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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート111 南アフリカ・リワーク

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こんにちは!Drozdoviteです。今日は我らがKaiserdevsの一員、Thomahawk2kが作成した南アフリカの作り直しをお知らせします、どうか楽しんで!

前史

南西アフリカ戦線と短命なマリッツ反乱を除き、大戦下の南アフリカは比較的無傷だった。変化の兆しはルイス・ボータ首相が死んだときに訪れた。ヤン・クリスチャン・スマッツ副首相が二代目連合首相に就任した際、ボーア人コミュニティからの厳しい批判に直面し、スマッツはやむなく選挙を招集した。結果は単独過半数政党なし、国民党が第一党となった。国民党の実質的勝利だが、南アフリカ党はユニオニスト党との連立を決断し、首相は続投した。以来国民党派は最大野党となった。

欧州大陸でのフランス敗戦により、南アフリカに影響を与える条項を含むコペンハーゲン条約が調印された。南アフリカが四年間統治したにもかかわらず、南西アフリカはその正当な所有者であるドイツに返還しなければならなかった。イギリスの撤退命令に続いて、南アフリカ政府はドイツ植民地から南西アフリカとウォルビスベイの港に撤退するよう軍に命じた。

ユニオニストと南アフリカ党との連立は二年間続き、1921年に新たに選挙が開催されると、連立だけでは不十分と明らかになった。その後、ユニオニスト党は南アフリカ党への合流を決定した。南アフリカ党は辛うじて議席の過半数を獲得したが、南西アフリカをドイツ人に返還したことに対して、多くの有権者は憤りを示していた。


南アフリカ党は勝利によって現状と安定が維持されると広く信じられていた。だが1922年3月、ウィットウォーターズランドにおいて、サンディカリスムを掲げる国際社会主義連盟(ISL:International Socialist League)と、労働組合の指導者W・H・アンドリュース(W.H. Andrews)が率いる大規模な武装蜂起が発生した。きっかけは安価な黒人労働力の雇用を可能にするカラー・バーの緩和と白人労働者の賃金引き下げを狙う企業だった。ランド反乱(Rand Rebellion)と呼ばれたこの運動は当初こそは成功したが、スマッツ首相は二万の兵士を派遣して反乱を鎮圧した。この弾圧は南アフリカ党の支持率に深刻な影響を与え、来る選挙での呪われたたシンボルとなった。

だが1922年は喪失ばかりの年ではなく、弱体化した帝国は地域におけるドイツの伸張を抑制し、イギリスの権益を確保するため、南アフリカに南ローデシアを与え、その後編入された。

1924年、ワッカーストルーム選挙区での補欠選挙で国民党が勝利し、ヤン・スマッツは早期選挙を実施した。選挙区を奪還し、国民議会での地位を強化することを望んでの行動だった。しかしこれは南アフリカ党にとって悲惨な結果となった。ランド反乱への残忍な対応により労働党が国民党と手を結び、連立を形成したことで、国民議会で過半数を獲得し、ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォークを首班とする政府が形成された。ヘルツォーク政権は矢継ぎ早に行動し、アフリカーナー福祉国家の基礎を築く法案とその後の数年にわたってカラー・バーを強化する立法を可決した。


ウェールズの鉱山労働者から激化した事件がイギリス連合の建国に繋がると、イギリスの影響力に変化が生じ、南アフリカ独自の共和国建国について議論が開かれた。だがヘルツォークの連立パートナーである労働党はこの発想を拒否し、叛徒たるイギリス連合と運命を共にするということに嫌悪し、ヘルツォーク法案を可決するために必要な多数派形成を拒否した。同時に、連合防衛軍は植民地がドイツの手に落ちることを防ぐために、無防備なベチュアナランドに進軍した。ISLでは、イギリス革命の成功、そしてランド反乱の少ない成果と多くの失敗を鑑み、党の方針転換が議論された。W・H・アンドリュースは、白人労働者に主軸を置くという既存の方針の継続を訴えたが、先住民の労働組合組織化への注力を目指すシドニー・バンティングからの反対に直面した。パリの支持を得て、バンティングは議論を制し、アンドリュースはISLの議長を辞任した。

一方でイギリス革命が原因となったほぼ全世界規模での景気後退、いわゆる大恐慌がとうとう戦後の不景気の回復途上にあった南アフリカにも到達した。国民党も対策を講じたが、頑強な金本位制の維持によって、任期を通じて危機は回復しなかった。

数か月後の1926年1月、イギリスの影響力の弱まりを利用して、連合地位法(Status of the Union Act)は圧倒的多数で可決され、南アフリカ連合は国家主権を獲得したが、大英帝国には残留した。

その後の数年間は、遅々として進まない南アフリカ経済の回復と、労働運動による社会不安の増大特徴づけられた。緊張が高まる中、労働党のウォルター・マデリー(Walter Madeley)通信相が、ISL派の南アフリカ最大の労働組合である商工業労働者組合(ICU:Industrial and Commercial Workers' Union)を承認した。これはヘルツォークと閣内の多数を怒らせ、マデリーは解任された。マデリーは労働党党首のフレデリック・クレスウェルの指導力に異議を唱え、労働党は2つに分裂した。クレスウェル労働党は国民党政府の支持を続け、分派の国民評議会労働党は野党として南アフリカ党を支持した。


社会不安はさらに増大し、国民党のティールマン・ルーシュ(Tielman Roos)法相は金本位制脱却と不景気への適切な対処に失敗したとして解任された。ルーシュは独自に中央党を結成した。選挙が迫る中、この行動は決定的で、国民労働会議と中央党の票田を失った国民党=労働党内閣政権の支持率は減少した。1929年6月の選挙の結果、連立政府は議会で過半数を失った。ただし、南アフリカ党は選挙で成功したものの、単独過半数政府を達成することはできず、数週間に及ぶ厳しい交渉と妥協の後、南アフリカ党は中央党の支援によって少数派政府を形成した。南アフリカ党が手始めに金本位制を停止し、同時に前政権の対ドイツ圏貿易協定も維持したことで、金価格の上昇に伴って貧鉱が再び利益を生み、景気は急速に回復した。これは最終的に南アフリカの目覚ましい景気回復に導き、白人有権者層は、恐慌だけでなく大戦後不況の経済的困難を解決した南ア党を大きく認めていいる。この人気の高まりを受けて、南アフリカ党は1933年6月に議会で実質的な過半数を確保し、南アフリカとルーシュ中央党との同盟関係を事実上終結した。南アフリカ党の立場は1936年時点では強力と見られている。一方でティールマン・ルーシュの死後、中央党は解散し、かつての支持層の大部分は国民党に吸収され、支持率を回復した状態で1926年に突入した……


1936年の南アフリカ

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導入イベント群

多くのドイツとの関係がある国々同様、政府が最初に行うのはブラックマンデー危機への対処だ。

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ブラックマンデーツリー

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ブラックマンデーディシジョン

方針ツリーをご覧の通り、この危機は三つの方法で解決できる。だが「Response to Black Monday」の方針を選択すると、資本家ロビイストが懸念を表明する。この政策はウィットウォーターズランドの白人労働者には不評で、この方針を選択すると鉱山労働者のストライキが発生し急速に悪化する。そして多民族商工業組合がスト参加者との同盟を引き起こす可能性があり、放っておくとウィットウォーターズランドで大規模なサンディカリスト反乱が発生する。


サンディカリストの権力奪取

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新政府の基礎はヨハネスブルク大会で決まる。大会中にICUはISLとの統合による政策を共有した包括的な多民族勢力の設立を提案する。ISL指導部はこれを受諾することが可能で、その場合はクレメンツ・カダリー(Clements Kadalie)を国家元首、ソロモン・サックス(Solomon Sachs)を政府首班とするサンディカリスト政権が誕生し、閣内には南アフリカの主要民族の代表が席を占める。またISLがこれを拒絶し、黒人マジョリティの準備が整うまでは白人が革命の主導的立場に留まる必要性があるという理由で、白人社会主義政権を樹立する。この場合、ICUがISL政権の政策の一部を支持すると、ICUは没落し、ジミー・ラ・グーマの影響下で過激化し、ICUの再興を宣言する。これは最終的にラ・グーマ統治下での全人種参加全体主義政府に繋がる。


社会主義者は「通常の」南アフリカとは異なる独自の保護領政策を有し、首長領を自治的な社会主義共和国に改編し、最終的に吸収することができる。


経済ツリーは完全な社会主義経済への改造の道を開くが、一部ルートは全体主義の場合に解放され、サンディカリストの場合は工業化ルートを選ばなければいけない。

最後に、軍事ツリーは南アフリカ軍の徹底的改革を目指し、早期参戦を目指してイギリス連合軍の模倣と第三インターナショナルとの密接な協力を試みる。

サンディカリストツリーの全体図


しかし……

イベントは常に上記の通りに進行するわけではない。ストライキはおおかた鎮圧ないし自然解散する。継続してツリーを進めることでブラックマンデーを回復し、場合によっては大首長を支援することでベチュアナランド・バストランド・スワジランド領を改善させることもできる。予定通り1938年に選挙を行うと、急進派のダニエル・F・マラン率いる国民党と対峙する。

あるいはユニオニスト派を無視して公共事業プログラムルートを選択することでもできる。残念ながら南アフリカ党ユニオニスト派はこの決定を歓迎せず、党を離れ、議会で必要な過半数が失われる。この段階で総督に即時選挙実施を要請し、少数派政府として存続を試みるか、あるいは国民党か、「国民審議会」労働党との新たな連立を模索できる。国民審議会派は公共事業プログラムの継続の望む場合は連立に応じ、国民党はヘルツォークの首相就任を要求する。スマッツが連立樹立のためにプライドを脇に置くというものだ。

国民党と内閣を形成すると、通常の左派公共事業プログラムルートに代わる選択肢である保護領の開発(Nuweveld)ルートが選べる。


政治ツリー

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この選択は後の選挙に影響を及ぼす。国民党と連立すると、ヘルツォーク派を合流させ、南ア党を「統一南アフリカ国民党」に改編する選択肢を得られるが、マランが離脱して純粋国民党を立ち上げる原因にもなる。この場合統一党は確実に38年選挙で勝利し、原住民代表法(Native Representation act)と原住民信託・土地法(Native Trust and Land Act)の方針を選択できる。これは独自の選択肢だ。少数派政府として存続するか、労働党と交渉するか、あるいは総督に即時選挙実施を要請した場合は、国民党(36年に早期選挙を実施した場合はヘルツォーク率いる権威的民主主義政党、38年に選挙を行うとマランがヘルツォーク派を制し、マラン派が優位となる)か南アフリカ党を選べる。国民党は「原住民代表法」を選択できるが、「原住民信託・土地法」の代わりに「ゲリマンダー」ルートを選択できる。

南ア党が勝利すればカラード参政権法を選べる。これは南アフリカの混血人種に全面的な参政権を付与するものだ。この法案の可決は多大な影響をもたらす。白人優位を支持しない大量のカラード有権者によって、国民党はケープ州での議席獲得がほぼ不可能となり、これ以上のチャンスが断たれることになるからだ。加えてホフマイヤー派が南アフリカ党の主流派閥となる(ヤン・スマッツは党首のままだが)。だが可決した場合は、即座に南アフリカ党保守派(そして自治領派)が造反する。動議は失敗し、南アフリカ党は分裂し、政府の解体を引き起こし、結果的に南ア党の政治生命は終わりを迎え、国民党は第一党となる。保守派を満足させるには、現実世界で南ア党が可決した二つの非進歩的法案(改正パス法とインド人の土地所有を制限する法案)を可決し、引き続き白人の権益を重視する必要がある。

38年選挙で国民党が勝利した場合はマランが首相となり、共和国宣言を発布する。この宣言にイギリス系南アフリカ人コミュニティは激怒し、カナダの支援を受けた南ローデシアナタールの分離独立に繋がる。南アフリカは両国への軍事行動を決断し、第三次ボーア戦争が開幕する。イギリス人が勝利すれば、南アフリカ連邦が発足し、新しいツリーが解放される!

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南アフリカ連邦ツリー


南ローデシアツリー


連合への編入以来、南ローデシアの分離独立論はずっと存在していた。ヤン・スマッツは南ローデシアでの南アフリカ党の基盤獲得を望んだが、現地では以前から影響力のあった責任政府協会(Responsible Government Association)がローデシア党に改編し、自治を掲げてローデシアに割り当てられた4議席の委譲を拒んだ。彼らは独立は模索していたが協商からの離脱は望まなかったため、南アフリカの帝国離脱には素早く反応し、ローデシア党と(反連合主義者の)改革党の支持の元、南ローデシアはナタールに先んじて独立宣言する。


南アフリカからの独立を確保すると、国家の建設と国内政策が始まり、ローデシア党と、不安定な改革党と労働党が展開され、どちらか一方と連立、あるいは合流と離脱を繰り返す。ミッテルアフリカが崩壊した場合、南ローデシアは北ローデシアの再統合という軍事的冒険に駆られる可能性がある。

ナタールとは異なり、南ローデシアは南アフリカ連邦が樹立しても、再統合を求めることはなくなる。


ナタールツリー


分離以前のナタールは南アフリカ党が第一党となっている。ヤン・スマッツは南アフリカ党議員に分離独立への反対と南アフリカの内側からの改革を求める。だがスマッツの呼びかけはナタール連合党議員の大部分に無視され、結果的に両者は連合連邦党と自治領派に分裂し、戦時連立を形成する。

独立を確保すると、(戦時中にバストランドとスワジランドを確保していると、両国はカナダ軍・あるいは本土復帰を果たした連合王国軍によって保護される)国内は連合連邦党・労働党・自治領党の三者の間で政治が展開され、ナタールはNICやICU関連の国内問題を抱えた小さな協商国となる。

最後にツリーの全体像をお見せしましょう


政治・ブラックマンデーツリー

軍事・ブラックマンデー後の経済ツリー

南アフリカ連邦ツリー

サンディカリストツリーの全体図(政体が変わるまで見ることはできない)

以上が今週の進捗レポートです。ここまで読んでくれて、そしてKaiserreichをプレイしてくれてありがとう!次の進捗レポートをお楽しみに!


Q&A

Q.マップ上のプロヴィンスは変わる?現在のプロヴィンスは広すぎて戦争する時にイライラする。

A.はい、変わります。


Q.今年リリースする?ルーマニアとセルビアも同時?

A.前者はYES、後者はNO。


Q.外交はどうなる?

A.国民党は孤立主義か親帝国協定、南アフリカ党は孤立主義か親協商。南アフリカ党は旧イギリス植民地に追加で領土主張を行う機会がある。




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