【イベントレポ】好奇心の森『ダーウィンルーム DARWIN ROOM』第21回環世界研究室| 「ありふれたくじら」を探して 〜イメージのクジラ、ほんとうのクジラ〜
■ 参加まで
下北沢駅にほど近い通りの一角に、緑で覆われたその店はあった。「好奇心の森 『ダーウィンルーム DARWIN ROOM』」(以下本記事では「DARWIN ROOM」と表記)だ。様々な標本や博物グッズ、自然科学をはじめとする新古書を幅広く扱い、カフェも併設している。佇んでいるだけで知的好奇心を刺激されるような場所だった。繰り返し足を運んで、その度に好きになった。
そんな「DARWIN ROOM」からの告知が、外出自粛の日々の中で目に留まった。従来は店舗2階のラボで行っていた研究室をリモート中継し、オンラインで集いを開く。そしてリトルプレス「Ordinary Whales ありふれたくじら」(以下本記事では「ありふれたくじら」と表記)の著者である是恒さくらさんが在宅でオンライン出演し、創作についてお話されるのだという。
「ありふれたくじら」という作品には、同じ下北沢の書店「本屋 B&B」店頭で出会っていた。クジラという生きものにつきまとう対立構造と直接対峙するのではなく、創造方法そのものと語り手の視点を複線化し編みなおすことにより新しい語られ方を模索する創作のあり方に惹かれ、「すごい本に出会ってしまった。」とnoteに感嘆を残している。迷わなかった。イベントの概要を読み、参加をすぐに申し込んでいた。
■ 導入 introduction
イベントの当日、DARWIN ROOMから受け取ったZoomミーティングのリンクを開いた。
DARWIN ROOM2階のラボが画面には映し出されていた。ちゃんと接続できたようで、安心した。
ラボの様子を知るのはこの時が初めてだったが、まさに「ヴンダーカンマー」(驚異の部屋)と呼ぶにふさわしい内装だった。ヤドクガエルのポスターとテラリウム水槽。何らかの旧人類の頭骨レプリカ。アンモナイト。レイヨウの頭部の剥製。民族楽器。チャールズ・ダーウィンの原著。DARWIN ROOM代表の清水隆夫さんと、キュレーターを務める釜屋憲彦さんのデスクの上には、ザトウクジラとマッコウクジラのレプリカも置かれている。
ラボの内装に驚嘆しているうちに参加者が集まり始め、清水代表がゆっくり口を開いた。昨今の情勢がDARWIN ROOMの運営にも影響を与えるなか、従前より準備を進めていたオンラインでのイベント開催を本格化し、「環世界研究室」も完全オンライン開催に至ったということだった。
ここで語り手はキュレーターの釜屋さんに移った。是恒さんとのご縁にも触れつつ、生物学者・哲学者であるユクスキュルが提唱した「環世界」のコンセプトとも響きあう、「ありふれたくじら」の世界観が解説されてゆく。特に印象に残ったのは、以下に概略する説明だった。
・自然科学は、自然界の相互作用を語るとき、観察者であるヒトの存在を抜きで語ろうとするが、一連の「ありふれたくじら」では「自然界の相互作用と、それらを観察し解釈するヒトが『同時に存在している』共時性」に着目されている。
・自然界とヒトが紡ぐ関係性を俯瞰して見ることで、自然科学が計測する数値には現れない、ヒトと自然との物語的な側面が掘り下げられている。
たとえば、昨今のウィルス感染症をめぐる情勢は「自然界の見えないものに対し『ヒトが』どのような認識を抱いているか」といった面で、生物史・生物哲学の分野でも大きな変化をもたらしているのだという。
クジラという生きものについて考える時も、「人々がクジラという生きものをどのような存在として見なし語っているか」という要素はとても重要である。
釜屋さんにより「ありふれたくじら」の特質が言語化されたところで、著者である是恒さんから創作の背景についての話題が提供され始めた。
■ 創作 making
是恒さんが創作の原体験として挙げていたのは、アラスカでの暮らしだった。
写真家・星野道夫の遺作のひとつである『森と氷河と鯨』、そしてそこに描かれていたアラスカに遺されるトーテムポールと森の喪失。是恒さんもまたアラスカに赴き、イヌピアック・エスキモーの生活を経験され、先住民芸術を学ばれている。
凍てついた大地に海が戻ってくる夏、セイウチやアザラシを狩り、保存食や伝統衣服を作る。キツネの皮をなめし、トナカイの毛で縫ってブランケットに仕立てる。ひとつの技術には、やり方を教える人、その家族、先祖……何層もレイヤーとして重なった物語があることを、早い時期から体得されていたという。
アメリカ合衆国全体では反捕鯨を主張する声が大きいが、アラスカの先住民たちは生存捕鯨を行い、「アメリカ人のクジラ観の中でのマイノリティ」と言える存在だ。また日本においても、捕鯨基地として知られた鮎川浜を有する宮城県牡鹿半島と、クジラを神として祀り食べることを忌避する風習があった宮城県唐桑半島のように、近い地域でも全く異なる「クジラ観」を持つ文化が共在している。
国と国との関係では立場の違いが先鋭化し、分断が生まれているとしても、個人レベルでは違うこともある。「クジラは文化を分断しているが、違う仕方ではひとつに繋げている」という言葉から、ふたつの文化の表層的でなく根源的な部分に触れてこられた是恒さんの実感が滲んでいるように感じられた。
■ 装い text/textile
「ありふれたくじら」のテキストを読んでいて印象的なのは、その装丁だ。左ページに英文が、右ページに和文が記され、是恒さんご自身が制作された織物の文様が挿絵として文章ページの合間合間に入る。
「ページを一枚の布に見立てている」というお話が印象的だった。コンパクトなリトルプレスの挿絵は実際には大きな刺繍作品で、展覧会では大きく印刷された文章と実物大の刺繍を会場に配置し、「本の中に入り込んだような」展示を実践されているのだという。
「クジラ」のイメージも、表と裏がある刺繍に似ている。文化や立場、知っている情報や物語によって、まったく違うものに見えてしまう。
さらに、テキストは是恒さん自身により、展覧会で朗読されることもあったという。ただ文字で書かれているだけでなく、クジラたちが歌うようにことばとして発されることで物語は多くの人々により実感を伴って響く。
「ありふれたくじら」ではテキストとテキスタイルは一体不可分で、作品の構成要素であると同時にメディアでもある。装いそれ自体によって、またテキスタイル作品やテキストの展開のされ方によって、大きなテーマのひとつである「多元性」が表徴されているように感じられた。
■ 傾聴 listening
しかし、なぜ「多元性」を表徴する主題が「クジラ」なのか。捕鯨問題の歴史は、「イメージ」によって目を向けられてきた側面も大きい。1980年代からの環境運動は反捕鯨派の思想に大きな影響を受け、「クジラを食べる日本人」というイマジナリーなステレオタイプと、「超越的な存在」である想像上のクジラ――「スーパー・ホエール」のイメージが強固になっていった。
是恒さんは、国内外のジャーナリストたちが「捕鯨『問題』」への「思想・立場」や「今後」ばかりを聞いており、くじらの文化を持つ地域の人々は二項対立をし向けられているようで、「話し疲れている」ように感じられたという。
それよりも、「個人にとっての」どういう体験があったのか、という点に着眼した聞き取りを心掛けている、という取材姿勢が印象的だった。クジラ漁に従事する人々の生活史の中では、クジラとの向き合い方は季節ごとに移ろいでいく。ことばだけでは、捉えられないところがある。
私自身も、しばしば物事を外部からの言説によって規定された対立構造で捉えてはいないだろうか、と自問させられた。
■ 環 circle
キュレーターの釡屋さんは是恒さんを「 新しい翻訳家」と呼んでいた。身体性を伴わない意志の世界を表すことばの世界と、身体の動きや無意識の領域、前言語的な感覚と親和性が高いアート・パッチワークが双方向的に響きあいアウトプットされる「ありふれたくじら」の連作は、文字だけにとどまらない「新しい翻訳」作業であると、私にも感じられる。
無文字社会では記憶を頼りにして歌、ダンス、物語が引き継がれた。記憶は完璧でないからこそどんどん形を変える。あるいはイメージ豊かに、あるいはシンプルに。
自然界について描写されるとき、「誰が、何に基づいて」その自然について語っているのかによって、大きくその見え方は変わってくる。私たちひとりひとりが「自然史」を編む一本の糸であること、世界を環のようにつなぎ織り成す「生命観・自然観」の当事者であることを再認識させられた。
■ 輪廻 reincarnation
総論についての質問と応答が熟した後も、是恒さんから提示される話題は尽きなかった。くじらをめぐる物語の舞台を順に辿る是恒さんに同行して、私たちもそれぞれの自宅にいながら、旅をしているかのようだった。少なくとも私はそんな気持ちだった。
「ありふれたくじら」vol.2の舞台である、アラスカ州 ポイント・ホープでのエピソードについて説明された後だった。集いに参加していたある方がスライドで一瞬映し出された不思議な絵に気付き、その寓意について質問された。
頭はホッキョクグマ、胴体はクジラ、尾部はアザラシという、鵺のようなキマイラのような、それでいて穏やかな印象を与える絵だった。誰が描いたかは定かではなかったが、その絵はホッキョクグマやクジラやアザラシが日常に長く溶け込んでいたアラスカ地域の生命観/環を表象しているかのようだった。クジラもヒトもホッキョクグマもアザラシも、魂の本質は同じで、着物が違うだけなのだ、と。人と他の生きものの世界が交わる場所から始まる物語が不思議な絵から読み取れた。
未知のものに対してはいつも現在形で新たに解釈していくこと、そして常に過去の残遺に目をやりながらも変わっていくこと。言語を使わないやり方で、その絵は語りかけていた。
そして、是恒さんの創作物と一連のプロジェクトも、絶えざる変化と継承を両鰭としてゆっくり前進している点で、輪廻を身体に宿す海獣の絵が暗示するような、環形のメッセージを強く体感させられるものだと感じている。
自宅に居ながらの旅に、私の意識は揺蕩い、余韻は深夜遅くまで冷めやらなかった。たとい遠くからでも、もうしばらくこの旅の行く末を見届けたい。そんな想いが去来した。