![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/79650528/rectangle_large_type_2_50734040c8e34a56e8f5cbfb0e3eb9a8.png?width=1200)
幸せは不幸の顔をしてやってくる。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:幸福とは何か。セレンディピティの多様な解釈。守護霊はあなたを本当に守ってくれるのか。
セレンディピティを疑え
先日セレンディピティの話をしたら、親友のH氏がこんなコメントをくれました。
セレンディピティについて、読みました。全部欠かさず読んでますが。
自分の解釈だと
自分の周りには自分の意思と関係なく、様々な事、幸福をもたらす事もたらさない事、が毎日沢山起きる。
幸福をもたらす事が多い時もあれば、その逆もある。
一方、人には幸福のキッカケを感じる感度があって、それも状況によって高かったり低かったりする。
偶然、幸福度が高いキッカケや沢山のキッカケがある時に、感度が高いと閃いてしまうのかも。
「幸せ」というものについて、鋭く本質をついており、セレンディピティなる流行語に浮かれる私に、流されるなよとdevil's advocate、つまり誰も言わない正論をくれたようにも思うのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1653922830172-c9vIFNGifw.png)
さて、セレンディピティを含めて、世にある”幸福論”はつぎの5つに大別されると考えます。一部へんてこな名前を冠していますが、説明に付き合っていただければ幸いです。
スピリチャル幸福論?の類型
幸福論その1:つのだじろう守護霊論:70年代少年マガジン連載で一世を風靡した「うしろの百太郎」で、主人公についている「守護霊」百太郎が言った言葉による。「人は誰でも守護霊がついており、その人の危機を守ってくれる」というもの。
![](https://assets.st-note.com/img/1653922924482-lzlqoLe9QR.png)
しかし、不幸な亡くなり方をする人が後をたたないのは、どう説明するのだ。あらゆる人に守護霊がついてて守ってくれるんじゃないのかよ、という批判は当初からありました。
幸福論その2:遠藤周作シンクロニシティ論:
著書「万華鏡」には数々のご自身の”不思議な偶然の一致”が満載です。
![](https://assets.st-note.com/img/1653923147292-WMm7EtMKfQ.png)
この本を読むと、シンクロニシティこそがその人にとっての思いもよらなかった幸せを運んでくれる装置なのだ、と思わされます。
遠藤周作の作家のロマンで、シンクロニシティを美学にアウフヘーベンしたのさ、としたり顔でいうひとがいます。
でも「万華鏡」を読むとここに書いてある事実は、不幸なものを神は見捨てない、そのように読めるような気もします。
幸福論その3:ラーメン屋落書き幸福論:
僕が新潟に住んでいた時に、いきつけのラーメン屋に、楷書で書かれたこんな言葉が額に入って飾ってありました。
「すべてのことはあなたにとって一番良いタイミングで起こる。それは一秒もくるいがなくあなたに訪れる」。
その頃不遇をかこっていたのですが、このラーメン屋の額を読むたびに、心にしみるものがありました。
一種の絶対幸福論で、つのだじろう説と一脈通じるものがあります。
幸福論その4:「禍福は糾える縄の如し」論:
禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し、と読みます。司馬遷の史記の一節で、幸福(吉)と不幸(凶)はより合わせた縄のように交互にやって来ることをいいます。これを幸福は不幸に、不幸は幸福に転じると解釈する人もいますし、幸福ばかり、不幸ばかりは続かないとするひともいます。
人間の生命の真理を物語っているものと言えましょう。
幸福論その5:H氏論。
最新の幸福論で、学者的な感性でとらえたと思いきや、それを超えた本質を喝破している幸福論でもあります。幸福は主観である、論といってもいいでしょう。
内面の豊かさと幸せは比例するのか
要するに、幸福ってなんなんだよ、という問い掛けです。
幸福って絶対的なものなんかないんだ、というちょっと迫ってくる感じの論です。
セレンディピティとやらで、シンクロニシティとかで、一見ドラマチックな自然の演出で、幸福がやってきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1653923470553-J0Wa3Sythc.png)
元彼のことをふと思ったその瞬間、電車で前に座っていた男がふと目をあげた。彼だった。「よりを戻せ」守護霊の声が聞こえた・・・
しかし、H氏はこれを否定します。
そもそも、一見幸せそうに見えても、そんなの死ぬまでわかんないよ、というみもふたもない真実を突きつけてきます。
そもそも、幸福だとか、不幸だとかは本人の捉えようだと言うのです。
それは本人の知識や体験の質と量とか、考えの多様性といったその人の内面の豊かさでどうとでも変わる、ということなのです。
僕は最近、H氏の幸福論に惹かれ始めています。
今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
では、また明日お目にかかるのを楽しみにしています。
野呂 一郎
清和大学教授/新潟プロレスアドバイザー