迷わず書けよ、書けばわかるさ。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:書くこと、こそ、最強のスキルだ。でも大学生はほとんどその訓練を受けてない。noteをやっているあなたは、自然に後輩の見本になっている。
話せても書けなければ無意味
きのう、推薦状書きの巻で紹介したコミニケーションの本は、ビジネスにおけるライティングの重要性について力説しています。
それと同時に「ライティングができないと出世できない」とも断じており、我が意を得たりと共感しています。
本はこんな問答を紹介しています。
質問:しゃべれれば、書くことは要らないんじゃ?
私は電話の対応のプロだ、どうだ、書くことなんて要らないだろ?
答え:書けないとビジネス行為は完成しない。
いや、電話を受けたあとには、メモを取るはずだ。そしてフォローの手紙やらメールも書かなくてはならない。
重要な電話ほど、自分以外の関係者にそれを書いてまとめて伝える必要がある。
それができなければ、キミは会社で無能の烙印を押されることになる。
ライティングが足りない大学生
1年生のゼミはコミニケーションがテーマで、何をやるかは教員に任されているのですが、「書くことの練習」に決めたんです。
僕のnote記事を題材に、まず要約してから、自分の意見をなるべく理路整然と記せ、という課題を毎回課すことにしたのです。
その前に、いかに社会に出て組織に入ったら、「書くこと」が重要かを説明しました。
こんなファイルを見せてみました。
理由はこうだと言うファイルです。
もう一つ理由を加えてあります。
noteする人は日々進歩している
noteする人(noterという言葉は嫌いなので)は、毎日ライティングの修練を自然にやっているわけですね。
noteを書いていても、自然にライティング能力がつくわけではない、と主張される方がいますが、僕はあえてそうじゃない、と言いたいのです。
量が質を生む、と言いたいのです。
書いているうちに、嫌でもうまくなります。
空手の「千本突き」という訓練があります。
指導者はひと突きごとに、直したりはしません。
1000本突いているうちに、拳の握り方、力の入れ方、抜き方、腰の切り方、下半身の使い方など、自然に体得できるのです。
猪木も言ってるですよね。
「迷わず書けよ、書けばわかるさ」、と。(笑)
noteを書くことの意味
ライティングの話が出たので、noteを書くことについて考えてみました。
noteを書くことは、ライティング上達などという些末な功徳をはるかに超えた社会的行為、だと愚考します。
つまり、noteを書くという行為は、自分を社会に投影せざるをえないシチュエーションに対峙することです。
社会的行為とは、そこで自己表現の塩梅を自ら探ること、ではないでしょうか。
プロレス的に言うと、「noteをやることは、自分という底なし沼をさらに行くこと」といえましょう。
底なし沼とは、自分の可能性にほかならず、行けば行くほど、自分の中に存在するあなたが知らない自分を見つけることになります。
noteを書くことの意味は、単なるコミニケーションの巧拙を超えたもので、noteをやっている方々の作品を見るたびに、そう感じる次第です。
野呂 一郎
清和大学教授