否定しない教育で学生は伸びる。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:最近1年生に向け、書かせる授業をしている。少し前は「こう書け、ああ書け」指導していたが、一切やめて学生のそのまま、を肯定することにした。できの悪い学生などいないのだ。いるのは凡庸な感覚と価値観しか持てないダメな教師なのだ。
生徒を否定しない方針に転じた
僕は大学1年生の授業で「書くこと」をテーマに教えているんですが、一つ方針を決めました。
それは、絶対に学生を否定しない、ということです。
授業は僕のnoteの記事を要約し、意見を書いて、提出し、僕がコメントを書くというものです。
たくさん書いてくるもの、少ししか書いてこないもの、ネズミがのたくったような字で書いてくるもの、ユニークなアイディアを展開するもの、論理が破綻しているもの・・・いろいろです。
良い作品をほめるのはもちろんですが、ほめるところがなくても、「頑張ったね」とか、「字がキミらしくていいね」とか、絶対に否定しないで、なにかいいところを見つけて書き添えるようにしています。
昔は、論理がダメとか、調べるのが足りないとか、漢字が間違ってるとか、小言を並べたのですが、やめました。
そんなことは些末なことであり、それにこだわり、学生の大きな可能性を見逃している愚を犯していた自分に気がついたのです。
自分らしくて、いい
確かにいい文章とか、悪い文章はあるでしょう。
でも、それは「世の中を無難に生きていくための、凡人の通則」みたいなものに過ぎないんじゃないか、最近そういう思いが強いのです。
しかし、あらゆる芸術作品がそうであるように、そのひとらしい何かが感じられれば、素晴らしいチャレンジなのではないでしょうか。
文章が苦手で、書くこと自体が苦痛だという学生もいるはずですし、どんな内容であれ学校の授業自体が嫌いだという学生もいるはずです。
書く授業がいいのは、無理矢理でも書くという行為が、「主体的に取り組まざるを得ない」ことにあります。
何か読んでまとめなくてはいけない、感想を書かねばならない、いやいや書いていても、文章と、そして自分と対話せざるをえないし、一言書くと、不思議なことに自分というものが出てきます。
書くことなんてやらされるのは面倒、そんな顔をしていた学生が、書いているうちに頬が紅潮して、真面目に取り組む姿を何度も見るようになりました。
そんな学生には必ず「頑張ったね!」の声をかけることにしています。
肯定的に接すると学生は変わる
むりくりほめても、見透かされてしまいます。
でもこちらが気に入らない点をあげつらっても、学生はやる気をなくします。
でも、考えてみれば、教師の考えるよい作品なんて、やはりどこか常識に囚われているんです。
noteの記事の感想でも、「面白かった」とだけ書いてある作品に対し、「それだけか、もっと書けよ」は、ダメな指導なのです。
「面白かった」は、思いが溢れていて、それを表現できずにあえての「面白かった」であり、そこに思いを馳せ、彼の彼女のポテンシャルを汲み取れなければ、いい教師とは言えません。
教師が勝手に「いい文章、悪い文章」をきめてはなりません。
僕みたいな凡庸な教師に、書きぶりをコメントされる学生は不幸かもしれません。
ごめんね。
だから、最近は学生に教わる気持ちで授業をやっています。
まったくやる気のない学生をどうするか
いまのところ、当初やる気のなさそうに見えた学生も、熱心に書くようになり、まったくやる気のない学生は見当たりません。
しかし、仮にそういう学生がいても、「やる気あるのか」は禁句だと思います。
彼は彼女は、小中高と先生に肯定的な言葉をかけてもらえず、教師を敵視しているのです。
なにかいいものを持っているのに、誰もそれを引き出したりしてないのです。
そんな可哀想な子に、追い打ちをかけるように「こう書け、ああ書け」をやると、学生はますます自信をなくし、自我は矮小化するのではないでしょうか。
コメントを書いて渡すと、学生が読んでくれ、ニヤッと笑うことが最近増えました。
「できない子など、ひとりもいないのだ、悪い先生がいるだけなのだ」、最近、そう信じ、同時に自戒もしています。
野呂 一郎
清和大学教授