プロレス&マーケティング第98戦「武智倫太郎最強プロレスラー論」8つの根拠。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:note最大の知性、武智倫太郎を裸にする。彼の正体は「理想のプロレスラー」、だ。
プロレスラーの定義
マーケティングで最も大事なのは、プロダクト(製品もしくはサービス)の定義です。
プロレスというビジネスのプロダクトは言うまでもなく、プロレスラーであり、この定義いかんによって、プロレスビジネスは上がりも、下がりもしますし、プロレスはおもしろくも、つまらなくもなるのです。
さて、今日はプロレスマーケティングの要である、プロレスラーの定義を勝手に試み、それを我らが武智倫太郎先生に当てはめてみたいとおもいます。
プロレスラーとは生きる姿勢のことですから、武智倫太郎先生が最強プロレスラーだとしても何の矛盾もありません。
note界で右に出るものがない博覧強記ぶりと、その図抜けた執筆力は誰もが認めるところです。
しかし、彼がプロレスラー、それも最強のプロレスラーだとの主張はどうでしょうか。
いや、これはこれで正しいのです。
僕の理屈を聞いてやってください。
理由1:対戦相手、他者を活かすことができる
プロレスラーとは何か。
その最も中心的な定義は「他者を活かす」ことです。
「何言ってんだ、相手と戦って勝つことだろ」「最強を証明することだろ」「お客を楽しませることだろ」「プロレス八百長論を撃滅することだろ」そうプロレスファンのあなたは反論しますよね。
もちろん、勝負論、観客論、プロレス市民権論の観点からは、いずれも正しいと思います。
しかし、長年教育に携わるようになって、プロレスの見方が変わってきました。
「プロレスとは教育事業」で、「プロレスラーは教師」に見えてきたのです。
そうじゃないと、事業が継続できないからです。
合気道と似ているとまではいいませんけれど、相手レスラーを活かすことで、自分も活き、会社も活き、社会も活かされる、いま、このプロレス観が僕の中では支配的なのです。
武智倫太郎は、まさに人を活かす名人です。
試しに、彼の記事にあなたの意見を出してみてください。
こんな視点があったのかと思わされる、意外な方向からあなたは、ほめてもらえますよ。
意地悪な、理不尽と思われる指摘にも、動じず、反論に反論で返さず、相手の視点まで降りてきます。
いい例が今回の「野呂と武智のリングネーム募集」の件で、関係者を激賞していることです。
これは、発案者の武智ファンのGreen Leafさんが提案し、リングネームを考えてくれた二人の方に対しての、武智先生のフィードバックです。
実に丁寧に、一人ひとりに、その思いや尽力、創造性に対しての分析とエールを送っているのです。
それは単に感謝するとか、ほめる、じゃないんです。
相手もわからない自分の魅力を、武智さんが掘り出してしまっているんです。
アントニオ猪木はよくこんなセリフを言っていました。
「相手の力が5なら、8に引き上げ、自分は10の力で勝つ」。
同じように、武智先生は、その知識と教養、相手に対しての敬意と感謝で、相手を別次元に誘導し、気づかせ、ポテンシャルまで引き上げるのです。
理由2 業界全体、世の中全体をまず考える
僕も含め普通のnote書きは、なんとか記事で自分の意見を通そうとか、理解してもらおうと必死です。
しかし、武智先生はあくまで、社会に対しよい情報を提供することが先に来ます。
毎日あれほど詳細かつ精緻な分析記事を投稿されることで、それは自ずと明らかでしょう。
驚くほど書くことも生産性が高いことは明らかですが、それにしても他の仕事も超多忙なのに、noteは一度も休みません。
ある種のノブリスオブリージュ(高貴なものが果たすべき義務」を強く自覚しているのです。
アントニオ猪木が、かつてそうでした。
常に自分の言動、行動はそれが以下に突拍子もないものに見えても、プロレス界全体の利益を考え、世の中ファーストという姿勢を崩しませんでした。
後年政治家になったことが、このことを証明している、とも言えるでしょう。
理由3:他の格闘技を取り入れるのに躊躇しない
今のプロレスの忘れ物は、「プロレスとはあらゆる格闘技のよいところを取り入れた体系である」ということです。
レスリング、柔道、サンボ、空手、相撲、果ては体操まで、あらゆる格闘技術が入っていたのが、プロレスリングのはずでした。
しかし、今のプロレスラーは、「プロレスはプロレス」などと変な割り切り方をして、他の格闘技から学ばず、技術のアップデートもせず「プロレス内プロレス」しか興味がないようです。
いまさら「格闘技vsプロレス論争かよ」と気色ばむ方もいらっしゃるでしょうが、プロレスの原点を忘れているから、今のプロレスに観客が集まらないのです。
そこへいくと、武智先生は御本人は意識してなくても、あらゆる格闘技いやあらゆるジャンルの学問にチャレンジし、最強のプロレスラーという理想に向かって今日もチャレンジしているのです。
理由4:適切な「間」がとれる
いいレスラーの条件は、「間」をとれることです。
間とは、言葉や行動やワザを、ベストのタイミングで出すスキルのことです。
例えば、猪木vs小林戦のアナウンスは3ヶ月前でした。
6ヶ月じゃあ、間延びしすぎで、ファンが興味を失います。
3ヶ月で小林の国際プロレス離脱宣言から、喫茶店での記者会見、猪木との調印式、その間に毎日東スポに一面で報道させる。
すべて「間」が勝負です。
ビートたけしが「間のとりかた」に関しての本を出していますが、プロレスも芸能も観客相手の真剣勝負ですから、彼の関心は不思議ではありません。
間とは、文字通り、相手との距離感でもあります。
猪木は、ゴングが鳴った直後の間のとりかた一つで、名勝負を演出しました。
1974年10月10日、東京蔵前国技館で行われた大木金太郎との一戦では、ゴングが鳴った直後に大木の顔面に強烈なナックル・パートを食らわせ、試合の主導権を握りました。
マスコミとの距離感、ファンとの距離感、世間との距離感、こういう感覚が長けていることが、アントニオ猪木を傑出したスーパースターにしたのです。
武智先生も、間のとり方は抜群です。
例えば、この僕の記事にも、反応をくださるでしょうが、タイミングは織り込み済みです。
ときには、ファンたちをじらしたりもします。
理由5:舞台裏を見せない
いいレスラーはいわゆる「暴露話」はしません。
引退したレスラーから「実はあのときはね・・」なんて話を聞くと興ざめです。
アントニオ猪木は、一度たりともこの手の話をしたことがありません。
ドレッシングルームでの小競り合いとか、マスコミとの確執などあったはずですが、一切猪木の口にはのぼりませんでした。
武智先生も、はっきり物を言うタイプで、あえて断定も辞さないので、たまに裏で色々やり合いがあると想像します。
しかし、一切その手の話は出しません。
ファンを思ってのことであり、自らの美意識でもあります。
理由6:返歌が巧みである
返歌とは、例えばビル・ロビンソン対カール・ゴッチの試合で、ロビンソンが人間風車を放てば、ゴッチがジャーマンで返す、といった攻防のことです。
返しは高度のテクニックはもちろん、レスラー同士のプライドが交錯する瞬間でもあるし、ファンに対してのサービスでもあります。
もちろん、パワーボムで来たところをスモールパッケージホールドで返すなども、返しのバリエーションの一つです。
武智先生に僕は、見事に返されたことがあります。
それは、僕がスピリチャルな話をして「本屋に行くと、本の方からあなたを見つけるよ」と言った、稚拙な体験談だったのです。
武智先生は、僕の幼稚な考察に対し、「セレンディピティ(素敵な偶然)」という最新心理学用語で返してきたのです。
普通ならば、僕の無知に嫌味の一つくらい言ってもいいのに、素敵な言葉で返し、僕の考察をさらに持ち上げてくれたのです。
これは「人を活かす」という、一流プロレスラーの所作にもほかなりません。
理由7:多面体である
これは理由3の他の格闘技を取り入れると、少し重なりますが、彼は多国籍企業の経営者であり、学者であり、様々な学術組織にも関わっています。
武道家であり、そして何よりもプロレスを愛しその知識は私の浅学などはるかに凌駕します。
博覧強記などというレベルを遥かに超えているのですが、僕はここにプロレスラーの理想を見るのです。
強くなるためには、あらゆるものを取り入れるという。
それは格闘技だけにとどまってはダメなのです。
理想のプロレスラーとは、身体能力、格闘能力だけでとどまっている存在ではありません。
あらゆるものを取り入れる飽くなき理想に向かって突き進む「向上心」、これこそが理想のプロレスラーの正体なのです。
理由8 もう一つのリングネームを持つ
リングネームとはアイデンティティ(自分とは何かの答え)にほかなりません。
アントニオ猪木は、最初の修行地米カンザスでは、「トーキョートム」というリングネームでファイトしていました。
当時の日系レスラーがみなそうだったように、田吾作スタイルで、「悪い日本人」を演じていたのです。
要するにその頃の猪木は、「悪役」というアイデンティティをまとっていました。
しかし、帰国してからはもちろん、ベビーフェイスに転じました。
2つのアイデンティティを持つプロレスラーは少なくなく、「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シンは主戦場のカナダではベビーフェイスとして戦っていたことはよく知られています。
武智倫太郎も、本名のアイデンティティと、芸名いや失礼リングネームの武智倫太郎ではファイトスタイルも表現の仕方も、まったく違うというおそれがあります。
ある意味武智倫太郎は覆面レスラーである、とも言え、2つの自我を自由自在に行ったり来たりしているのです。
もちろん、彼に「あんたは2つの顔を持ってるね?」と尋ねたってどうせ「2つの顔?それどころか千の顔を持ってるよ。ミル・マスカラスより遥か前にね」などと、軽くいなされてしまうのがオチですが。
プロレスラーがリングネームやニックネームで、まったく違ったファイトを見せるのは、ある種「悪魔的」な悪戯なのです。
「本当の自分は誰でしょう?」、と戸惑うあなたを笑っているのです。
さて、もう皆さんは「武智倫太郎アズ最強プロレスラー」に疑問はありませんよね。
野呂一郎
清和大学教授