トルコ女子バレー優勝にみるイスラム教のダイナミズム
この記事を読んであなたが得られるかも知れない利益:スポーツがますます力を持って世の中に影響を与え始めた件。イスラム教とスポーツを考える。「アスリートの時代」という意味は。アントニオ猪木という悪。トップ画はhttps://qr1.jp/qeHxf4
スポーツは政治の写し絵だ
例えば、今回のバレーボール女子W杯で優勝したトルコチーム。
大会MVPにして、エースアタッカーのメリッサ・バルガス選手を見ると一目瞭然です。
トルコはイスラム教の国なのに、この選手は、いやチーム全員、イスラム教特有の髪の毛と身体を覆い隠すものを身に着けていません。
タンクトップにショートパンツという、普通のバレー選手のいでたちです。
バルガス選手にいたっては、スポーツタトゥーをこれ見よがしに見せつけ、髪はエレクトリック・ブルー(青と紫の中間の明るい色)に染め上げ、ブロンドにブリーチ、耳の上の方は青いイナヅマの紋様も見えますね。
いいのかよ(笑)
えーっ、トルコは一応1923年に非宗教国として生まれたけれども、国民の圧倒的多数はイスラム教徒で、現在のエルドアン大統領も、イスラムよりの政治をしてたはずでしょ。
「なんで、国を代表する選手が、イスラム教の教えと正反対な価値観を全身で表してるのよ?」、というブーイングが国内外から聞こえています。
トルコの女性はイスラム教の影響で、社会的平等をまだ勝ち得ていません、しかし、スポーツは治外法権なのでしょうか。
もう一人のエース、エブラー・カラカルト(Ebrar Karakurt)選手に至っては、X(前ツイッター)にセクシーなポーズとヘイトと見紛うような書き込みをしちゃってます。
イスラム系の新聞は「国家の恥だ(a national shame)!」と、彼女を糾弾しています。
スポーツに熱狂する国民
首都イスタンブールの公園に出現した、巨大モニターには、トルコvsイタリアの決戦が中継されています。
最終セット、イタリアの攻撃がブロックされ、ボールが相手コートに転がった瞬間、時ならぬ屋外会場には、「トルコ!トルコ!」の大合唱が響きました。
彼女たちの活躍は、トルコ国民のプライドそのものなのです。
バルガスは、「私は国民の模範たろうとしてるのよ」と悪びれてませんし、カラカルトにしても、トルコのバレーボール協会のスポークスマンは「カラカルのファイティング・スピリットはトルコそのものだ」と、全面擁護です。
政治と宗教とスポーツの新しい関係
エルドアン氏といえば、全ヨーロッパがロシアに制裁を加えているのをよそに、プーチンに秋波を送りエネルギー供給で抜けがけし、世界中の非難を浴びたことが記憶に新しいですね。
女子バレーも同じじゃないでしょうか。
悪く言えばエルドアンはオポチュニスト(風見鶏)、よく言えば柔軟なのです。
実質的なイスラム国家を率いているのに、このようにスポーツは別のロジックを使って、イスラムルールの例外としてしまっています。
オポチュニストとは、現実主義ともいえるでしょう。
トルコは2月の大地震で5万人以上がなくなり、最近は異常なインフレ、そして国内の政治勢力の分裂という三重苦に見舞われています。
エルドアンは、イスラムの教義を曲げてでも、現実路線をとろうとしているようにも見えます。
しかし、言い方を変えれば、現代におけるスポーツの力を我々は再確認させられたのです。
スポーツがいかに国民を熱狂させ、政府に都合の悪いことも忘れさせる力を持っているか、政治家も国民もそしてスポーツ選手も気がついたのです。
SNSで何を言おうが、どんな写真をアップしようが、国家の価値観に背こうが、勝てばそんなことはどうでもいい、選手の一部にもこんな空気がでてきているのです。
これはトルコに限った話ではないのです。
悪の経営学登場
かつて、新日本プロレスからUWFに転じた、「格闘王」前田日明が「アントニオ猪木なら何をしてもいいのか」という名セリフをはいたことがありました。
コンプライアンス全盛の世の中ではありますが、勝利やすぐれたパフォーマンスをしている限り、アスリートは許されることも、一面の事実です。
この事実は、ある意味でアスリートの社会的な力、とも言えます。
力は力であり、それを良い方にも、悪い方にも使えます。
アスリートの時代、なのです。
アスリートは5割増し、いや10割増しの価値があります。
もっとそれをアスリートの皆さんは利用したらいいんですよ。
願わくば、いい方に。
野呂 一郎
清和大学教授