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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート108 キレナイカ首長国

(原文、高画質の画像はこちらから↓)

https://www.reddit.com/r/Kaiserreich/comments/fpzhj6/progress_report_108_the_emirate_of_cyrenaica/

オスマン大宰相府で進められている拡張作業の一環として、リビア地域にも新たなトルコの前史に基づく、いくつかの不自然な点を修正した更新が進められています。ビジュアル面での最大の変化は、これまでのトリポニタニアがキレナイカ首長国に変更され、リビア西部がタラーブルス県、つまりオスマン帝国の一部として再編されます。鋭い人はベンガジがキレナイカから分断され、オスマンによるキレナイカ支配の体裁を繕う守備隊が置かれているのを見つけたかもしれません。

前史

 青年トルコ党が伊土戦争、その後の世界大戦においてリビアの絶対死守方針を採用した時、彼らはリビアの帝領復帰を想定していた。これはエンヴィル・パシャのような人物でさえ疑念の余地のない主題であり、時間が経てば中央政府の完全な支配下に置けると考えていた。だがリビア地域は帝国の国境地帯になるつもりなどさらさらなく、実際の中央と現地勢力の間の協力体制は問題が山積していた。とはいえ、他に選択肢はなかった。リビアには民族主義が完全に欠如し、強力な地域主義だけが存在していた。リビアの三つの地域、キレナイカ、フェザーン、トリポニタニアはそれぞれ全く異なる社会・経済的構造を持っていたし、その大部分が外界から隔絶して動いていた。その三つの地域の中で最もオスマンに帰属していたのがトリポニタニアだった。この地域は19世紀から20世紀初頭にかけて行われた改革の中で、オスマン中央政府に完全に統合され、中央議会にも積極的に参加していた。


 1917年には状況は複雑化し、混乱した。イタリアは面目を保とうと最大限尽くしたものの、最終的にエチオピアの悲劇以来、植民地戦争としては最悪の敗北を被り、1917年には城砦と機関銃座が絶望的抵抗を続ける二、三の沿岸部要塞都市しか残っていなかった。同時期にキレナイカのサヌーシー教団と在リビア・オスマン軍の同盟も分裂した。教団の若き指導者であるイドリースは、単独でイギリスおよびイタリア政府と和平条約を締結し、キレナイカ首長としての地位を認めさせた。にもかかわらず、イドリースの地位は安全とは程遠かった。教団の硬直した中核部はいまだジハードと前指導者アフマド・シャリーフ・アッ=サヌーシーへの忠誠を保ち、イドリースが交わした条約を教団が擁護してきた価値観への裏切り行為としか見なかった。キレナイカを追い出されたオスマン軍はトリポニタニアの都市ミスラタで戦力を整え、オスマン・フアド皇子が西部方面のリビア人抵抗運動を指揮した。中央集権的で忠実な反乱軍を抱えていたサヌーシー教団とは対照的に、トリポニタニアの抵抗組織は様々な勢力に分かれ、衝突と協力を繰り返していた。この混乱に乗じてオスマンの地域支配権を維持するため、オスマン政府はスレイマン・アル=バルーニをトリポニタニア摂政に、そして副知事数名を任命した。


 両陣営とも防備を固めたことで、その後のアフリカ戦線のほとんどに変化は生じなかった。イタリア人はトリポリを離れず、反乱軍も城壁に囲まれた都市に突入する方法はなかった。この状況が一変したのは1919年、イタリアがついに崩壊した時だった。二重帝国軍がアルプス山脈を下り、イタリア本国の状況が悪化したことで、植民地帝国も名実ともに崩壊した。イタリア軍は敵も味方も関係なく我先にと本国に帰還し、オスマン帝国との間の国境を画定する条約が結ばれた。伊土戦争以降イタリアの不法な実効支配が続いていたドデカネス諸島はオスマンの下に戻った。だがリビア人抵抗運動の主力はまだイタリアに向けられており、突然の撤退は「なぜ今なのか」という疑念を残した。フェザーンを始めとする多くのリビア人部族はオスマン政府(またはあらゆる政府)に全面的に屈服したことがなかったため、新たな衝突に備えて準備を進めていた。しかしミスラタ、ベンガジ、トリポリなどの都市部では、オスマン帝国支配の復活は「歓迎」された。多くの軍閥や部族長は長い戦争で拡大した自らの権限を手放そうとしなかったが、こうした懸念は杞憂に終わった。マシュリクでの状況が安定していなかったため、オスマン政府はトリポニタニアで問題を引き起こす気はなかった。戦時中にトリポリタニア摂政に任命されていたスレイマン・アル=バルーニが改めてトリポニタニア知事に任命され、アフダル山地での様々な利害関係者の間で高まっていた緊張の解決に当たった。在リビア・オスマン軍の助力を得て、スレイマンはトリポニタニアに強力な体制を確立したが、地域の有力者に相当の権力を譲らざるを得なかった。だがスレイマンは最大限尽力したものの、地域の緊張は内戦一歩手前の状態から改善せず、税の免除を利用して、なんとか部族間の対立にある程度の秩序を維持した。だが最終的にスレイマンの能力が及ばず、アブダル山地での緊張は再び爆発した。手腕を疑問視されたスレイマンは解任され、後任の知事には影響力を伸ばしつつあったスレイマンのライバル、ラマダン・アル・スワリが就任した。この交代劇によって部族間の対立は一層激化し、牛の分配をめぐって2つの部族間で争いが起こり、地域で内戦が勃発した。19世紀にオスマンの援助で国を滅ぼされたフェザーンのアウラード・スレイマン族の協力の下、様々なグループが新総督に対するゲリラ戦を展開した。オスマン帝国の介入によって、ようやく情勢が沈静化した。更なる混乱を防ぐため、トリポニタニア都市部ではオスマン駐留軍が広範囲に渡って配備され、一方でリビア地域はいくつかの地域に分割され、独自の評議会を設置した。駐留軍への高い支出、そして破産一歩手前のオスマンの内情がリビアに重く圧し掛かり、同地は20世紀初頭からほとんど発展していない経済がそのまま残った。

 その頃イドリースは反対に直面し、イギリス側に留まることに不安を覚え、1920年にサヌーシー教団の資金の大部分を持ってカイロに亡命した。教団の精神的指導者にしてイスタンブールに亡命中だったアフマドがオスマンの手で帰国し、再び国の指導者となった。オスマン政府にはサヌーシー教団を解体したり、懐柔させる方法もなく、ましてや更なる行動に出る余力など完全に欠如していたため、キレナイカは帝国内の独立地域として再編され、トリポニタニアとは正式に分断された。オスマン帝国のプレゼンスを感じるのはベンガジだけだ。だがサヌーシー教団上層部では問題が浮上している。アフマドは権力を回復したが、彼は教団の正統な指導者になったことがなかった。あくまでイドリースの成人までの中継ぎという立場でしかなかったのだ……

ゲーム内容

 1936年のキレナイカは複雑な状況に置かれている。アッ=ズバイル・ビン・アフマド・アッ=シャリーフはほんの数年前に父から王位を継いだが、正当性の問題が再び持ち上がっている。

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ゲームスタート時のキレナイカ。工場数は0

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 英雄オマル・アル=ムフタールを始めとする父の旧友から支援を得たことで、この新たな指導者はほとんど平和的に地位を継承したが、サヌーシーの王族たちは亡命中のイドリースへの支持を公言し、イドリース自身もエジプト宮廷で帰国に向けた支持者を集めている。コスタンティニイェとカイロの緊張が高まるにつれ、キレナイカでもほどなくして両派の対立を余儀なくされる……

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仏領チャドに遠征していたズバイル・アッ=シャリーフが重傷を負って意識不明となり、摂政評議会が指導者となる。

 リビアの継承は運任せではなくなる。一連の連鎖イベントに置き換え、プレイヤーの選択とリンクさせる。オスマンのプレイヤーも突然傀儡国が離脱するのを眺めるだけではなく、リビア情勢にもっと働きかけることのできる選択肢が増える。王族たちの計略が成功すれば、イドリースは再び復帰し、カイロ条約機構との更なる連携や、首長国の開発に向けて舵を切る。

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イドリースの帰国に反対するアル=ムフタールの毒殺計画

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オスマン側の対応イベント。イドリース復位を妨害することもできるようだ。

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 だが逆に計略が失敗すれば、いまだ精力的なアル=ムフタールが教団員の汎イスラム感情を激発させ、「革命」を実施し、退廃と保身にまみれた王族たちを追い出し、反帝国主義とイスラム教への厳格な帰依という教団の原点に立ち返ろうとする。彼らは明確に親オスマン、あるいは親エジプトというわけではないが、マグレブにおけるフランス人・キリスト教勢力に抵抗し、地域全域に教団の思想を広め、創始者たちが先頭に立ってイスラムを弾圧する者たちに対抗した、19世紀後半から20世紀初頭までの栄光の日々を取り戻そうとするだろう。

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 キレナイカ地域には近代経済に該当する産業が全く存在せず、資本主義社会以前の状態に置かれていたため、面白いプレイ国家にするためには知恵を絞らなくてはならなかった。サハラ縦断ルートの宣教師、あるいは保護者としての役割を念頭に、武器の獲得と影響力拡大のため、キレナイカはこれらのルートをうまく管理することになる。

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 数週間ごとに武器(やその他の積み荷)を満載したキャラバンが貿易網の拠点のどれかから出発し、ベンガジへと向かう。長く険しい旅路の中で、様々なイベントがキャラバンに影響を及ぼす。教団の名目上の領域外に存在する拠点は多く、また既に不安定な植民地におけるサヌーシー教団の影響力を懸念するアルジェ政府によって、ザーウィヤ(教団の拠点)は定期的にルートの遮断という形で介入を受けてしまう。これは武器製造能力のないキレナイカにとって深刻な結果をもたらす。

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キャラバンでは地域で禁止されている奴隷売買も横行している。オスマン政府は内外から解決を求められているが、根本的解決は難しいようだ。

 しかし心配はいらない。サヌーシー教団第二の武器庫でもあるザーウィヤは貿易路の維持を支援し、フランス領サハラに被害を与えることができる。

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政治力を消費して各地のザーウィヤ網を拡張できる。レジスタンス値や徴兵人口にデバフもかかり、各地の交易路の再開もできるようだ。

 オスマンとカイロ条約との戦争中、トリポニタニアへの侵攻を決断したとしても、それは新たな問題の始まりに過ぎない。前史でも言及したように、リビアのナショナリズムは実質的に存在せず、強い地域主義的感情が存在していた。さらにイドリースもトリポニタニアへの関心がないことを隠そうともせず、故郷キレナイカ地域のみを統治したがっている。トリポニタニア側もサヌーシー朝による統治にはあまり関心を抱いておらず、独立トリポニタニア国家かトリポニタニア主導のリビア共和国を望んでいる。戦勝後にサヌーシー朝がリビア国家を建国しても、中央集権政府を樹立するか、連邦制を採用して根強い地域主義感情を維持するかを決めなくてはならない。

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キレナイカ首長国のNFツリー全体図。右下がリビア建国ツリーか。

 だがイドリースがトリポニタニア統治を選ばなかったり、キレナイカがエジプトとオスマンの戦争への参戦を自制した場合、トリポニタニア共和国はオスマン崩壊後に独立を宣言し、独自の(小さな)国家方針ツリーを持ったリビア西部の国家となる。
 またフランス・コミューンの国家方針「反植民地委員会」はあまり旨味のない現在の内容から、より有益なものに代わり、インターナショナル陣営は地中海沿岸に緩やかな同盟国を持つことができる。

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