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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート109 インド・リワーク
原文はこちらから↓
こんにちは!私はRylockと言います。今回はインドのリワークに備えて変更の詳細をお届けします。これは先日のカナダリワークの完了後からさほど時間を置かずに始めたものです。私はチームに入って最初のプロジェクトとして現ver.のインドを作りました--実際のところ、これは多かれ少なかれDH版インドからの直接的な翻案でした。インド地方は十分に機能してくれたため今まで据え置かれていたのですが、コードが古くなり、(主に地域に存在していた宗教的対立を取り上げるのを避け、関連する主要人物についていくつか疑問符の残る人選をしていたため)設定面で常に問題を抱えていました。だからもう更新すべきです!
今回の進捗リポートでは地域全体の前史変更と各国の概要に触れます。それぞれの詳細については今後のリポートで詳記しますので、ご安心を。
新しいインド前史
英領インドが崩壊した経緯については依然としてほぼ変わらない。大戦でのイギリス敗北後、現地軍は急増する抗議活動に対処するにはあまりに数が少なすぎた。イギリス政府は政情不安を理由に1919年初頭にインド統治法の可決を行わないとの判断を下した。この決定は英領インドの行政官に愚かな行動と捉えられ、それは正しかった。暴動は激化し、1919年のアムリットサルの虐殺で頂点に達した。
この事件は大規模なインド人反乱の火種となった。イギリス政府はまだドイツと戦っていたため援軍は届かず、ルーファス・アイザック(Rufus Isaacs)総督はやむなく緊急事態を宣言した。植民地政府にとって有利な点は、反乱勢力が互いに反目しあうバラバラの組織だったことだ。この状況は21年にドイツとの戦争が正式に終結したことで変化した。インド国民会議はアイザック軍が頼みの綱とする援軍の到着を危惧し、精神的指導者マハトマ・ガンジーの後援によってムスリム、社会主義者、民族主義者を結集させ、連立体制を形成した。
この時点で内戦は真に戦争へと発展した。国民議会は数年間に渡って必要に迫られて団結力を発揮し、ベンガルと中央インドからイギリスを追い出した。この時期に連立体制は難局を迎えた。その中でも最たるものが社会主義者がトラヴァンコール藩王を親族もろとも処刑した「22年の赤い夏」事件だ。この時点で国民会議はインド藩王やザミンダーリーとの交渉を試みており、革命を恐れることはないとの印象を与えようとした。だが処刑事件によって多くの藩王が恐慌を来たしてイギリスの保護下に鞍替えした。結果としてその年の夏、国民会議による非難にも拘わらず、社会主義者たちが北部と東部の各地で報復作戦を実施した。宮殿は略奪の対象となり、富裕層の土地は強制的に徴発され、(マハトマによる声明と非難が繰り返されたものの)国民会議は連立崩壊を防ぐためにやむなく支持に回った。多くの没落藩王はボンベイのイギリス本拠地に逃げ延びて財産を提供し、イギリス側の抵抗は数年間活発化した。
しかし25年10月時点でイギリス本国のサンディカリズム革命は大きく推移し、これまでのイギリスが危機に瀕していることは誰の目にも明らかだった。アイザック総督は南インドで部隊を再編した。これ以上の援助が断たれ、アイザックが地位を維持するにはハイデラバードとマイソールの強力な藩王の力を借りる以外になく、北部奪還の望みは完全に立たれた。また反乱勢力軍も北部と東部を確保したが、領土は薄く広がり、再び内紛による連立崩壊の兆しが表れていた。アイザックはこれに停戦受諾の望みをかけ、ナグプールにおいて国民会議指導部と会談を行い、六か月間のあらゆる敵対行為の禁止という合意を引き出した。当時はこれ以上延長することはないと思われていた。
国民会議の指導部停戦期間が明けて間もなく「一時的に占領された南部の土地」を奪還すると宣言したが、これまでの時点で攻撃は実施されていない。自由インド(Azad Hind)の内部分裂は新国家に置かれる政府の形態、特に様々な宗教が果たす役割についての議論に発展した。あからさまなヒンドゥー教の優位やヒンドゥー重視の政策はムスリムやシク教徒の反発を招き、とうとうデモ活動や暴動に発展した。31年12月のダッカ粛清で東ベンガルのムスリムが流血を伴う弾圧を受けたことで、全インド・ムスリム連盟の指導者たちは事件を自由インド内に居場所はないという明確な証であると判断した。指導者のムハンマド・アリー・ジンナーはパンジャブ州知事シカンダル・ハヤート・ハーン( Sikander Hayat Khan)とシク教の指導者タラ・シン(Tara Singh)と歴史的な会合を行い、自由インドからのムスリム国家の分離を呼び掛ける「1932年ラホール決議」を共同で発表した……国民会議は真っ向から拒否したが、この宣言は領内での新たな反乱を誘発した。
二年にも渡って混沌とした戦闘が続き、マハトマ・ガンジーによる和平の呼び掛けが全国的支持を獲得したことで、34年8月、とうとう国民会議はムスリム側の指導者と会談を行い、休戦に合意した。だが自由インドがいまだムスリム側が主張するシンド、バルチスタンを占領し、東ベンガルの解放についても現地での反乱鎮圧活動が概ね成功していたことから拒否し、恒久的和平とはならなかった。反乱軍はパンジャブと最北部を確保し、公式に承認された政府を発足し、最終的に(和平交渉の席でチョウドリー・ラフマド・アリー⦅Choudhry Rahmat Ali ⦆が提案した)パキスタンの国号を採用した。この問題は新たに発足した自由インド政府で激しい議論が交わされている……南部のイギリスや、連合王国がサンディカリストの手に落ちた後もインドの解放を拒む植民地の存在が、この問題を難しいものにしている。
1936年のインド
1936年開始時のインド地図
自由インド
1936年の自由インドはインド国民会議と現指導者のサルダール・パテルの下で(親第三インターナショナルの)社会民主主義国家としてスタートする。次に選挙は37年に予定されているが、たとえ国民会議が当選しても、急進的社会主義政党のヒンドゥスタン社会共和党に代表される左派、国家人民主義政党の民族義勇団(RSS)や社会主義融和政策に反対する社会保守主義の国民会議保守派などの右派の間でバランスを取る必要がある。これらの政党は重要な選挙後の国民会議の様々なルートを現してる。自由インドが左傾化するか、右傾化するか、あるいは国民会議の支配が続いて両派の間で慎重なバランスを取る必要があるのか……左右両派の分裂は新たな内戦(英領インドにとっては絶好の攻撃チャンス)、さらにはクーデターを招く恐れがある。
マハトマ・ガンジーの存在は自由インドの諸問題を複雑なものにする……現在のKRと違い、彼は政治的指導者ではなく、二度と国家元首や大臣になることはない。ガンジーは精神的指導者であり、大臣欄に影響力のある人として表現され……そしてイベントを通じて政府に平和な「中道路線」を歩むよう促し、路線から逸脱する度に政府を批判する。ガンジーの求心力は広範囲に及び、政府に恩恵を、あるいは大きな不利益をもたらすことができる。そして左右どちらかに傾倒した政府はいずれガンジーとの衝突を余儀なくされ、社会秩序に危機が訪れる。
英領インド
形式上はいまだ直轄植民地であり、カナダやオーストララシアの様な自治領ではないが、イギリス亡命政府は実質的にインド政府にはほとんど影響力が及んでいない。もはや大掛かりな植民地構造は存在せず、リーファス・アイザック総督は引き続き職務につき、過去十五年間を国内を纏めるための最善の努力に費やしてきた。だがアイザックはKRのシナリオが始まる二日前、35年12月30日に死亡した。そのため英領インドは臨時政府の支配下にある権威的民主主義国家としてスタートする。(そしてまだ協商のメンバーだ)
最初の仕事は新たな総督を選ぶことだ。穏健派藩王のガンガー・シン(Ganga Singh)、軍人のヘイスティングス・イスメイ(Hastings Ismay)、強硬派の植民地警察高官チャールズ・テガート(Charles Tegart)の三人の候補が存在する。それぞれが英領インドの方針を現しており、旧領回復のために自由インドとの開戦を熱望する亡命藩王への対応や、戒厳令の終結と政治改革の実行を求める現地インド人の不満、中でも英領インドが領土を主張しているが中核州ではないマドラス(この影響ですでに自由インドの人的資源と比べても劣勢の軍は徴兵を妨げられている)における一触即発の社会不安に対処しなければならない。
選択したルートに応じて、総督は改革を実行し、選挙によって英領インドを社会保守主義、自由市場主義、社会自由主義(こうした民主的政府の要求に応じて新たな課題が発生する)に変えるか、あるいは不満を強硬に鎮圧して父権的専制を敷くこともできる。
英領インドは自由インドに比べて大きく劣っているが、技術や組織、指導者の面ではアドバンテージがある。またネパール、ハイデラバード、マイソール、マドラスといった同盟国に頼ることができるのも強みだ。だがこのうちの三か国は38年からそれぞれ「危機的状況」を迎え、英領インドと自由インドの間での同盟国を巡る主導権争いに繋がり、同盟国の喪失やインド再統一戦争の火種となる。
セイロン
現在のKRとは異なり、セイロンはいまだイギリスの支配下にある(ドイツのインド権益はマドラス州ポンディシェリ港の支配によって表現されている)。島は英領インドの小型版で、ゲーム開始時に独立した協商メンバーとして独自の政府が置かれている。だが26年の暴動によって当時の知事が死去するなど、深刻な騒乱に直面している。後任のレジナルド・エドワード・スタッブス(Reginald Edward Stubbs)は残忍な腹心のハーバート・ダウビギン(Herbert Dowbiggin)セイロン軍司令の力を借りて厳しい支配を敷いている。そのためゲーム開始時は父権的専制だ。
セイロンは英領インドの同盟国の中で最初に危機に直面する国家だ。37年に マーク・アンソニー・ブレイスガードル(Mark Anthony Bracegirdle)というイギリス人が島の労働者を扇動し、国外退去の警告を受ける。その結果発生した暴動が全く用意のできていないダウビギンをセイロンの責任者に押し上げる。英領インドはダウビギンを支持するか、代わりに権威的民主主義のシンハラ政権を支持するか決めることになる。後者は戦時にはやや信頼できない同盟国のになるかもしれない。
一方の自由インドは蜂起を支援できる。もし成功すれば社会保守主義か社会自由主義の現地人政府が選出され、英領インドは同盟国を失う。
むろん選挙が首尾よく推移すればの話だ。うまくいかない場合、左傾化した自由インドなら社会主義者を支援でき、セイロンを急進的社会主義国家に変え、第三インターナショナルの同盟国としての地位を固めることができる。
ハイデラバード
ハイデラバードは世界有数の資産家であるニザーム、ウスマーン・アリー・ハーン(Osman Ali Khan)によって支配されている。ニザームは戦争中に英領インドを支援したことで自治権を拡大した。ハイデラバードがゲーム開始時には英領インドの傀儡国(だが協商のメンバーではない)で、ニザームの厳格な支配下に置かれた父権的専制国家として表現されている。
ハイデラバードでは改革はほとんど実施されず、ニザームは継続的に改革実行の圧力やデモ活動に直面している。この国は38年初頭、ハイデラバード議会の多数を占めるバハダール・ヤール・ジャング(Bahadar Yar Jung)の親ムスリム政党、統一ムスリム評議会によって二番目に危機を迎える。ニザームの顧問はジャングの人気やパキスタンとの繋がりを警告し、ニザームの介入とジャング排除を進言する。だが評議会は同じく民衆からの支持が篤い私的民兵組織ラザーカールの支持を得ている。ニザームがジャング排除に動くと、ラザーカールが蜂起し、クーデターが失敗した場合も泥沼の混乱を引き起こし、自由インドに付け入る隙を与える。ニザームか行動しなければ評議会は民主化とニザームの権限縮小を要求し、国は社会保守主義になり、ハイデラバードの社会主義者による蜂起を誘発する。自由インドはこの蜂起を支援することが可能で、成功すればニザームは退位し、ハイデラバードは急進的社会主義国家となる。
マイソール
内戦中、マイソールを統治するクリシュナ・ラジャ・オデヤ四世(Krishna Raja Wadiyar IV)は初期からインド独立を支持していた。少なくとも22年の赤い夏事件までは。その後社会主義者はトラヴァンコールの宮殿で略奪を行い、マイソールは介入のためにやむなく派兵した。その後マイソールはイギリスの忠実な同盟国となり、(ハイデラバードのように)見返りとしてトラヴァンコールとマラバル海岸の統治権を得た。(ハイデラバード同様、協商のメンバーではなく英領インドの植民地として開始する。)
ラジャはマイソールでは人気の高い人物で、政体は権威的民主主義だが、多くの民主的改革を認め、さらに推し進めることもできた地位にあった。だが危機感を覚えたイギリスはダグラス・グレーシー(Douglas Gracey)将軍をマイソール元帥として駐在させることで大きな影響力を確保した。マイソールでのゲームプレイはグレーシー、そしてラジャの宮廷の政府の首班であり更なる民主化を推進するミルザ・イスマイール(Mirza Ismail,)との絶え間ない権力争いとして表現される。マイソールの危機は(戦争に突入していなければ)39年初頭に発生し、P・クリシュナ・ピライ(P. Krishna Pillai)を指導者とする国内の強力な社会主義がストを組織し、対応を迫られる。それまでにグレーシーかイスマイルのどちらを支持していたかによって結果が決まる。英領インドと自由インドの主導権争いはピライが政府転覆に成功し社会主義国(英領インド介入の可能性がある)になるかどうか、またはラジャがマイソールの独立を宣言して英領インドとの対決姿勢を示し、自由インドの介入を招くかどうかで決定する。
パキスタン
パキスタンは真新しく、まだその国名を選んで間もない国で、軍からムスリム連盟とジンナー率いる文民政府に権力が委譲されたばかりだ。この時点でパキスタンは父権的専制から市場自由主義国家に代わり、37年中ごろに第一回選挙が予定されている。実質的に自由インドとの戦争は不可避であり、ジンナーは難しい課題を抱えている。ムスリムはシンド、バルチスタン、はては東ベンガルの解放を主張し、ほぼ確実にどこかの時点で戦争が再燃する。英領インドとは同盟を結んでいないが、パキスタンにとって有利なのは、もし自由インドが攻撃した場合、英領インドも攻撃を加えてくるという自明の理だ。同じく自由インドが英領インドと戦端を開いた場合、攻撃しない理由はない。
だがそれまでは解決すべき重要な国内問題が存在する。ジンナー率いるムスリム連盟はいくつかの派閥を満足させなけえばならない。シカンダル・ハヤート・ハーン率いる社会保守主義の統一派に代表されるムスリム保守派、更に急進的なアブドゥル・アラー・マウドゥディー(Abdul A’la Maududi)率いる国家人民主義のイスラム協会はパキスタンを伝統的なイスラム共和国に変えようとしている。タラ・シン率いるシク教徒はムスリムの独立に味方し、独自の自治権と宗教的自由を期待している。アラーマ・マシュリク(Allama Mashriqi)率いるカクサール(Khaksars )に至ってはパキスタンの分離独立に反対し、自由インドとの再統合のために戦おうとしている。新政府が樹立し、選挙に向けて決断が下される過程で、各派に欝憤がたまり……そのどれかが高すぎる場合、シク教徒の反乱、イスラム協会のクーデター、ジンナーの暗殺に終わる。なにも起きなくても選挙がトリガーとなって、(第一党ごとに)前述のイベントが発生する場合もあり、パキスタンは世俗化、急進化、暴動のどれかの道に進む。これには自由インドも関係してくる。自由インドはオプション(“La Resistance” DLCを持っている場合は秘密作戦)が提示され、カクサールかサジャド・ザヒール(sajjiad zaheer)の急進社会主義レジスタンスを支持できる。
ネパール
ネパールもリワークの一部で、ゲーム開始時はラナ朝とジュッダ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ首相の厳格な統治下に置かれた父権的専制国家としてスタートする。厳密にはトリブバンはまだ国王だが、王宮の中で実質的に幽閉され、民主化を求める盟友のプラジャ・パリシャド(Praja Parishad)は厳しい監視下に置かれている。ラナ朝は英領インドの確固たる同盟国で、協商のメンバーではなくとも相互に独立を保障しており、ネパールと自由インドには国境に関して重大な対立を抱えている。特にネパールは内戦中にウッタラーカンドの大半と北ベンガルを獲得した。
他の英領インドの同盟国とは異なりネパールには自由インドとの戦争の引き金となる危機が存在しない。自由インドにはパリシャド、左傾化していればネパール共産党を支援するオプションが存在する。どちらも勢力拡大は監視され、ネパール政府に弾圧されるが、もしラナ政権を転覆させるだけの力を集めることができれば、トリブバン国王と民主的に選出された政府か、あるいはK・I・シン率いる急進社会主義に代わる。どちらも戦争から離脱し、社会主義政権は自由インドの同盟国になる可能性もある。だがラナ首相が勝利を納めれ、自由インドが敗北すれば、ネパールは協商に加盟し、忌まわしき1816年のスガウリ条約の撤廃に向けての交渉を行える。
その他の変更
触れておくべき点をもう一つ、最初の国家タグ以外にも開放可能な国家が多く実装されている。とくに主要参加国のタグがイデオロギーに大きく依拠しているため、現在のインドは全土を支配しなければ解放できないというKRでも数少ない地域として苦しんでいる。これらの国家タグは総じて他と比べてNFツリーやディシジョンなどのコンテンツは少ないが、同時にインドの一部でも支配すればいくつもの傀儡国の選択肢が発生するということでもあり、ディシジョンは国のサイズや初期状態に様々な変更を加えられるように設計されている。こちらに実現しうる配置を記したマップを用意しました。(国名や色はまだ開発段階にあることには注意)
新しく開放できる国家タグの様々な組み合わせ
今日はここまでです!この(かなり長い)リポートは、間違いなく各国に関する多くの疑問を生むでしょう。どの国がどの陣営といつ同盟できるのか、主にどんなルートがあるか、インドが再統一された何が起きるのか、等々。それぞれの国にリポートを発表するまで答えは限られることくらいはわかってくださいね。実装に向けて作業が進み次第発表します。チームはまだコーディング作業のほんの初期段階にあります。またね!
Q&A
Q.ドイツの「セイロン売却」NFは変わる?
A.はい、ポンディシェリ売却に変わります。
Q.インド側から自由インドを不安定化させることはできる?
A.はい。ですが英領インドから影響を及ぼせる要素はあまり多くありません。どちらかと言えば自由インド内の展開そのものが英領インドの有利に繋がる場合があります。自由インドは国土は広大でも、特に安定しているわけではないので。
Q.最新の中国Hotfixのように(単なる国名変更などであっても)すべてのインド国家タグでインド統一は可能?
A.すべての国々がインド・パキスタン全土を統一できるわけではありません。ですがすべての国家は「大○○」バージョンが存在します。
Q.アフガニスタンは?ビルマは?
A.アフガニスタンはインドがいずれ変更されることを考慮すると独自のツリー作成がちょっと難しかった。現在少なくともインドの作業が順調に進んでいるので、アフガニスタンにも全く可能性がないわけではない。ビルマは別のリワークで。