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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート113 リガ、ラトビア、エストニア
(原文はこちらから↓)
https://www.reddit.com/r/Kaiserreich/comments/i5ewrp/progress_report_113_riga_latvia_and_estonia/
皆さん、こんにちはAugenisです。カイザーライヒの新たな進捗リポートへようこそ。今日は東欧地域に戻ります。今回紹介するコンテンツのうち、リガは次のメジャーアップデート、Kaiserreich 0.14で追加されます。この中には南アフリカとバルト連合公国も含まれています。まだご覧になっていない方は、前回のバルト連合公国のリポート(翻訳記事)を読んでください。今回はその続きです
前回のまでのあらすじ
プレイヤーの故意であれ何であれ、森の兄弟メカニズムの対応に失敗すると、バルト地域の秩序が崩壊する。バルトドイツ人は亡命し、ラトビア人とエストニア人のパルチザンが主導権を握り、両民族の組織が旧バルト連合公国地域に新政府を樹立する。しかしドイツの介入によってリガは森の兄弟の進行を食い止め、市街は安全が保たれる。イベントが起きる36年はブラックマンデーの真っ只中で、ドイツ世論はいまだゲリラ戦争への備えができていないため、こうした不安定な状態が生まれる。
しかしそれは一時的な話だ。大戦が勃発すると休戦状態が破られ、バルト諸国戦争が再び始まるか、あるいはより大きな戦いの戦場となる。
前回の進捗リポートより、バルト連合公国の崩壊イベント
1930年、バルト連合公国内の自治都市であるリガ市でバルトドイツ党(Deutsch-baltische Landespartei, DbLP)の党首ヘルムート・ステグマンが新市長に当選した。ステグマンは市の行政機構近代化に大ナタを振った。市民の代表は増え、司法制度も大きく簡略化したことで、公国が崩壊する中でも、ステグマンは市民の信任を勝ち取った。しかし公国崩壊時にリガで起きた出来事は寝耳に水だった。
リガの国家状況。ブラックマンデーに加えて政治力と徴兵人口が大きく減少する「悲観主義」の国民精神を有している
リガは動揺し分断した状態で始まる。そして短い期間で、リガ市政府は市境から押し寄せる難民や、すべての実権を失った旧政府の残党の処遇を決めるという難しい決断を迫られる。
初期の国家方針
この方針ツリーを進める中で、プレイヤーが下した決断によって、リガ政界の三つの派閥の内どれか一つを後押しできる。バルトドイツ人党は市長を支えているが、かつてパウル・シーマンの率いた民主党がウィルヘルム・ムンター(Wilhelm Munter)の指導の下、かつてと同じコーポラティズム・メリトクラシー的な思想を掲げ、市長に対抗している。全ドイツ連盟バルト支部はリガ政界最極右に位置している。彼らはドイツ帝国への積極的統合を呼び掛け、市内のドイツ占領軍の支持を受けている。権力が高まれば、彼らはクーデターを敢行し、マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター( Max Erwin von Scheubner-Richter)率いる傀儡政権を樹立する。
リガの指導者候補。ショイブナー=リヒターは史実ではナチス初期の外交政策幹部。ムンターはラトビア共和国生まれのバルトドイツ人で、ウルマニス政権下で外務大臣を務めた。
だがリガがどのような道を歩もうとも、目標は常に変わらない。第二次世界大戦開戦と共にラトビア・エストニアに宣戦布告し、失われた権利を取り戻すのだ。勝利すると、バルト連邦を建国し、新たな道が開ける。この国がどれほど民主的であるかはプレイヤー次第だ。
リガの国家方針ツリー全図
ラトビア
1918年当時、ラトビア人の利益を代表する三つの組織が存在していた。
・リガ民主ブロック(Riga Democratic Bloc)。リガの政治家同盟で、オーバーオスト政府に独立ラトビア人国家の承認を嘆願していた。
・イスコラト(Iskolat)。ボルシェビキに連なるラトビア・ソビエトで、ファウストシュラーク作戦まで「イスコラト共和国」の名でヴィドゼメ地域を支配していた。
・ラトビア臨時国民会議(Latvian Provisional National Council)。ペトログラードの中道・右派のラトビア人政治家の組織。
最終的の三者のどれもが独立ラトビア人国家を建設することは叶わず、ラトビアは独立を主張する好機を逃がし、二度と各々の運命を迎えた。リガ民主ブロックは解体し、連合公国に降伏した。イスコラトはロシア内戦で消滅し、創設者は白軍と戦って死んだか、あるいはフランスに亡命した。ラトビア国民会議は1919年に解散し、独立ラドビア人国家の可能性は潰え、見果てぬ夢となった。バルト領土軍が公国全土を確保すると、ラトビア人は敗北主義の時代に入り、平均的ラトビア人は新体制に順応する道を選び、連合公国は20年代を通じて民族独立の挑戦を受けることはなかった。
大戦後、ラトビア人民族主義者の間で二つの勢力が主軸となっていた。
・ロシアでは帝政時代の都市部で生活していた数十万のリトアニア人が残っていた。それどころか民族的にはラトビアの一部であるラトガレ(Latgale)もロシアの領土として回復した。こうした現地の民族団体の中で最も有力なラトビア人組織が、臨時国民会議の後続組織であるラトビア中央評議会(Latvian Central Council)だ。ラトビアの未来に関し、内部の意見は割れている。独立したラトビアを望むものや、いわゆる「自由ロシアの中の自由ラトビア(Brīvā Latvija brīvajā Krievijā)」、すなわち民主的ロシアの下での民主的ラトビア人自治区を提唱する者もいた。両派はバルドイツ人支配の打倒と国境を越えた森の兄弟への支援、更にヤーニス・クレリス(Jānis Kurelis)将軍率いるロシア内戦のリトアニア人退役兵部隊、「クレリス隊(Kurelieši)」の派遣で合致している。
ドヴィンスクのステートはロシア国内のリトアニア民族自治区としてスタートする。そして巨人ドイツに打撃を与えるために運動を支援することができる。
・一方のボルシェビキは、ラトビア人赤軍義勇兵(Latvian Red Riflemen)とイスコラトの残党がフランスに亡命し、1925年以降は海峡を越えてイギリスに渡った。戦前のイギリスは大規模なリトアニア系移民コミュニティを抱え、その多くが革命を支えた貧しい炭鉱夫や工場労働者だったからだ。ラトビア人亡命グループはイギリスで組織を立ち上げ、壊滅したリトアニア社会民主党(Latvijas Sociāldemokrātija)を再建し、サンディカリスム諸国の支援を取り付けた。そしてイギリスでの指導者になったヤーカブス・ペテルス( Jēkabs Peterss)はまさにうってつけの人物だった。彼はイギリスに移民として渡った後、1917年の重大局面を機にロシアに帰国し、ボルシェビキの秘密警察チェカの優秀な指揮官として名を馳せた。その堪能な英語でイギリス革命政府を説得し、後ろ盾を得た。だがしかし、1936年当時のペテルスはサンディカリスムに転向していない。それよりもレーニンによるマルクス主義の解釈に大きく惹かれている。
革命ラトビア軍団は武装したイギリス亡命組によって組織され、森の兄弟の台頭に合わせてバルトに進出する準備を進める。
両派とも独自のラトビア構想を有しているが、民主主義にはあまり重点を置いていない。バルト地域の戦乱が落ち着けば、どちらかが勝者となる。
ラトビアの初期国家状況。中央評議会派とイスコラト派による二重体制、リガ回復への意欲を示す「リトアニア人よ、リガを忘れるな!」、産業・インフラの中心地リガを失ったことによる「全ての道はリガに通ず」の国民精神を有している。
近々のラトビアリワークに備え、ラトビアの指導者を刷新し、各ルートや傀儡時の指導者を追加し、インゲームでの将軍リストも全く新しいものになった。
リトアニアの新たなポートレイト
エストニア
エストニアは1918年2月24日に独立を宣言した。僅か数日後にはドイツによって解体されたため、短い独立ではあったが、エストニア人の多くに認められた。エストニア地域議会(Maapaev)は独立の夢を捨てずに抵抗する道を選び、議会残党は地下に潜り、国の解放に備えて武装組織「国防軍(Omakaitse)」を組織した。1918年後半に大規模な武力衝突が発生し、数か月後に敗北した。エストニアは再び崩壊したが、臨時政府と数百人のエストニア人がスカンジナビアに逃れることができた。
今日まで、連合公国内のエストニア人はこの日を祝っている。
エストニア共和国全国委員会は方向性を見失っていたが、1930年にペトログラードで全エストニア人国民会議(All-Estonian National Congress)が開かれ、アルトゥール・サーク(Artur Sirk)が優柔不断な亡命政府の指導者に選出された。彼は独立戦争の古参兵で、1919年に仲間と共に亡命した。サークの指導力の下、亡命エストニア人は再起し、エストニア本国での抵抗運動支援を強化した。その間独自の武装組織「国防軍(Omakaitse)」を新たに組織した。これはタリン解放後にエストニア軍の中核となるべくして編成されている。
しかしサークが権力を担うべきかどうかについては36年以前から議論が分かれている。確かに有能な指導者でありアジテーターだが、国防軍を個人的な準軍事組織に変え、民主主義のないエストニアを構想する権威主義者でもある。彼の考えるエストニアは政党によって分断されない、国粋主義的で父権的な単一国家だ。亡命エストニア人が民主主義を、せめてサークとは異なる道を選ぶ場合、二つの候補が挙げられる。老練の建国の父コンスタンティ・パッツィ(Konstantin Päts)の助言の下、ユーリ・ルオツ(Jüri Uluots)がサークへの強力な対抗馬となる。一方の民主派はカーレル・エンパル(Kaarel Eenpalu)率いる農民運動に望みを託す。エストニア再興後は二人とも独自の政党と運動を立ち上げ、サークの支配に抵抗する。エストニアが再興した後、二人は独自の政党と運動を立ち上げ、サークの支配に対抗する。
エストニアの初期国家状況。サークの権威的支配を現す「沈黙の時代(Vaikiv ajastu:史実では34年クーデターから40年のソ連占領までの期間を指す言葉)」、更にこちらも「全ての道はリガに通ず」の国民精神を有している。
最後に、リトアニア同様に、エストニアも指導者と将軍に新たなポートレイトを用意した。
今回はここまでです!