民族主義スペクトラムの最も急進的な勢力を統合している。彼らは民主的プロセスを無視し、代わりに地下活動を続け、不法な君主制打倒とドイツ支配からのリトアニア解放を目的とした武装反乱を究極の目標に掲げている。
リトアニアの左派は弱く、あまり目立たないが、それでも「アウシュライネ党(Aušrininkai)」は求心力を持っている―地下出版している同名の定期機関紙に由来を持つこの組織は、1910年代から存在する組織で、フランスに視線を向け、ゲディミナスの塔にサンディカリストの赤旗が翻る日を夢見ている。
現在のところ、レオナス・ビストラス率いる中道右派のキリスト教民主党が政権を担い、30年代初頭から始まった大規模な経済成長を監督した。ドイツとの関係はついに報われ、その後の経済の奇跡によって過去は薄れつつある。需要は増加し、企業も好調で、政府は厳格な外交政策を通じて、ついにリトアニアが独立を主張できるではないかとの確信を日増しに強めている……
レオナス・ビストラスは史実でも1925年から26年までリトアニア首相を務めていた
……予期せぬ事態が起きなければ、だが。
予期せぬ事態
注意:この先の多くは製作中のコンテンツです
ゲームスタート時のリトアニア。史実の独立案に基づいて新たにポーランドやベラルーシ方面に領土を広げている。未だかつての夢や故郷を諦めきれないヴィタウタス2世の低い正統性や、ドイツによる経済支配や貿易制限、国内の文化的分断などの国家方針を抱えている
1936年1月、リトアニアはゆっくりと歩み始める。
ビストラス政権の説明。好景気を背景に農地改革や独自の港湾取得なども実現し人気も高いが、他の政党も成長しつつあり、今後の選挙次第では単独政権存続は難しいかもしれない
レオナス・ビストラス政権は四年目に突入しようとしている。冷静沈着な首相は人気が高く、国内経済も成長している。キリスト教民主党は国の安定と未来を確信し、最後の選挙公約を履行しようとしている。中でも最たるものがパランガ合意の再交渉で、この合意はリトアニアとバルト連合公国間の国交貿易を促進してきたが、その代償として厳しい貿易条件と海軍拡張制限が残っている。
ブラックマンデーとその後の景気後退によって、リトアニアに全くの不意打ちを食らう。20年代から30年代までの黄金期が終わりを迎えるなどと想像する者はほとんど存在せず、気付いた人々も繁栄は続くと嘘をついていた。ビストラス政権は状況緩和に最善を尽くそうとするものの、内部分裂と遅々とした歩みのせいで不興を買う。
資金のない政府は与党内の反対を押し切ってドイツ人ユンカー救済を実施する。効果は上がるが野党からの反対は免れない
言うまでもなく、ビストラス政権の対応は十分なものではない。政府が深刻な負債を抱える中、ドイツ企業の打撃によって、リトアニア経済には空洞が広がっている。これを穴埋めできたのは国内の競合相手、特にユダヤ人労働者総同盟だけだった。総同盟は独立した経済実態を有し、ブラックマンデーの影響を受けていないため、リトアニア市場でのシェアを高める余力が残っていた。こうした移行は混沌と苦痛にまみれ、多くの不満を残し、一部の人々が利益を独占した。ユダヤ人による経済支配という単純な発想はリトアニア民族主義者たちに警鐘を鳴らし、一方のドイツもリトアニア経済への影響力を明け渡すことは望んでいない。
ドイツ資本の流出は止まらず、代わって国内の経済危機の影響が少ない総同盟が台頭する。だがユダヤ人優先の雇用はリトアニア人含め多民族から反発を受ける
最終的に、政府は決断を迫れられる――同盟と全面的に協力し、ドイツからの経済的独立を主張するのか、それとも採算を度外視し、圧力を加えてドイツからの投資を維持するのか。間違った決断は致命傷となり、王国の弱体化した安定を砕き、ついには崩壊へと導く。
ドイツからの経済的自立か現状維持か。どちらを選んでも安全とは言えない
この進捗リポートでは、「何も起こらなかった」ルートをお見せします。時が進み、1937年が到来すれば、セイマス選挙が開かれます。前年のプレイヤーの決断に応じて、この選挙では三つの候補の内どれかが勝利します。
キリストのうちに万物を刷新する!
ブラックマンデーとその余波はキリスト教民主党から権力維持の芽を完全に奪い去ったわけではない―だが指導部の解任は免れないだろう。レオナス・ビストラスと保守派はあまりに自己満足的で、近代の変化に対応できていないことが証明された―彼らは弱体化し、新たなヴィジョンが台頭する。
不況から回復はしたが、対策不足と野党の拡大にビストラスへの批判が高まり、連邦派が台頭する
スタシース・シャルカウスキスは今日最も有名で影響力のあるリトアニア人政治哲学者だ。
彼の思想は平等論的な政治思想を持つ若いキリスト教徒世代の間で支持を集め、ついに政界に足を踏み入れた。そこで簡潔な政治構想、「最適制( Optimali valstybės valstymo sistema)」を掲げた。
シャルカウスキのイデオロギーの核心を理解するには、歴史上におけるリトアニアの特別な役割について理解しなければならない。シャルカウスキいわく、地球は東西二つの文明世界に分かれ、東がアジア・ロシア、西がヨーロッパに該当する。この二つの文明は陰と陽のように異なる存在だ――西洋は合理的要素の文明だが、効率性を追求するあまりに美学をないがしろにしている。一方の東洋は情緒的要素を持つ文明で、精神面で優れているが、それ以外の面では受動的だ。しかしどちらかが明確に優れているわけではない――自らを補完するために互いを必要としている。そしてこの二つの要素は、歴史の中で幾度となく東西に挟まれ、どちらかに限定されないユニークな国、リトアニアで結びついている。リトアニアは西洋の合理主義と東洋の情緒の両面にアクセスできる――シャルカウスキの「最適制」は、この二つの要素を最も効果的かつ最適な方法で引き出す手段だ。ゆえにこそ、リトアニアはこの独特の合流を保護すれば、東西を統合し、世界を新たな時代に導くだろう。
シャルカウスキの意見では、リトアニア人優越主義は誤りである。リトアニアの真の目標は浄化ではなく、外国の影響力を受容することだ。リトアニア人。ポーランド人、ベラルーシ人、ユダヤ人――かつての大公国の民衆が一つの分かたれざる国の一部であったように、みな話す言語や信じる宗教が違えども、誰しもみな単一のリトアニア国家で役割を担っている。だがリトアニア文化を保護するためには大改革を行わなければならない。資本主義も社会主義も多くの問題点を抱えている、進むべき道はキリスト教コーポラティズムだ――国全体が社会・経済・文化的共同体によって成り立ち、一つの連邦を形成する国家だ。そこでは国民の声は余すことなく届き、文化は保護され、国全体が自国を形成する文化を学び、手を携えて輝かしい未来へと向かうのだ。
民主的コーポラティズムや連邦制再編を目標に掲げるシャルカウスキ。文化的自治権の拡大、議会の増加などを通じて、「リトアニア」を国民全体を示す言葉に変えようとしている
だがコーポラティズムや首相の大それた思想を信じている人々ばかりではない。LAFなどの民族主義団体は最適制をリトアニアの民族性の危機、ひいてはサンディカリズムの片鱗すら見出し(労働組合を支持し、彼らに政府内での発言権を与えようとしているのだから)、全力で抵抗するのは間違いない……
「東欧のベルギー」を目指すキリスト教民主党の国家方針ツリー
リトアニア民族主義者との対立ディシジョン。各地での政策宣伝や政治改革、反対派の議会追放など
真実の存在――それは働く人々だ!
現在のところ、リトアニア社会民主党はリトアニア左派最大の政党だ――そしてもし対抗馬のキリスト教民主党が過半数を獲得できなかった場合、社会民主党がその空隙を埋め、15年に及ぶ努力の末に権力の座に上る。だがたとえ望みをかなえたとしても、キリスト教民主党のような単独過半数政府樹立の偉業を繰り返すことはできない。
社会民主党の説明。反独や反資本主義を掲げながらもあくまで民主制を支持しているが、社会主義やサンディカリズムの影響もいまだ根強い
社会民主党は同盟相手を見つけ、中道左派にまで至るほぼすべての勢力との幅広い連立を形成しなければならない――急進的社会主義者、民主社会主義改革派(ステポナス・カイリス自身もこの中に含まれる)、腰抜けの社会民主主義者、サンタラ党の世俗自由主義者、そしてポーランド人やユダヤ人などの少数民族ともだ。カイリスが新首相に選ばれるだけならこれで十分かもしれないが、この連立を維持するとなると一大事だ。
ユダヤ人労働者総同盟の方針転換。社会民主党と連立を形成するが、右派は反対している
社会民主党の中核はオーストリア・マルクス主義の思想である文化的民族自治の称揚だ。彼らはリトアニアのような民族的、文化的、宗教的な多様性に富んだ国家には文化的自治こそが最適の解決策と考えている。
文化的自治の説明イベント。属地的な自治ではなく(例:民族自治区)、属人的な組織(○○人協会)などを通じて教育や文化面での自治を実施するという内容
文化的自治とは領土的実体から成る民族国家という概念を取り払い、属人的な組織によって国家を構成するというものだ。ユダヤ人労働者総同盟のヴラジーミル・メデンを始めとして、リトアニアでオーストリア・マルクス主義の文化的自治がどのように機能するかの一例を説明してくれる。
ポーランド人やリトアニア人、ユダヤ人などのいくつかの民族グループから構成される国家の事例を考えてほしい。それぞれの民族グループは分離運動を創設するだろう。生来の民族グループに属するすべての国民は、特定の組織に加入する。この組織が各地域で文化議会を、全国単位では全国文化議会を開催する。議会は各民族グループが所属する民族の税率を引き上げる権利を有するか、中央政府が一定予算を各グループごとに割り当てるなどの手段を通じて、独自の予算を有する。あらゆる国民はどれか一つの民族グループに所属することになるが、どの民族運動に属するかは個人の問題であり、いかなる上位機関も個人の決定に介入しない。民族運動は国の中央立法府に属するが、それぞれの担当地域では自治を行い、誰にも他の民族グループに介入する権利を持たない。
これは文化的自治が社会民主党唯一の国内政策ではない。党の創設以来、社会民主党の綱領では階級闘争と私有財産の悪が明言され、党は自信を民主社会主義者と定義し、リトアニアを平和的に社会主義国家へと変貌させるための大規模な改革実行を望んでいる。これこそが問題なのだ。多くの人々にとって、社会民主党はサンディカリストの言い分にそっくりだ。また党は強烈な共和主義を掲げ、いまだ完全にはあきらめていない。
社会民主党は他のどの政党よりも君主制の枠組みの中で行動する意思を示す必要がある。あるいはそんなことをせず、解放に向けて急進主義の潮流に乗ることもある。
「多元主義への長い道のり」から始まる社会民主党ツリー
連立内の急進左派との主導権抗争ディシジョン
国の団結こそ力なり!
二匹の狼の争いで三匹目が勝利するというのよくある話だ。ましてそれが鉄の狼ならなおさらだ。
シャルカウスキの急進的な新方針についていけないキリスト教民主党員は少なくないし、カイリスが左翼人民戦線を形成できる保証はない。こうした険しい競争に陥った場合、アンタナス・スメトナは安心して策謀を開始する。左派と中道右派に一撃を加えれば、あらゆる下馬評を覆し、リトアニアの新たな首相に上り詰める。
民族連合によるキリスト教民主党派保守派の分断工作
驚くべきことかもしれないが、リトアニア民族連合は準軍事組織を有し、メーメル蜂起とも間接的に関係しているにもかかわらず、非合法化されていないどころか、党指導部の予想以上の勢力を有している。たしかにポーランド人やベラルーシ人、ユダヤ人は投票するとは夢にも思えないが、苦い思いをしている民族リトアニア人にとって、スメトナは救世主だ。彼らは小競り合いを続けるセイマスや祖国での外国人の影響力に倦んでいる。
民族主義連合の説明。国家主導型経済や強力な行政府、リトアニア民族主義を掲げている。やはり民主主義を尊重しているが、権威主義とは隣り合わせの主張だ
スメトナは民主主義を信奉している。だが彼と支持者たちが考える「民主主義」は常人のそれとは異なる。「民主主義」と「議会主義」を混同してはいけない。後者はセイマスによる野放図な競争による統治だ――詰まるところ、民主主義という言葉の意味の問題なのだ。リトアニア国民は優先され、王国内のすべての民族グループよりも抜きんでた存在であるべきだ。なにもビャウィストクのポーランド人やヴィリニュスのユダヤ人を問題視しようというのではない――だが彼らはリトアニア人の権威を尊重し、リトアニア文化を受容し、リトアニア化されるべきだ。そして国民がその意志を権威の象徴に吹き込む――すなわち政府とその無謬の指導者、アンタナス・スメトナだ。彼の最終目標は強力で尊敬を集める「国民の指導者(Tautos Vadas)」を名乗ることだ――彼は国が真に欲するものを理解し、官僚主義の泥濘に陥ることなく実行する力を有する。そのため、スメトナは連邦主義的思想や神の禁じたる文化的自治を徹底的に避ける――彼の目に映るリトアニア国家は、ヴィリニュスの民族リトアニア政府の下で統一され、集権化された存在、ただそれだけだ。
民族主義連合の政策イベント。急進派と穏健派に挟まれながら、全国のリトアニア化を進めようとする
しかし単一リトアニア化は容易な事業ではない。何しろ民族主義連合は急進右派の巣窟なのだ。リトアニア活動家戦線は支持しているが、彼らは君主制や少数民族には何ら好感情を抱いておらず、やがてはスメトナを更に右寄りに引きずり込もうとするだろう。旧キリスト教民主党派などの連立相手には、決して受け入れられない事態だ。
民族主義連合の国家方針ツリーと独自ディシジョン。南部少数民族の自治権の度合い、急進派・穏健派・旧キリスト教民主党派の派閥の影響力が示されている
リトアニア軍
セイマスの政治家たちが論争を繰り広げる間にも、軍隊にはやることはある。アンタナス・スメトナの推薦とレオナス・ビストラスの任命を受けて、スタシース・ラシュティキスは1935年にリトアニア軍参謀総長に就任した。そしてこの地位を利用して、彼はリトアニア軍の全面改革に取り組み、準備を進めている。
ドイツ軍の支援とドイツ帝国敗戦時の防衛戦を想定した改革案
ラシュティキスの最終目標は、リトアニア軍を精鋭戦闘集団に変え、他の帝国協定軍に並ぶ存在に変えることだ。やるべきことは多い。
今回は例になく長い進捗リポートでしたが、きっと満足してもらえたかと思います(そうでなければ教えてください)。ここまで読んでくれて、そしてKaiserreichをプレイしてくれてありがとう!
Q&A
Q.領土拡張はできる?
A.今の時点では製作中としか言えない
Q.ポーランド=リトアニアやその他の連合(インテルマリウム)はリワーク対象?
A.いや。ポーランド=リトアニアのルートは削除される
もちろん理由は存在する。ポ=リ連合はゲームプレイ中に笑えること以外あらゆる面がナンセンスで、そして笑えることは保守すべき理由ではない
またポ=リ連合のツリーはうまく実装されているとは言い難い。同時期のポーランドやリトアニアとは別で開発したため、両国の設定と矛盾する点が存在する(例えばジェルジンスキーがポーランドで死んでも連邦化すると復活するなど)。他の国ならリワークの対象となるが、ここで前述の理由に行き着く
ちなみに現在開発中のポーランドのリワークでは現在の連邦化ルートは削除される予定だ
Q.急進左派になるとインターナショナルに参加できる?
A.はい
Q.反乱はどうなる?どの勢力ルートで反乱が発生する?
A.リトアニア反乱は一新され、帝国協定全体を巻き込む無謀な挑戦ではなくなるが、詳細は現在制作中。急進左派・右派ルートで発生する
ポーランド
ヴィルヘルム2世の四男アウグスト4世が支配するドイツ傀儡の王国となっている。
新たな国家方針として
・ドイツの経済支配
・農地問題
・王立ポーランド軍
が追加されている。またKaiserreichの公式wikiによると、ハインツ・グデーリアンが軍事顧問として派遣され、実験的機甲師団を指揮している。
ウクライナ
へ―チマンことパウロ・スコロパードシクィイを国家元首とする史実のウクライナ国が存続した設定に代わっている。
「へ―チマンの軍隊」などの既存の国家方針が削除され、新たに
・都市と地方の分断
・未熟な産業
・健康な国民
が追加され、共和国ルートやサンディカリスムルートも用意されている。
これまでの国家元首ワシーリー1世ことヴィルヘルムは政治闘争の末にスコロパードシクィイに敗れ、亡命先のガリツィア=ロドメリアに脱出した旧ウクライナ人民共和国の指導者フルシェフスキー、ペトリューラなどと親交を結び、ウクライナ国内に残留した共和派への支援を行っており、ルート次第ではウクライナ国王に即位できるようだ。