教育に身体性を入れたいなあ。
身体性、ってなんだ
今日でnote280日連続くらいかなあ。
俺もよくやるよな。
いや、連続執筆自慢とかじゃないんだ。
別にそのくらい毎日note書くなんて珍しくもないけれど、別にスキがほしいわけでも、ビュー数を狙ってるわけでもないんだ。
そもそも、いい記事に必ずスキがつくわけでもないし、長い記事が読まれるわけでもない。
むしろ反対で、なんでこんな記事がイイの、とか、こんな気合の入ってないやっつけの記事が読まれたりするのか、って思うことがある。
僕も、これ一所懸命書いたって記事に限って、読まれない・・
軽い気持ちでエッセイみたいに雑談的な思いつきを書くと、
案外、「えーっ、なんでこんな記事たくさん読まれるんだよ?」となることがしょっちゅうだ。
連続100回でも、1000回でもそんなの、自己満足に過ぎない。
280回連続でやったよ、なんて自慢するつもりはもちろんない。
じゃあ、なんで書いているのか、というと「身体性」を取り入れたいからなんだ。
身体性って何よ?
それは、noteをこうして書く動作のことだ。
こうやって、毎日、手を動かして、文章を入力する作業のことだ。
これはやっぱり、運動と同じで、毎日やったほうがなにか果実が多くなる。
毎日やらないと身体性が発動されない、それが怖くて毎日やってるだけだ。
教えることがつまらないよ
この身体性の功徳は、思いもよらないことを書いてしまうことに尽きる。
予定しないアウトプットになる。
これが身体性の面白さだ。
そのためにやってる。
僕は、大学で経営学を教えているんだけれど、つまらないんだ。
なぜなら、教えるって、ある種のカタチを踏まなきゃならないでしょ。
文科省とか、大学とか、学問そのものの自己規制とか、自分の小心とか、で
カタチを作ってしまう。
でも、本当の理由は自分に自由がないからなんだと思う。
でも、そもそも、予定したことを教えるのが教育だものね。
自由にやれないようにできているのかもしれない。
ともあれ、パワーポイントとか、黒板とか使って、一生懸命自分の乏しい知識を、消えていく運命の古い知を、学生さんの前で恥ずかしげもなく披露していることには変わりはない。
いやだなあ、もういいよ。
カタチじゃなくて、自由にやらないと、つまらないよ、教師も
学生も。
さて、
知識なんて、もうこう話をしている間に過去のものになってしまう。
そんなことを偉そうに話すなんて恥ずかしい。
そして、大学の授業には、身体性がない。
チョークやポインターを使って動作はするさ。でも、それはカタチを
なぞっているだけ。
noteのほうがすっと面白いや。
なぜならカタチがないから。
その中で指や手を動かすと、面白いものができるから。
今度授業やるんなら、お客さんも動かしたいな。
お客さんも身体性を使ってこそ、意味のなる教育になると思うんだ。
明日、実験するよ
明日はね、ちょっとその実験をやるよ。
テーマは、昨日のThe Wall Street Journalの「なぜ、アメリカ人は史上最高の好況なのに、ハッピーじゃないのか」という記事を駆使して、ちょっと実験的に、僕の身体性を使って、皆さんの身体性を動かして、一つの教育実験をしてみるつもりだ・・・て大げさな。
今日は言ったように、カタチにこだわらないことにしたよ。
だからいつものフォーマットからはみ出してみた。
スキ、はいらないから。(笑)
野呂 一郎