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【翻訳】Kaiserreich進捗リポート117 ジョージア民主共和国

(原文はこちらから↓)https://www.reddit.com/r/Kaiserreich/comments/jpdrvm/progress_report_117_democratic_republic_of_georgia/

こんにちは。新アップデートのリリースが目前に迫っているため、次回のパッチで追加される最後の国家を紹介します。紹介はわたくしCodyが担当します。それでは、WordZeroが開発したジョージア民主共和国に盛大な歓迎を。


慨史


ジョージアの地はロシア国家と数世紀にわたって密接な関係を保ち、帝政ロシア政府がジョージアの保護王国としての地位を廃止すると、それは一層顕著になった。だが歳月を経ても、ジョージア人たちは自由と民族自決の夢を諦めなかった。第一次世界大戦、そしてロシア革命によって、ジョージアはこの理想を実現するチャンスをつかんだ。

二月革命はツァーリのロシア支配に終止符を打ち、コーカサス総督府はロシア臨時政府下のザカフカース特別委員会に引き継がれた。1917年当時のロシア帝国内でも極めて珍しいことに、ジョージアはメンシェヴィキの勢力が極めて強い地域であり、領内のすべての評議会(ソビエト)はメンシェヴィキが牛耳っていた。彼らは同じメンシェヴィキが支配するペトログラード・ソビエトと良好な関係を謳歌していた。

だがボリシェヴィキの攻撃によってすべてが変わった。10月革命の衝撃は旧ロシア帝国領全土に波及した。ザカフカース各地のソビエトはボリシェヴィキへの反対を表明し、ザカフカース委員部を創設し、コーカサスの四つの主要民族グループがそれぞれの地域を治めた。ボリシェヴィキによるロシア立憲議会の終結によって委員部とボリシェヴィキの交渉は実質的に不可能となり、ここに至って委員部はザカフカース民主連邦共和国の独立を宣言した。

講和会議で明確な合意に至れず、オスマンが軍事作戦を再開したため、ザカフカース共和国は出だしから分裂した。当初から明確な基盤もなく、それぞれの共和国政府に参加した人々の多くが、独自の民族国家建国に関心を寄せていた。ジョージアは1918年5月26日に独立を宣言し、二日後にはアルメニアとアゼルバイジャンも続いた。

それ以来、生まれたばかりの国家はドイツとの関係を深めた。ドイツ帝国とオスマン帝国のはジョージアの独立を承認したが、その後のバトゥミ条約によって、ムスリム過半数の地域をやむなくオスマンに割譲した。加えて、ドイツ帝国はフリードリヒ・クラス・フォン・クラッセシュタイン率いるコーカサス遠征軍のジョージア国内での行動を認めさせた。さらに大きな問題として、そのほかのザカフカース諸国やロシア白軍との微妙な関係が残った。小規模なジョージア軍は両軍との闘いを余儀なくされたが、やがて勝利を納め、独立を保った。また地方のボリシェヴィキ派がクーデター計画の一環としてチフリス士官学校への襲撃を敢行したが、クヴィニタゼ将軍と部下たちの手で鎮圧された。

1919年には第一回選挙が開催され、メンシェヴィキが圧倒的多数(全得票数の81.5%)を収めて勝利した。選挙は四年ごとに開催されることになった。だがこの結果はほとんど都市部人口の選択を反映したものだった。当時はまだ農民反乱が続いており、地方部での選挙実施は危険すぎると考えられていた。内戦終結後、ドイツはコーカサス地域の国境変更を確認し、新生コーカサス諸国の国境問題を「解決」した。ジョージアのソチ領有は認められたが、ザガタラ地域はアゼルバイジャンに割譲しなければならなかった。このことはムスリム地域の割譲と相まって、ジョージア国民の間に対独感情の悪化を招いた。

1921年には憲法も制定され、当時として最も進歩的な内容となり(ジョージア民主共和国は民族、信条、社会的地位、性別によらず、国内すべての国民に平等な政治的権利を保障した)、民主政府の土台を確立した。1921年には体制側のメンシェヴィキとの妥協によって、とうとう農民反乱も終結した。

地方部に安定が戻ったことで、1923年には再び選挙が開催された。結果は再びノエ・ジョルダニア率いるメンシェヴィキの勝利に終わったが、民族保守派の国民民主党や、ブルジョア民族主義者のジョージア社会連邦革命党、そして急進的社会主義派のジョージア社会主義革命党は地方部で大きく票を伸ばした。選挙後、ジョージア民主共和国には安定期が訪れた。この時期に建設されたバクー=ポティ間の石油パイプラインは利益をもたらした。ドイツの企業や投資家たちはパイプラインに必要な土地の「租借料」を支払っていたからだ。ドイツの投資によってマンガン産業も発展した。またジョージア文化の復興も始まった。

こうした安定期には政変も発生せず、メンシェヴィキはその後も再選したが、段々と野党に支持を奪われていった。時折アゼルバイジャンやドン=クバンとの国境紛争も発生したが、それでも国はおおむね平和を保った。

この時期に裕福な貴族階級を中心に君主制の関する思想が芽生え始め、プロイセンのヨアヒム王子とギオルギ・バグラチオニが候補が浮上した。ヨアヒムが大規模なドイツの投資を背景にした裕福な実業家層から支持を集め、一方のギオルギは総じて地主貴族や退役兵から人気があった。とはいえ君主制運動はあくまでも非主流派の運動であり、大規模な危機が発生しない限りはこの状況も変わらないだろう。


ゲーム開始時

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ジョージアは1918年以来国家元首を務めるノエ・ジョルダニア率いる社会民主国家してスタートする。だがジョルダニアは年を取り、人気の減少も相まって、1月6日に辞任する。エヴゲニ・ゲゲチコリが後任となる。

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もちろん数週間後にはブラックマンデーが発生し、ジョージア経済は完全に崩壊する。

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支持の篤いジョルダニア政権ではなくなったことも相まって、メンシェヴィキの支持率は低下し、大規模な抗議活動が勃発する。

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このため政府は選挙実施を1936年後半に前倒しする。すべての政治勢力が大規模な選挙運動を繰り広げ、その誰もが勝利する可能性を秘めている。

ポティ条約

だがその前に、石油パイプラインを通じたドイツ帝国との経済的・政治的な関係を定めたポティ条約の「破棄」について選択しなければならない。特に主要な君主候補はこの件について議論を繰り広げている。ヨアヒム王子はドイツとの関係継続を支持し、ギオルギ王子はこれ以上の対独協力を否定している。両名とも政府が「好ましからざる方向に進んだ」場合、ジョージア国王への戴冠を拒絶する。

ポティ条約の行方は経済政策を左右する。条約破棄の場合、ジョージアはより保護主義的な方向に進み、国営化と農民支援を行う。条約が「救われる」と、クルップを筆頭とするドイツや中欧同盟諸国の企業との関係深化に繋がる。また条約の結果によって水力発電所、または石炭火力発電所の建設に繋がる。

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どちらにせよ、1936年後半に早期選挙が開催される。社会民主派と社会保守派は接戦を繰り広げ、どちらが勝っても、勝者は連立形成を余儀なくされる。

社会民主主義のジョージア

ジョージアでは社会民主党(メンシェヴィキ)ルートに進んことができる。メンシェヴィキは昔からジョージアに強い地盤を持ち、ジョージア国家復興の立役者と目されている(このため、党内は民族主義色が強くなった)。社会主義、進歩主義と議会主義を掲げるジョージア社会民主党は国内最大の政党とのしての地位を保った。第一党になったとしても、メンシェヴィキは社会連邦革命党か社会主義革命党のどちらかと連立を組まなくてはならない。

ジョージア社会連邦革命党は国内有数の政党であり、国内の左派知識人や農村進歩主義を代表している。これまで連立を組んだことはないものの、メンシェヴィキとは長年にわたって協力してきた。彼らとの連立はジョージアの地方重視路線に繋がり、政治的な分権化と農業開発を実施する。ジョージア社会革命党は国内極左派の寄せ集めであり、国内唯一の合法極左政党である。農村社会主義を信奉する社会主義革命党は包括政党的な側面もあり、多くの穏健派ボリシェヴィキや急進派メンシェヴィキが籍を置いている。彼らと連立を組むことで、ジョージアは更に左傾化し、労働者の組合化や、農地の社会主義化が行われる。

連立相手に関係なく、メンシェヴィキ政権は自らの悲願を守ろうとする。中央政府による教育制度、出版の自由、そして福祉国家だ。

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保守主義のジョージア

またジョージアでは国民民主党も選択できる。党はメンシェヴィキによるジョージア国家建国を支援し、やがて1920年代には反対派に回った。伝統的なジョージアを擁護し、(メンシェヴィキと比較して)より顕著に民族主義を支持し、共和派の政教分離国家のヴィジョンを否定し、キリスト教的国家を目指している。国民民主党が勝利すると、かつて彼らから独立した国民地主党と連立を形成する。知らぬ仏より馴染みの鬼という訳である。自由保守派の知識人や大地主、主な実業家たちを代表する国民地主党は、長年にわたって国民民主党と協力してきた。

党内の伝統主義思想や、ブラックマンデー以降支持が高まっていることを反映して、国民民主党は君主制に関する国民投票の実施を目指す。当初は何も減収してはいないが、選挙後は特定の候補を支持するかもしれない。激しい宣伝活動が発生し、多くの対立するイベントが発生するだろう。しかしジョージア君主制の行く末を左右するのは国民である。ポティ条約を破棄したか否かによって、それぞれギオルギかヨアヒムが候補となる。

君主派が国民投票で勝利すれば、社会主義政党はこれをジョージア国家への侮辱と捉え、ことごとく反発するだろう。特ににギオルギが国王になった場合、彼の息子が反民主主義的な発言をしてさらに悪化する。急進派メンシェヴィキと社会主義革命党によって、こうした反発は瞬く間に暴動へと発展する。社会主義者と軍の対立はチフリスで始まり、そのまま暴動が全国に拡大し、共和派は君主派と軍と衝突する。だが最終的に暴動は鎮圧され、終結を迎える。国民投票の結果と国王候補に合わせて、保守派は自らの政策を実施する。

ギオルギが国王になった場合、国はナショナリズムの路線を進み、社会と経済(アウタルキー)にも影響を及ぼすが、ギオルギに大きな権力を与えようとはしない。

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ヨアヒムが国王になった場合、国はドイツとの関係深化を進め、その一方で社会分野でなどでは穏健保守的な政策を実行するにとどめる。国民投票で共和派が勝利した場合、ジョージアはアウタルキーと完全自由貿易の中間、民族主義と穏健社会政策の中間の道を進む。

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どちらのルートでも、保守派政権はジョージア憲法を尊重する。

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絶対主義のジョージア

最後に、ギオルギ・バグラチオニが国王になった場合にのみ特殊ルートが存在する。国中が暴動とアナーキーに支配される中、ギオルギは君主派の陸軍将軍のカクツァ・チョロカシヴィリと接触する。チョロカシヴィリは暴動が社会主義革命を招くと主張しており、過激サンディカリズムと社会主義からジョージアを守るため、君主と軍隊が民主政府解体に乗り出すべき時局であると述べる。ギオルギが承諾すれば、チョロカシヴィリが数日後にチフリスを掌握し、民主政府を解体し、ギオルギ・バグラチオニの下で父権専制絶対君主制国家ジョージアが誕生する。

新たな国家が政策を開始する頃、反君主制運動が復活する。メンシェヴィキの有力者ヴァリコ・ユゲリ率いる一団は独裁体制の排除と共和制復古を掲げてチフリスに行進しする。ここでその後のイベントの詳細はネタバレしないが、ジョージアから君主が追い出される可能性はある。だがもし絶対君主制が存続すれば、国王と内閣は(テトリ・ギオルギ協会が与党)は政策実現を続け、軍備増強と更なる急進的民族主義、宗教保守的傾向を示すだろう。

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軍事

ジョージアは小さな軍事ツリーを有しており、将校の訓練、装備の生産、ジョージアの国土活用などに取り組む。空軍は小さく、主に陸軍の支援に当たる。最期に、海軍は南北の隣国からの侵攻に備える沿岸警備を主な任務とする。

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拡張主義

この進捗リポートを閉じる前に、隣国が他所に気を取られいる隙に攻撃し、大きくなったジョージアをお見せする。かつて割譲を余儀なくされた土地は、言うまでもなく正当なジョージア領ではないだろうか?

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Q&A

Q.左派を選んだら第三インターナショナルに加盟できる?
A.できない。メンシェヴィキと世界革命は相反する主張だ。

Q.ザカフカース統一はできる?
A.できない。ザカフカース民主連邦共和国は主として複数の国家の集合体で、(コーカサス山脈以南の)コーカサス領土防衛を目的としていた。当時ですら内外には維持しようとする人は誰もいなかった。

Q.他のコーカサス諸国の更新は?
A.アルメニアとアゼルバイジャンはいずれ。ドン=クバンはロシアのリワークの一部になるだろう。

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