プロレス&マーケティング第77戦 戸田市スポーツセンターという呪い
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:たかが地名がプロレスファンの胸を熱くさせるという事実。これはプロレスマーケティングにしかありえないある種メモリー刻印というマーケティングなのであろう。プロレスの可能性について、再び考える。トップ画はhttps://00m.in/zvuvQ
新幹線の楽しみ
あす、2AWだったかの主催のプロレス興行に誘われたので、取材も兼ねて今日は新幹線に乗って新潟に向かっています。
僕は、新潟プロレスの仕事で新潟に行くとき、必ずルーティンがあるんですよ。
それは進行方向の窓側に席を取り、大宮まで行くときにずっと外の景色を眺めることなんです。
何のためか?
それはある体育館の姿を確認して、悦に入ることなんです。
その体育館は東京駅と大宮駅に間にあり、新幹線に乗っていると必ず目撃できるのです。
「戸田市スポーツセンター」の威容がそれです。
メモリーは永遠のグッズだ
いました、ありました。
新幹線の車窓から、見えましたよ。
「戸田市スポーツセンター」という建物とその名前がくっきりと。
僕はしばしその光景を見て、うっとり恍惚感に、幸せな時間に、わずか数秒ですが打たれたのです。
なんじゃそれは?
いまをさかのぼる30年前、その体育館でとんでもないプロレスの試合が行われていたのです。
1992年12月20日、埼玉県戸田市スポーツセンターでその試合は行われたのです。
主催団体はW★ING、日本のプロレス史上最凶最悪といわれた団体です
カードは日本初の「スパイクネールデスマッチ(五寸釘デスマッチ) デスマッチ王・松永光弘vsレザー・フェイスの一戦です。
この一戦こそ日本プロレス史に燦然と輝く最高のデスマッチであると、僕は信じて疑わないのですが、僕はいまでも松永光弘が、五寸釘がしかれたボードの上に落下したあの衝撃の瞬間が目に焼き付いて離れないのです。
いや、まだトラウマとして、PTSDとして残っていると言って過言ではありません。
それは呪いであり、プロレスファンとして最も幸せな記憶でもありました。
32年前のあの出来事が、新幹線に乗って大宮方面まで行く道すがらに目に入る、「戸田市スポーツセンター」という建物の名前を目にすることによって、よみがえるのです。
僕にとっては、その光景は何にも代えがたい、「プロレスグッズ」にほかなりません。
悪夢になるくらいのメモリアルマッチを
いま、プロレス界に最も足りないのは、見たものに悪夢になるくらいの記憶を残すメモリアル・マッチではないでしょうか。
それは必ずしも、シュートマッチ(「相手を殺さない」という不文律が破られた試合)とは限りません。
「ここまでやるか!」という試合であり、本当のプロでないとできない試合のことです。
だから、この一戦が行われた「戸田市スポーツセンター」は、僕の永遠の思い出であり、この固有名詞を思うたびに、おぞましくも幸せな記憶がよみがえるのです。
僕にとっては新幹線に乗るたびにもらえる、究極のプロレスグッズが、この「戸田市スポーツセンター」のロゴをこの目で確認することなのです。
こんなことを言ったって、誰にもわからないでしょう。
プロレスファン以外には「はあっ?」てなもんでしょうけれども、固有名詞がグッズになるなど、プロレスでしかありえない現象ではないでしょうか。
メモリーになる試合を
新幹線に乗って「戸田市スポーツセンター」に思いをはせるにつけ、今のプロレス界は「会場の名前を忘れないくらい、強烈な試合が行われたことがあるんかい?」と文句を言いたくなるのです。
ウナギ・サヤカ主催の本人3回登場試合、男色ディーノがブチ切れた試合、鈴季すずが男のデスマッチファイターとやった大流血戦、などメモリアルな試合はあるにはあるけれど、伝説になった一戦、つまりファンの記憶にいつまでも刻まれる名勝負は、ほとんどないのです。
戸田市スポーツセンターで行われた、松永vsレザーの試合は、まさにプロレス史に残るレガシーといってもいいでしょう。
新幹線の車窓から、30年たってまだ立ち上る名勝負の残り香を嗅ぎながら、僕はふとプロレス界のあしたに思いをはせたのです。
野呂 一郎
清和大学教授
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あらら、新潟のホテルにいて、友人としこたま酒を飲んで前後不覚、したがってこのnotoもしっちゃかめっちゃか、でも切らせるわけにいきません、30分後にまた見にきて無事を確認してくださいませ。