Kaiserreich進捗状況132 ポーランド
KRの東欧devのMataroです。ようやくこの日が来ました。ポーランドは次回のアップデートで更新されます、今回はその内容を見せましょう。ただしこの記事ではゲーム後半の展開やその他の隠し要素など、紹介しないコンテンツもあります。ポーランドの更新が終われば、東欧の旧コンテンツ国はウクライナだけになります。そして何事もなければ、ポーランドよりも短い期間で準備ができるでしょう。ここ最近あまり進捗報告を公開してこなかったのは、いろいろと誤算が生じ、完成間近になるまで公開を控えるようにしたからです。設定部分は同じくポーランドチームのKlyntar Kingから、ゲーム部分はkatieから紹介します。
前史
世界大戦の初期、ポーランドでは親中央同盟運動の機運が高まり、中でもユセフ・ピウスツキ率いるポーランド軍団が積極的に協力したが、やがて期待感は失望に変わっていった。第一に、ドイツがオーストリア主導の統一ポーランド独立構想をことごとく妨害した。そしてポーランド軍団も非合法化され、首脳陣のほとんどが拘束された(宣誓危機)。1918年に中央同盟とウクライナ間で講和条約が調印される(Brotfrieden)と、ポーランド人の怒りは頂点に達し、ドイツが約束したヘウム返還の実現を迫った。この頃ポーランド摂政評議会は暫定議会として国家評議会(110議席)を設置、ここで二つの派閥が生まれた。
・親中央同盟の政治家「積極派」を中心とした全国選挙委員会。
・親協商の「消極派」が結成した超党派政治グループ(MKP)。
4月に選挙が行われ、MKPが多数派を占めた。
戦況は比較的沈静化する中、摂政評議会はドイツとの軋轢を避けつつ、統治体制の樹立とさらなる自治権獲得に向けて活動を重ねた。同年11月、ドイツは春季攻勢の準備を進め、オーストリア=ハンガリー帝国でもシュテファン・ブリアンが外相に復帰した。これを好機と見た評議会はポーランド問題の最終的解決に乗り出した。ドイツは西部戦線での攻勢を前にして東部の政情不安を望まず、ブリアン外相もポーランドのオーストリア圏編入案を撤回するなどドイツに大きく譲歩していた。しかし評議会が制憲議会(セイム)の発足と憲法策定を宣言すると激しい非難に晒され、ポーランド社会党(PPS)などの左派は制憲プロセスから外されてしまい、抗議ゼネストに突入した。結局左派にある程度譲歩することで事態は収拾した。
1919年1月9日、ドイツのスパで最終合意案が調印され、ポーランド国境の確定、国王の選出、ポーランド国家への段階的権限移譲が決まった。こうして同年2月20日、ポーランド王国憲法が制定された。ドイツが大部分を作成したこの憲法は、先進的な民主主義的要素と反動的な君主制要素が含まれていた。議会は上院(国家評議会から改称)と普通選挙で選出される下院(セイム)の二院制を採用したが、一方で国王には首相の任命権や議会への拒否権など強力な権限が付与された。
民衆は新憲法の制定にもポーランド占領軍との最終合意案の締結にも満足せず、大きな不満を抱いた。しかしこの時点で中央同盟の優勢ははっきりとしており、この状況では現政権を唯一の希望として、中央同盟に協力して領土返還などの公約を実現させるべきとの認識が共有されるようになった。
10月、ポーランド国民は自治権を取り戻し、摂政評議会は新たなポーランド国王の選出に着手した。戦争序盤のオーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア皇帝のポーランド国王即位による同君連合の結成を構想していたが、ドイツからの激しい反対に直面して案を取り下げた。オーストリア側のもう一人の候補者、カール・シュテファン大公もドイツの傀儡国家の王になるつもりはさらさら無く、皇帝からも即位要請があっても断るようにと厳命されていた。結局、摂政評議会はベルリンに最大限配慮し、ヴィルヘルム2世の四男「アウヴィ」ことアウグスト・ヴィルヘルムを国王に選んだ。こうして民衆の冷めた空気を他所に、ポーランド国王アウグスト4世が即位し、ポーランドは「独立した主権国家」であると宣言した。その見返りに、ドイツは未確定だったドイツ=ポーランド国境地帯とヘウム地域を返還した。これはポーランドで人気の低いアウグスト・ヴィルヘルムを選出させるための、一種の賄賂だった。
まもなくポーランド王立軍の指揮権は国王に移譲され、ワルシャワとルブリンに置かれていたドイツ総督府も解体された。ドイツの影響力は国王の諮問機関である枢密院、上院議員の任命権、そしてドイツ軍事顧問団といった形で残された。オーストリアもドイツ程ではないが、ポーランド国家連盟やワルシャワ大使館、ルブリン領事館を通じて発言権を残した。ポーランド人反乱勢力には武装解除に従わない派閥もあったが、掃討作戦によってようやく平和と安定が戻り、元抵抗勢力にも恩赦を受けて新生ポーランド王立軍に復帰する者もいた。
こうして1920年、アウグスト4世の治世が始まった。
1920年の第一回議会選挙は新たな国内情勢を反映していた。社会党が選挙を茶番だとしてボイコットする中、セイムは進歩色が強く、なおかつ親政府系の保守派が多数を占める結果となった。1918年以降は摂政評議会内部の「積極派」と「消極派」の対立は有名無実化し、両派は親政府系で貴族(シュラフタ)階級中心の保守派ブロック「超党派政治グループ(MKP)」に収斂し、改革派ブロックに対抗した。これを受けてキリスト教民主党(ハデツィア)はMKPを脱退。しかしその後も議会では目立った反対をせず、国王が議会と協力する限りはMKPとの協力にも積極的に応じた。ただキリスト教民主党とポーランド農民党(PSL)の合併は実現しなかった。
ポーランド経済はドイツ出資の新たな鉄道敷設計画の恩恵を受けた。東欧諸国への輸送ハブに位置するポーランドは建設ラッシュに沸き、大都市では軽工業が活況を呈した。ガリツィアのポーランド人コミュニティとの経済関係も強まったが、同時にガリツィア帝冠領は親オーストリアのポーランド人が多数派で、君主制批判の急先鋒でもあった。
第一回議会での不参加を経て、社会党は選挙ボイコットの撤回と次回選挙への参加を表明した。予想に反して王国が存続したことで、社会党は議会に議席を占めて労働者階級と協力することでさらなる改革を推進する方針に転換した。第二回選挙で議会はさらに分裂した。同時期、キリスト教民主党やMKP内部の急進改革派など中道右派勢力は新たに「キリスト教国民統一ブロック(ヒエナ)」を結成。結果的に元国民民主党員のMKP党員ヤン・クハジェフスキ元首相が復帰、キリスト教民主党と農村地域の議員などが参加する保守派大連立政権が発足した。平和と経済回復で自信を深めたポーランドは農地改革も試みたが、貴族たちの支持を繋ぎ止める内に計画は骨抜きにされ、その進捗も人口増加に追い付かなかった。
1925年、議会からの強い圧力を受けてピウスツキの釈放が実現した。だがその後も共和派との接触を恐れてワルシャワで自宅軟禁下に置かれ、厳しく監視された。
この頃にはインフレ問題も顕在化した。王国は建国当初の反乱勢力の鎮圧を多額の紙幣増刷で対応し、その後ポーランド・マルカが発行されても再建事業や農地改革予算のために増刷を繰り返した。事態は悪化の一途を辿り、アウグスト4世はクハジェフスキ首相を解任、同じく旧国民民主党のフェリクス・ムウィナルスキを後任に指名した。
ムウィナルスキは大規模な貨幣改革政策を実施した。ポーランド銀行に資金を投下し、マルカも新通貨ズヴォティに切り替えた。新たな通貨はポーランド内外で好意的に受け止められた。ドイツも東欧投資への悪影響を懸念して、オーストリアを刺激しない範囲内で一定の経済的自立性を認めた。同時期、ポーランドで度々批判されてきたドイツ軍事顧問団長のベーゼラー将軍がアウグスト4世との協議の末に退任、後任にはウォルフガング・フォン・クライスが就任した。
君主制がポーランドに浸透する中、ムウィナルスキ政権は国民民主党時代のポーランド化政策を復活させ、ユダヤ人やヘウム周辺のウクライナ系マイノリティが対象となった。ベルリンの逆鱗を恐れてドイツ系住民は対象とならなかったが、この政策によって都市部や学校、一部のシナゴーグでもイディッシュ語の使用が禁じられた。この政策は旧国民民主党員を中心としたポーランド民族主義者から賞賛されたが、進歩派や左派は猛反発し、両者はセイムにおいて反国民民主党勢力として結束を強めた。
その後も安定が続いたが、1931年にオーストリアでクレディト・アンシュタルト銀行の経営危機が発生した。危機はオーストリア帝国を超えてポーランドにも波及し、新規鉄道路線の建設中止や銀行の破綻が相次ぎ、ポーランドは不景気に陥った。
解散総選挙が実施され、枢密院もキリスト教民主党・農民党・ポーランド社会党社会民主主義穏健派による大連立政権発足に合意、史上初の非MKP系内閣が誕生した。首相には農民党の有力政治家で旧国民評議会議員のトマス・ノチャニツキが就任した。貴族階級は危機感を募らせたが、摂政評議会は往時ほどの影響力はもう持ち合わせていなかった。そして一部の国民の間ではにわかにピウスツキ待望論が浮上した。表向きにはピウスツキは退役し政治活動からも引退していたが、彼が社会党に復帰して君主制を廃止するか、そうでなくとも自治権の大幅拡大を成し遂げるとの期待が寄せられた。しかしこの機運はすぐに立ち消えた。当時の社会党党首ノルベルト・バルリツキはドイツ社会民主党の協調路線をモデルにしており、連立に参加した社会党の閣僚は現実主義路線を取って国王と協力した。
新政権はポーランド最高峰の経済学者ミハウ・カレツキとエドヴァルト・リピンスキに着装を得て野心的な国家介入型プロジェクト、「四ヵ年計画」を実施した。経済大臣のヴワディスワフ・コシェラツキと弟のパヴェウ・コシェラツキ農業大臣は国王の裁可を得て、ポーランド銀行とドイツからの多額の融資をもとに大規模な工業投資計画に着手した。十億ズヴォティ規模の工業化計画が策定され、既存の消費財軽工業を補完する重工業が開発された。失業率の高い地域には多額の資金を投じられ、新たな製鉄所が創業し、ルブリンでは多数の自動車工場が稼働、さらに輸送能力向上のために新たな道路や運河が整備され、新たな都市圏が次々と誕生した。
社会面でも野心的な政策が見られた。貴族ら極右の反発を他所に、ポーランド化政策が廃止され、また当時周辺諸国から職を求めてポーランド人が流入し人口が急激に増加しており、その解決策として失業保険や児童手当が導入された。報道への検閲も縮小され、ポーランド独立史を称揚する本や映画が人気を博した。
最終的にポーランド四ヵ年計画は不況脱却に成功し、経済の奇跡として大きく賞賛された。しかし巨額の赤字国債には不満が集まり、1934年には計画は中止、大連立にも亀裂が生じた。フランス・コミューンとの関係も悪化するとリピンスキのような左派の経済学者への風当たりも強くなり、第二次農地改革政策も地方を牛耳る大地主から反発を受けた。こうして国王はキリスト教民主党の支持を取り付けると、議会を解散して解散総選挙を実施、連立政権は「その目標を達成した」と述べた。
その後の選挙では左右の二極化が進み、結果的にMKPが政権の座に戻った。国王はアントニ・ポニコウツキを首相に任命し、キリスト教民主党との連立政権が復活した。農民党と社会党は前政権の倒閣運動に抗議して新たに「人民の法と正義を擁護する連合」、通称「中間派=左派連合(ツェントロレフ)」を結成、反MKP陣営として共闘路線を取った。ツェントロレフは議会の多数派には届かなかったが、仮にキリスト教民主党との連立が解消された場合、MKPの優位を脅かす規模にまで成長した。
1935年のピウスツキ死去は政情不安はいっそう深刻化した。表向きには隠居生活に入り、政治にも関与してこなかったが、敬愛されたポーランド軍団指導者ピウスツキの死去に国民は共感し、やがて国王に代表される政府やドイツ従属への批判が強まっていった。
王国政府も国民の不満を認識してはいたが、好景気とドイツ介入の可能性を考慮して無視してきた。国王は最善を尽くしてはいるが、人気は非常に低い。即位当時から政治問題に介入してこなかったが、ノチャニツキ内閣の倒閣後はポーランド国民から完全に見放されてしまった。
そして1936年、ポーランドは確かな未来像を描けず、不安定感に包まれている。経済は安定しているが、国王はここ二年間でますます懸念を深めている。ピウスツキの最後の贈り物はドイツ人の目を覚まさせた。自分はよそ者だ。今でこそポーランド人は服従しているが、本国が弱体化すれば、きっと大きなしっぺ返しを喰らうと。
ゲーム内容
現在、Kaiserreichのポーランドは奇妙な状況にある。周辺を帝国協定に囲まれているのに、ゲーム内では中立国だ。大した混乱もなくドイツ勢力圏から抜け出せるし、ドイツ側も反応しない。世界大戦中に建国されて20年も経過しているのに、何故か摂政評議会が存続し、そこでの選択肢によってプレイヤーのルートが決まる。今回のリワークではポーランドの開始状況をより現実的な設定に変え、ゲーム内容をより独特かつ、これまで更新された白ルテニアやリトアニア王国レベルの水準に高める。ではお見せしよう。
ポーランドはプロイセンに似た権威主義的立憲君主制国家としてスタートする。指導者はヴィルヘルム二世の四男、ホーエンツォレルン朝アウグスト4世。与党の超党派グループ(MKP: Międzypartyjne Koło Polityczne)は穏健派リベラル、カトリック系民族主義者、貴族、親ドイツ勢力の連合体だ。保守派の支配階級は君主制を支持している。ドイツを支持しているからではなく、利害の一致からだ。
1938年に選挙が行われるが、その前に政治ツリーでは小さな分岐が起きる。
国王は政治にはあまり関わらず、顧問や閣僚の意見で簡単に動いてしまう。MPK内のリベラル派・穏健派と協力すると、アウグストは民主化政策によって国民からの支持を集め、その引き換えに自身の権限が縮小する。反対にドイツ権益を重視すると、支持と引き換えに不穏分子を摘発できる。
ポーランドは帝国協定の一員だが、ガリツィアのポーランド系住民との密接な経済協力により、オーストリア権益も政治・経済に大きな影響を及ぼす。ポーランドがドイツかオーストリアと同盟を結んでいる限り、両国の権益はポーランド経済にも影響を与える。
ドイツやオーストリアの経済権益はさまざまな場所で影響を及ぼすだろう。例えば国の経済支配レベルに応じて、開始時の国民精神の効果が変わる。ドイツとオーストリアはポーランド権益を消費して、自国の勢力圏にとどめることができる。またはポーランドの将来を不安定させる代わりに、利益を搾り取れるだけ絞るのもいいだろう。
ブラックマンデー
ドイツ経済が崩壊すると、その影響はすぐさまポーランドにも波及する。アウグスト4世は臨時議会を招集し、危機の早期解決を要請する。対策案はNFツリーの分岐で変わる。
この中にはドイツやオーストリア側の特定のNFが完了していたり、ポーランドが一定の経済利権を持っているなど、特殊な条件が必要なものもある。
38年選挙
「君主派や共和派の影響力」という一文に気づいた人もいるだろう。これは「Stability of the Kingdom」メカニズムに関する補正だ。
ここではプレイヤーは君主派=民族主義派連立の視点でプレイする。共和党と社会主義党は対抗勢力で、展開によって協力したり反発したりする。ゲーム中ではそれぞれの勢力の支持率が増減するイベントが発生する。繰り返し発生するイベントもあれば、社会党の議長選出イベントなどの一回だけ発生するイベントもあり、後者は選択肢次第でその後のイベントに影響を及ぼす。
36年中旬、重大な疑獄が発覚し王国を揺るがす。
プレイヤーはディシジョンを使って、38年の選挙までポーランド国内の政治グループを調査し、対策案を決めなくてはならない。最終報告書を作成すると選択肢に応じた国民精神が手に入り、社会主義者と民族主義者の支持率に影響を及ぼす。
選挙までの数年間は4つの派閥が主な内容になる。それぞれの派閥にはポーランド情勢に影響を及ぼそうとする支援国がいる。アウグスト4世を支えるのはもちろんドイツだ。オーストリアは現実的観点から共和派を支持している。オーストリアは独自の戦後ポーランド構想をドイツに骨抜きにされたのを忘れておらず、アウグスト4世を排除しようとする。また共和派はポーランドのオーストリア勢力圏参加はを最善の選択肢と見ている。この野望を実現するのが「ツェントロレフ」だ。社会党穏健派と農民党の連立で、共和主義の枠組みに基づいたポーランドを目指しているが、国王の廃位までは要求していない。
民族主義派(国民民主党)はロシアが小規模ながら支援している。これも帝政ロシア以来続く利害関係だ。社会主義派はパリに亡命中の革命委員会からの支持と支援を受けている。
そしてゲーム開始から2年後、選挙が行われる……
国王陛下の内閣(自由主義)
君主派=民族主義派連立が勝利し、君主派への支持が高いと、MKPが引き続きポーランドを治める。MKPはアウグスト4世の権限を縮小し、純粋な立憲君主制への移行を目指す。外交では引き続きドイツと協力するが、最大限の自治権は確保する。イデオロギーでは市場自由主義のスロットに分類される。
国王陛下の内閣(権威主義)
選挙の結果に関係なく、国王は国家党のヴワディスワフ・ストゥドニツキを首相に任命できる。ストゥドニツキと国家党は親独派の保守派で、ポーランドにおけるベルリンの影響力増大を目指している。イデオロギーは権威的民主主義。
キリスト教保守主義
君主派=民族主義派連立が勝利し、民族主義派への支持が君主派よりも高いと、キリスト教国民統一ブロック(ChZJN)が与党になる。彼らは現実的な視点から君主制を存続させるが、ドイツの影響力からは距離を置き、民族主義的政策を進める。カトリック教会の地位を強める。イデオロギーは社会保守主義。
ツェントロレフ
ツェントロレフ連立が勝利すると、農民党(社会自由主義)か社会党(社会民主主義)が率いる新政権を発足させる。どちらにせよ、ツェントロレフは枢密院や上院の権限縮小を目指し、国王はただちに拒否権を行使する。首相は抗議の意を込めて辞任し、国王はストゥドニツキを首相に据える。その二か月後にツェントロレフは大規模な抗議運動を展開し、人民党のシンボルをとってクローバー革命と呼ばれる。
自由な民主主義共和国が建国されると、社会民主主義者のノルベルト・バルリツキが指導者となる。
もちろんドイツも黙ってはいない、ポーランドに君主制の再導入を要求するだろう。プレイヤーはウィーンに介入を要請できる。この場合はポーランドがドナウ=アドリア同盟に加盟してオーストリアの同盟国となり、ガリツィアと合併する。ウクライナが更新された際は民主ルートに親オーストリアの選択肢が追加されるため、ガリツィア分割はもっと複雑になる。
ツェントロレフ政権は野心的な改革を推し進めようとする。国の世俗化や農地改革、特定セクターの国有化に民族マイノリティの自治権付与、女性参政権。こうした急進的改革に右派は猛反発し、場合によっては共和国はすぐに潰えてしまうかも……
抵抗ルート
選挙が終わっても、与党には試練が待ち受けている。帝国協定と敵対する国はかなりの確率で抵抗運動を支援し、民族主義者と社会主義者は政府に敵対する。もし支持が集まれば、ポーランドは反旗を翻してかつての宗主国ドイツに宣戦布告する。蜂起を避けるのであれば安定度を上げるか、立憲君主制になって広い支持を集めなくてはならない。ドイツ・オーストリア・ロシア・フランスの4か国はポーランド情勢に介入できる。君主制ルートでも民主共和国ルートでも、対処を間違えると蜂起する。
民族主義
条件が揃うと、アダム・ドボシンスキと国民党率いる民族主義者たちが決起する。ドボシンスキは1939年にロマン・ドモフスキのあとを継いで国民党の指導者に収まったが、軍事指導者ではなく、また極右派以上に過激な思想の持ち主で、国民民主党やキリスト教ブロックからも支持されていない。そのためドボシンスキは自身の指導力を証明しなくてはならない。
各派閥との闘争に勝利すれば、ドボシンスキは権力を固め、カトリック重視、反資本主義、富の分配に基づく過激な思想に根ざしたポーランドを目指す。イデオロギーは国家大衆主義だ。ドボシンスキ最大の目標はリトアニア、西スラヴ人諸国家、ベラルーシ、ウクライナをも抱合する「西スラヴ連合」の建設だ。しかし実現は非常に難しい。
軍部
キリスト教国民統一ブロックが1938年選挙で与党の座に就くと、ポーランドには新たな反ドイツ・ルートが解禁される。世界大戦が勃発した後に特定の条件がそろえば、プレイヤーはパラソル作戦を発動できる。
発動した場合はエドヴァルト・リッツ=シミグウィがOZN(ポーランド民族統一党)の指導者となり、ドイツに対して反旗を翻す。彼は自身を中心に権力を固め、個人崇拝体制を確立し、ポーランドに巣くう敵を粛正する。OZN無党派の運動を標榜し、全てのポーランド人を一つの旗の下に集めようとしている。しかし実際にはOZNは国民民主党と同じで、ポーランド・ナショナリズムと軍国主義を称揚している。リッツ=シミグヴィとOZNには父権的専制主義のイデオロギーに割り当てている。
共和派ルートも状況次第で社会保守派に変わる可能性があり。その場合は王国ルートの社会保守主義ツリーと同じものが選択できる。
社会主義
条件が揃えば、ポーランドではカジミェシュ・ザクシェフスキ率いる社会主義者が決起する。ザクシェウスキは急進的でソレリアンに近いZZZ(労働組合連合)に所属しており、自身を中心に権力を固め、革命防衛のために強力な行政府の設置を呼びかける。支持者たちはザクシェウスキに独裁的権限を与えることもできる。臨時政府議会がこの方針を支持した場合、ポーランドのイデオロギーは全体社会主義に変わり、プレイヤーはザクシェウスキの思想を実現できる。
議会がザクシェウスキの権力掌握を支持しない場合、アナーキストや穏健派サンディカリストなどの社会主義勢力が勢力を伸ばし、選挙が行われるようになる。この派閥はすべて同じツリーだ。ザクシェウスキは選出されても独裁的権限は目指さない。
サンディカリスト・ポーランドの拡張には二つのルートがある。西スラヴ人の緩やかな結束を目指すか、あるいは東に目を移し、ピウスツキのミェンズィモジェ構想を実現させることもできる。
ポーランド軍
建国以来、ポーランドは小規模ながらも優秀な軍隊を育て上げ、「ドイツ東方の防波堤」と称されている。しかしポーランドがいつまでもドイツに従うかどうかはルート次第だ。これを表現して、序盤は全てのイデオロギーで使用できる共通ツリーとし、その後分岐によって4つのツリーに進める。
Germany’s Eastern Bulwarkは帝国協定に残留した場合に取得でき、「Armia Ludowa」はツェントロレフ政権と社会主義者。「Legacy of the Legions」は社会主義以外の全てのルート。「Vanguard of the Internationale」は社会主義ルートのみで選択できる。
最後にこの進捗報告の内容以外にもまだ隠された展開や勢力、指導者が存在する。さっきまでの画像にもヒントが潜んでいるので、よければ探して見てほしい。
今日はここまで。楽しんでくれたら幸いだ!最後に、これが新しいポーランドのNFツリーの全体図だ。
P.S. なぜポーランド国王がヴェッティン家の人物などではなくアウグスト・ヴィルヘルムなのかという質問が多く寄せられた。この設定はオーストリア=ハンガリー帝国のシュテファン・ブリアン外相の回顧録を基にしている。この中でブリアンはヤヌシュ・ラジヴィウやドイツ外相パウル・フォン・ヒンツェと会談を重ねた結果、アウグスト・ヴィルヘルムが有力な国王候補として認識されたと記している。
質問
Q. 次のパッチではウクライナのリワークも公開される?
A. いや、含まれない。
Q. まだ見せてないコンテンツって?
A. 全てのルートでゲーム後半のチャレンジ目標がある。
Q. 初期工場数は?
A. およそ20前後。