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Kaiserreich進捗状況133 山西軍閥のリワーク

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 こんにちは!私はSuzuha、KRでは国民党左派のコーダーと山西軍閥の共同リーダーを担当しています。今回ご紹介するの第133回目の報告は、山西軍閥のリワークについてです!同じく共同リーダーにして素晴らしい貢献をしてくれたChiang Kai-Shrek (discord #8873)とともに、このPRを送ります。

 いくつかの理由が重なった結果、山西軍閥は最初の中国リワークでもコンテンツの薄い国家タグでした。そのデザインや開発についても、リリースのわずか数か月前に作られたものです。今の山西軍閥は中華統一のTier2になりうるポテンシャルを持ちながら、それに見合ったコンテンツがほとんどない状態が続いています。そのため今回のリワークでは、山西軍閥を有力な中華統一候補に変えることを目標にしました。山西軍閥はその長所と短所をプレイしながら、激動の中国の中でのし上がっていくのです。

 この記事には山西軍閥の変更点に加えて、今後計画されている中国の変更点も含まれています。記事中のコンテンツはすべてコーディングが終わってマスタービルドに組み込まれていて、山西を含めた中国コンテンツは次回のアップデートで実装される予定になってます。では前置きはこのくらいにして、山西軍閥の前史、そしてゲーム内容を紹介しましょう!

前史

 山西軍閥は中国北西部に位置する勢力だ。その中の通り山西省と陝西省の大半を支配している。中国でもひどく貧しいこの地域は、名目上は閻錫山が率いている。

 しかし山西は民族主義と社会主義色を併せ持つ国民軍の残党も抱えており、その指導者が馮玉祥だ。

 閻錫山は地元の上流階級に生まれ、やがて日本に留学して士官学校で学んだ。彼はそこで孫文と出会い、当時成長中だった革命運動結社の「中国同盟会」に参加、帰国後は山西省で辛亥革命に加わった。1910年代には山西の軍事(そして事実上民生)を治める都督に就任、それから数十年にわたって山西省を治めつづけ、保守的で権威主義的を統治を敷いているが、同時に穏健であるため民衆の支持を集めている。

 馮玉祥は貧しい軍人家庭に生まれ、口減らしのために11歳で軍隊に入った。海外列強の横暴と国内に蔓延する腐敗に怒り、彼もまた辛亥革命に参加した。袁世凱軍の一員として、馮はキリスト教に改宗(彼の信仰とそのニュアンスは山西のコンテンツでより深く掘り下げる)、高い規律と士気を持つ軍隊を育て上げた。その後直隷派に加わると、華北地域で馮軍の規律の高さが有名となり、やがて「国民軍」として知られるようになった。

 こうした2人の大丈夫はまたたく間に華北政治の有力人物となった。閻錫山は20年代を通じて安全策を取り、北京の目まぐるしい権力闘争から距離を置いて自治を続けた。

 馮玉祥は直隷派に協力して各地の省の指導者を転々としていたが、後に北京政変と呼ばれる賭けに打って出た。馮は張作霖率いる奉天派の力を借りて、北京守備隊の将校二人と協力して曹錕を退陣させた。直隷派は下野し、馮玉祥・張作霖・元安徽派の段祺瑞が協議し、後に広州国民党政府から追い出された孫文が合流するなど、つかの間の平和が訪れた。しかしその後まもなく孫文は亡くなり、三者も決裂、呉佩孚の指揮下で体制を立て直した直隷派によって国民軍は北西部へと追いやられた。

 史実と違ってロシア内戦で白軍が勝利したKR世界では、馮玉祥はソビエトからの支援を得られなかった。彼は国民軍を率いて西北地域に逃れ、時期を待った。そして1926年、国民党による北伐でついにチャンスがおとずれた。社会主義色を強め、五原誓師を誓った馮玉祥は正式に国民党とともに北伐に参加した。しかしまたしても負けてしまい、馮と国民軍残党はふたたび這う這うの体で撤退した。同時期の西北では馬族中堅メンバーが率いる回族反乱が激しさを増しており、回族の有力者たちは呉佩孚の黙認を取り付けたうえで、国民軍を西北から放逐した。以来馮は国民党との関係を断然したが、その後も演説やプロパガンダでは孫文の言葉を使い続けた。

 1928年、閻錫山は第四次奉直戦争でついに動いた。直隷派が弱体化していると踏んで、張作霖と合流すべく、洛陽に攻撃を仕掛けた。しかしこの作戦はすぐに失敗した。山西軍(太原兵工廠からの潤沢な武器、それに他の軍閥と違って地元住民を中心とした徴兵が強みの軍隊)は練度で勝る直隷軍を相手にすぐに攻めあぐね、粉砕されてしまった。味方の雲南派と奉天派も前進をはばまれ、閻軍はやむなく山岳部に撤退した。最終的に、山西省東部の占領継続、それに清国政府の承認と引き換えに、山西派はようやく呉佩孚と停戦した。

 呉佩孚はこの機に国民軍を掃討しようともくろんだが、その動きは失敗に終わった。閻錫山は、もしも呉佩孚が馮玉祥を中国から追放した場合、「自分も馮と手を携えて世界を回る」と広く世間に宣言した。閻と馮は義兄弟の契りを交わし、双方の軍隊が山西省の貧しい山岳部に集結、ここに現在の山西軍閥が誕生した。呉佩孚は両軍との衝突を避け、またより重要な華東地域が手薄になるのを恐れて、しぶしぶ折れた。

 こうしてひとつの共生関係が生まれた。馮と国民軍は陝西省延安を根城とし、閻錫山の外交的庇護に頼った。名目上は山西省軍に編入されたが、実際には国民軍は軍事防衛を大きく支配している。省軍と国民軍は今なお事実上独立した組織であり、この大規模すぎる軍隊が中央政府の侵攻に備えて各地の山道を警備している。一方、閻錫山派は省内の内政を支配している。多くの技術官僚や中立寄りの指導者たちは大衆を扇動する革命家の馮玉祥ではなく、より安定して保守的な閻錫山に力を貸しているからだ。

 他の軍閥同様、山西軍閥も清/直隷派政府から承認されている。中央政府に近くほとんど包囲されているため、山西軍閥は清国政府の強い経済・軍事的影響下にある。中央政府は重要拠点である山西省東部、それに政治的に重要な都市である延安を押さえるため、閻錫山と馮玉祥が関係を深めないよう細心の注意を払ってはいる。それでも中央は山西を確保しようとしており、省都太原でもその影響ははっきりと感じられる。その一方、閻錫山と馮玉祥は改革を進めようとし、多くの期待を集めた。しかし今でもその一部しか実現できず、ほとんど休止状態にある。停滞感に包まれた山西では、腐敗が蔓延している。1936年現在、華北の勢力争いで最も弱い勢力である山西派は、その支配地域を拡大するとは露ほどにも思われていない。

 1936年が始まっても、山西省はいつも通りの年を迎えた。しかし八省連合が内戦状態に陥ったことで全てが変わっていく。ではここから共同リーダーのChiang Kai-Shrekに引き継いでもらいましょう。

山西軍閥の初期国家状態

1.厳正中立
 険しい山岳部と周辺地域の緊張によって、山西派の指導者は容易には抜け出せない政治・外交的孤立に陥っている。この状況がかえって直隷派の侵攻を防いでいるという安心感をもたらしているのは皮肉だが、しかし山西派の指導者たちは地域重視を説くあまり、省民たちは外への関心をほとんど失っている。閻と馮が太原から野望を叶えんとするならば、確固とした未来像を示して人々を一致団結させる必要がある。

2.未発達な山岳経済
 山がちな地形、農業主体、貧困。さまざまな意味で、山西軍閥は中国基準で見ても産業革命から取り残されている。国内でも極貧地域に位置づけられる山西省は、閻錫山の指導によって平和がもたらされ、ある程度は繁栄してきた。しかしその経済はといえば、外からは北京の強い影響力に、内部からは私心に満ちた郷紳たちによって牛耳られている。閻は20年代を通じて貿易赤字解消とインフレ抑制をめざしてありとあらゆる対策を講じたが、ほとんど大した成果も挙げられぬまま放棄されてしまった。山西は「模範省」ともてはやされているが、その実態はもっと深刻だ。「模範督軍」は多くのプロジェクトに着手したが、そのほとんどは誠実な改革運動などではなく、外部に「進歩」ぶりを見せびらかすための大げさな見世物に過ぎなかったのではないか、との疑念が深まりつつある。それが正しいのかどうかは、まだ分からない。

3.二重の軍隊
 北伐、そして華北の支配権をめぐる戦いの中で、閻錫山も馮玉祥も地域の実権を握ることはできなかった。呉佩孚がドイツの援助を受けて北京を押さえ、日本の後ろ盾を得た張作霖を東北地域に押し返す頃になると、閻と馮はそのおこぼれに預かるしかなかった。こうして2人は荒涼たる僻地に撤退した。当時、2人はほぼ同数の兵を抱えていた。馮の国民軍の規律の高さは閻の軍隊を上回っていた。だが閻も有力な太原兵器廠を有し、配下の兵は比較的新しい火砲を装備していた。両軍は協力して中央政府から山西の自立を守ったが、どちらの指揮官はそれ以上の協力を拒み、結果として何ら有意義な統合がなされていない。このようにふたつの軍隊を抱えている状況は、どちらにとって痛手となっている。山西軍の維持費で財政は破綻寸前に陥っており、双方とも相手方のせいだと触れ回っている。この難しい休戦状態がいつまで続くのか、多くの人が疑問を抱きつつある。

4.停滞する教育改革
 閻錫山の教育改革については様々に語られているが、その賞賛ぶりとは裏腹に、山西の教育近代化は20年代に大きな壁にぶつかってしまった。初等教育の普及、識字運動、西洋型の実学重視の教育制度など多くの成果も残したが、それも第四次奉直戦争後の予算削減と関心の低下によって大きく後退してしまった。国民軍も公教育について喧伝し、学校を建設すると公約していたが、こちらも同じように実現できないでいる。

5.貧しい地方
 山西省の大きな特徴の一つが、階級差が激しく後進的な農業だ。この問題は為政者(あるいは最低限の関心を払ってくれる人々)を数十年にわたって悩ませてきた。山がちな地形のせいで、山西省には耕作可能な土地が非常に少ない。肥沃な土地のほとんどが、近隣河川流域の堆積土の近くに固まっている。特に太原盆地を抱える山西省中央はまさに省の生産力の中核だが、その一方できわめて不評かつ搾取の横行する小作人制度を抱えており、人々は家畜も同然の扱いをうけている。場所によっては小作農が少なく、ほとんどの農家が自分の土地を持っている地域もあるが、それでも長年の干ばつや現代技術の不足、貧弱な治水対策、長年続く政府の汚職と無関心によって不満が積み重なっており、革命につながる恐れもある。

 人的コストを抜きにしても、山西省の農業は多くの面で原始的なため採算が取れず、経済全体に悪影響を及ぼしている。山西の農業賃金はインドやフィリピンと比べても少ないというのに、省政府は毎年多額の正貨を費やして農作物を輸入しており、貿易赤字をますます悪化させている。人口の実に半分(一説には75%とも)が極貧状態の生活を送っており、政治を左右する地方の郷紳たちはこの問題を気にも留めていない。山西省の農業や鉱業から得られたリソースは経済に再投資されず、しばしば結婚式などのくだらない蕩尽に費やされている。こうして山西省の生産性は、いまや中国の他の貧困地域にも遅れを取りつつある有り様だ。省政府による地方への刺激策はどれも芳しい成果をあげておらず、十ヵ年計画は(そもそも草案当時から)農民を軽視している。だが炎天下で苦しむ農民が希望を失えば、それは怒りに変わり、怒りは現実の行動に変わる恐れがある。断固とした対策を、すぐに講じなければならないのは明らかだ。

6.新たな年、変わぬ課題
 かの堯帝の生地にして、1800年代には「票号」と呼ばれる大銀行一家を輩出した山西省だが、現在は厳しい時代を生きている。その苦難たるや、中国基準でもひどいものだ。辛亥革命ではかつての山西を取り戻すとの大公約を掲げたが、今に至るも滑稽なまでに進んでいない。現在、閻錫山はどうにか事態打開の糸口を見つけるべく、AOGと鉄道路線の建設について交渉をすすめている。

7.閻派
 閻錫山の派閥を形作っているのは、ここ数十年続いた激動の中華分裂時代を生き延びた「模範督軍」への個人崇拝だ。督軍は、本人いわく「軍国主義、民族主義、無政府主義、民主主義、資本主義、共産主義。個人主義、帝国主義、普遍主義、父権主義、ユートピア主義」の長所を取り合わせたという複合的なイデオロギーを掲げている。ただその実、閻錫山は儒教に基づく国家主義・権威主義色の強い政府像を推進している。その気まぐれを反映してか、閻は権威的・伝統的なやり方で近代化政策を行っている。ここに日本留学時代の影響があるのは間違いないだろう。今のところ、閻が進めた改革の多くは道半ばで停滞しており、功罪の入り混じった遺産を残している。閻派の支持基盤は官僚(往々にして忠実だが能力には疑問符が付く)で、郷紳とも複雑な協力関係を結んでいる。改革に民衆の支持を取り受けようと努力を重ねてはいるが、これまでのところほとんど失敗している。これは閻が大きな改革を躊躇しており、また常日頃の国民軍との派閥争いが原因だ。そして閻は、国民軍との同盟に不満を募らせている。

8.国民軍
 国民軍(西北派とも)は馮玉祥が率いる軍事組織だ。イデオロギーは国民党と近いが、地理的に離れているため独立した組織として活動している。国民軍の特徴として、厳格な規律、強いイデオロギー意識、そして洗練された訓練が挙げられ、国民軍の名は中国全土に知れ渡っている。こうした特徴の根底にあるのは、馮玉祥に対する兵士たちの忠誠心だ。また興味深いことに、馮の信仰の影響で、国民軍内部にはキリスト教徒や自己流の社会主義者が相当数見受けられる(ただ馮自身は国民軍の兵士はキリスト教徒である必要はないと考えている)。奉天派との戦争で張作霖や直隷派によって壊滅寸前まで追い込まれると、馮はやむなく国民軍残党を引き連れて、閻錫山の治める山西省に撤退した。以来二人は利害関係に満ちた同盟関係を続けているが、国民軍は今なお省内で最大の軍隊だ。馮はこの強みを最大限利用してくるだろう。

序盤

 皆さんどうも!Chiang Kai-Shrekです。ここからは山西軍閥の初期から中期までのゲーム内容を紹介します。

 山西軍閥の閻錫山と馮玉祥の協力関係で成り立っている。しかし中国情勢は目まぐるしく変わり、二人の関係も試練を受ける。ブラックマンデーが到来し、閻と馮の協力関係が終わると、二人はこれまでの停滞を抜け出し、互いの勢力を競うようになる。

 山西督軍である閻錫山の人生は、どこを切り取っても平凡とはかけ離れている。裕福な家庭に生まれ、財産のすべてを失い、一介の兵卒から革命家に転向した生粋の山西人である閻は、やがて傲慢な清朝の官吏を追い出し、愛する故郷の「模範督軍」となった。一方で、こうした賞賛はふさわしくないという声もある。山西政府は分断と停滞の度合いを強め、汚職は上層部から末端にまで蔓延しており、そして何より閻は20年代の華北をめぐる戦いで国家統一レースから脱落した敗北者であると。いずれにせよ、山西省が目まぐるしい政争に揉まれる中で、閻は督軍として、やむなくかつての盟友である国民軍と、その指導者であり馮玉祥との共闘(時には対立)を進めてきた。いまや数々の課題に直面し、解決の道筋も見つからないが、それでも閻はいつの日か自らの手で中華を統一し、国に希求されている安定と指導をもたらす日が来ると信じている。

 閻錫山は山西省に数多く存在する銀行家・商人家庭に生まれ、将来を嘱望されて儒教の教育を受けた。こうした生い立ちや、家族が経済的苦境に立たされて没落した経緯は、後に郷紳との一触即発のもろい同盟・協力関係の原因になったのかもしれない。太原の山西武備学堂に入学した後、閻は数年間日本に留学した。そこで権威主義的・中央集権的な政府のもとで急速な近代化を進める社会を目の当たりにして、閻は大きな感銘を受けた。さらに日本軍の規律や「武士道」に尊敬の念を抱き、日露戦争においてロシア軍を撃破した大戦果を称賛した。世界大戦でのドイツ帝国の勝利によって、円はますます権威主義への傾倒を深め、強力なリーダーシップの必要性をますます確信するようになった。1911年の辛亥革命で山西省の督軍(指導者)に就任したが、1913年には孫文と袂を分かった。閻は今なお中華統一の野望を抱いているが、中央政府が続けている山西省内での閻派切り崩し工作に危機感を募らせている。また数多くの山西省近代化政策で名声を得ているが、より批判的な識者からは、ほとんどの近代化が実質的な成果を挙げられぬまま放置されていると指摘されている。

 貧しい一兵卒の息子はいかにして軍閥の指導者となったのか?昔は大丈夫ほど自らの卑しい生い立ちを離さないものだと語られていたが、清朝の低迷期には、多くの「老百姓(庶民)」出身者が歴史を彩ってきた。農民の祖父、佐官から召使い、人夫から兵士となった父を持つ馮玉祥(旧名基善)は、貧しいアヘン中毒の両親のもとで幼少期を過ごした。転機が訪れたのは10歳の頃、父親が給料を倍額にするために、友人に頼んで息子の基善
を兵士簿に記載させたのが始まりだった。そこで何かしらの手違いがあったのか、基善の名前は「玉祥」として記録された。

 それからの数年、母が亡くなってからも、馮玉祥は軍隊のなかで成長していった。こうして清朝末期の頃、馮は優秀な兵士となっていた。博打にのめり込んでは無一文になるのを何度が繰り返し、この悪循環を断ち切る解決策を思いついた。ギャンブルと酒には一切手をつけず、わずかな金を節約したのだ。優秀な兵士であった馮が国中に蔓延する汚職や無為無策、そして諸列強に辱められる祖国の姿に憤りを募らせるまでは、そう長くはなかった。このままでは列強の食いものにされてしまう(そうなったらこの国は死ぬしかない)、そう考えた馮は当然のように革命に加わった。

 袁世凱率いる北洋軍のもとで部隊を作るかたわら、馮はキリスト教に改宗し、今まで以上に野心を抱くようになった。混迷の20年代、馮は各地で指揮官や省の指導者を歴任して頭角をあらわし、彼と隷下の部隊の高い宗教的規律は有名になり、仲間もますます増えた。1919年には「基教将軍(クリスチャン・ジェネラル)」の異名で知れ、やがて直隷派に協力したが、1924年の北京政変への加担で袂を分かった。政変失敗後は西北に逃れ、同時期に馮の軍隊は「国民軍」の名で知られるように合った。

 起死回生の一手として国民党の北伐に協力したが、これも手ひどい失敗に終わってしまった。山西省に逃げ込んだ馮は現地の閻錫山督軍と協力関係を結び、呉佩孚の権勢に抵抗している。

 この権力闘争は先日バニラに導入された「勢力均衡」メカニズムで表現され、閻と馮の派閥の影響力を表す。

「勢力均衡」システム

 序盤のNFツリーは5つに分かれている。最初の政治ツリーでは、プレイヤーは省内を安定させ、民衆を孤立主義から目覚めさせ、たしかな将来像を打ち出す。のちに触れるように、山西軍閥では戦争支持率が重要なリソースになる。ゲーム中盤、直隷派と奉天派の戦争が勃発すれば、山西軍閥はあらゆるリソースを導入することになる。もし尽きてしまえば、史実の中原大戦のようにあっけなく破れてしまう。最近大臣システムに代わって実装された政治顧問も、プレイヤーの改革を大いに支えてくれるだろう。

初期政治ツリー

 ツリーの真ん中は「十ヵ年計画」ツリーになっている。これは第四次奉直戦争と北伐でそれぞれ苦汁を舐めた閻と馮が協力して作りあげた包括的経済構想だ。もともとは中国でも貧しい山西省・陝西省の問題解消(そして直隷派からの経済的独立)をめざして構想されていたが、八省連合の崩壊によって、閻と馮はそれぞれ北京へのリベンジマッチの足がかりとしてこの計画を利用しようとする。

初期経済ツリー

 十ヵ年計画にはそれぞれ似たパターンのサブツリーを持っている。ツリー最初のNFを達成すると、600日のタイマーが発動し、達成したNFの数によって最終的なボーナスの数が増減する。途中、タイマーの残り時間が減少するイベントが発生したり、一部のNFを達成するとディシジョンが解禁され、残り時間を延長できたりもする。閻と馮がどちらも失脚していない場合、「対抗ミッション」が表示される。これは相手が別の改革ツリーを進めていることを表すもので、完了するとプレイヤーが選択した場合の半分のボーナスが手に入る。

十ヵ年計画ディシジョン

 最後のツリーが軍事だ。山西省の軍隊はふたつの対立する軍隊、馮の国民軍(練度と規律が高い)と閻の省軍(太原兵器廠による潤沢な装備と地元人のみからの徴兵が特徴)が存在している。どちらかを重用すれば、それぞれの長所がさらに強化される。また共通部分では太原兵器廠ツリーもあり、山西省の軍需工場を拡大できる。

初期軍事ツリー

北京との相互作用

 良いリワークとはその国のコンテンツだけではなく、それと相互に関係するコンテンツのプレイ体験も向上させるものだと思っている。山西は華南の軍閥と違ってほとんど孤立しており、近隣には拡張すべき弱小軍閥が存在しない。山西派は清/直隷派に囲まれ、中国の中で孤立している。西方の馬家軍も馮玉祥と対立してから関係は冷え切っている。この状況が変わり、山西の未来は大きく変わる。

北京宛の電報
あれから数日が過ぎたが、八省連合の危機的状況はもはや制御しきれないほどに広がり、中国に新たな戦乱の時代がおとずれた。閻錫山はこうした状況に慣れている。彼は1911年の辛亥革命から現在までの軍閥闘争を生き延びてきた。あの時代を生き延びるため、どんなときも利益を第一に考えて決断していた。ささいな恨みや盟友への信義など入り込む余地はない。大事なのは柔軟さだ。
そして呉佩孚の中国全土への統制が弱まり、すでに直隷軍が南方と北方の両面に薄く戦力を広げている現状、北京は間違いなく味方が欲しいはずだ。しかし友好関係には協力が求められる。このように忠誠心が移ろいやすい時代にあっては、友誼もタダではないのだ。そして山西も数十年前からそうしているように、やはり味方を求めている。その条件は十分な富を持ち、省内の繊細な制度に首を突っ込まない程度の思慮分別をもっていることだ。こうして山西が囚われていた孤立状況はようやく終わり、ここに「中央政府」当局との新たなパートナーシップが生まれた。
電報を打ち終わる頃には、「模範督軍」の心中で秘密の策謀が巡り始めた。戦争と混乱がチャンスをもたらした。このように先の見えない時代、敵味方はすぐに変わってしまう。正しくカードを切っていけば、もしかしたらこれをきっかけに中華統一を成し遂げられるかもしれない。それも自分が主導する形で。
あとはただ待つのみ

 山西と清/直隷派のミニゲームが終わると、ゲーム初期ツリーの下部NFを達成することでディシジョンが解禁され、影響力と引き換えにさまざまなボーナスが手にい入る。イベントやNFによっても北京の影響力が増大する。

山西側の対北京ディシジョン

 また、清/直隷派にも山西の影響力に関する小さなディシジョン群が解禁される。山西で進んでいる改革に応じて、清/はさまざまな形で山西の十ヵ年計画を支援できるようになるが、山西が拒否する場合もある。清/直隷派のプレイヤーも山西での影響力と引き換えにいくつかのボーナスが手に入る。AIにもできる限りディシジョンに対応できるに調整した。

北京側の対山西ディシジョン

 「Out of Beijing’s Shadow」から続く一連のイベントを進めると、閻錫山率いる山西軍閥が、北京政府の承認と引き換えに清\直隷派に山西省東部の返還を交渉する選択肢が出てくる。ここで対価として払うのが戦争支持率と清/直隷派の影響力だ。山西は戦争支持率を代償にして要求を増やし、北京は影響力を使って要求を減らせる。合計で5ラウンドの交渉が続き、その結果は6通りに分かれる(清/直隷派が交渉中に滅亡した場合を含めれば7通り)。残った影響力や戦争支持率を確認して対案を出すことができる。

 なお、山西による満洲復辟は新しい内容に変更される。今回は詳細を見せないが、プレイヤーは清/直隷派開発者と山西開発の協力を感謝してくれると信じている。

ではここでSuzuhaにマイクを戻し、中盤のゲーム展開について説明してもらおう。

中盤と奉直戦争

 内政問題が片付けば、山西軍閥は戦争に備え、混沌の中国情勢に飛び込むことができる。このツリーはふたつのルートに分かれていて、一定の戦争支持率や清/直隷派との交渉の結果でアンロックされる。

 プレイヤーが清直隷に反目して独自の統一をめざすのではれば、このツリーを進んで独自のディシジョンやボーナスが手にはいる。たとえば「戦争計画」メカニズムが解禁され、プレイヤーは目標のステートにデバフを付与してさらに準備を進めることができる。また戦争計画ボーナスはこれまで選んだ軍事ツリーに合わせて追加のボーナスを獲得できる。

 プレイヤーが中央政府との協力を選んだ場合、山西軍閥は清/直隷派の協力地域になる。協力地域については今後の中国の変更点をまとめたPRでより詳しく紹介する。中央政府の味方になれば、山西軍閥は清/直隷派を守る北西の盾となり、プレイヤーは清/直隷派を支援して新疆から守るためのバフを得られる。

 ほかにも、山西軍閥は北西部の戦争の結果と相互に影響している。閻錫山も馮玉祥も、資源が豊富で人口もまばら、そして戦乱渦巻く綏遠省に関心を持っていている。20年代に敗北したことで失ってしまったが、中央政府が弱体化すれば、山西軍閥はこの地域で暗躍できる可能性がある。これは山西軍閥にとっての「サイドクエスト」で、戦略目標である綏遠省を回復できるかもしれない。

西北の馬家軍への侵攻ディシジョン

後半・終盤のゲーム内容

 中華統一を宣言すると、山西軍閥の名前は中原政府に変わる。山西軍閥時代のNFツリーから、新たに統一とその後に関するツリーに切り替わる。軍事ツリーだけは山西軍閥と変わらない。山西軍閥で工業化・農地改革がどれだけ進んだかに応じて、ステートに小規模な補正が入る。

中原政府ツリー

 統一に合わせて、閻錫山と馮玉祥はそれぞれ独自のコンテンツを獲得できる。ふたりは国民党などの共和派政党、中国青年会、連省派との連立を形成できる。また独自陣営を打ち立てて、中国の国境を広げることもできる。

閻錫山ルート
馮玉祥ルート

 最後に、山西軍閥の指揮官を磨き上げてくれたアーティストに感謝したい。新しいポートレイトは軍服のおかげでハッキリと派閥を見分けられるようになった。

山西軍閥の指揮官一覧

質問

Q. 山西軍閥はどの国と同盟できる?

A. 閻と馮は清/直隷派に援助を要請できる。閻は奉天派と協力でき、馮玉祥は(北部の軍閥には過去に大方砂をかけてしまったので)南部の国民党や連省派と協力できる。また閻は清の傀儡を選ぶ(あるいはそうさせられる)こともできる。

 対外的には、どちらも中立寄りの政策を取る。閻は独自のアジア非同盟運動を創設する(そして国際メディアで列強諸国の偉大な調整役として自身をアピールする)。馮は日本の大東亜共栄圏の代わりとなる、植民地解放戦線を結成する(そしてその名声に浴する)。どちらの場合も、主なオーディエンスは世界だ。中国は侵攻して傀儡にする以外は周辺諸国を陣営に勧誘できないし、国境を越えて世界情勢に関与することもない。

Q. 今回のリワークでは変わるのは山西軍閥だけ?

A. 中国には多くの変更が予定されており、次の報告で取り扱うつもりだ。スポットライトが当たるのは山西軍閥だが、多くの中華軍閥に変更点がある。

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