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杳子という小説 『杳子・妻隠』から

先に結論。
杳子は小説である。
これが私のこの作品の読み方である。

直後の感想

まず、この作品を読んで最初に感じたことからメモしておく。

それは雰囲気に関することで、私にはどうにもこの小説の文章が、こちらに伝わって来ず、作品の内側だけで完結しているように思えた。特に第一章。
原因を考えてみるに、感覚表現が共感できないところにある。

山を降り谷底を歩く彼と、彼が出会った杳子が、谷底の景色に感じるその感覚は、ずっと私に共感のできないまま進む。

疲れた軀を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕れかかる。

P9

それから、まわりの岩という岩がいまにも本性を顕して河原いっぱいに雪崩れてきそうな、そんな空恐ろしい予感に襲われて、彼は立ち止まった。

P14

岩に腰をおろして、灰色のひろがりの中に軀を沈めたとたんに、杳子はまわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて、思わずうずくまってしまった

P16

あるいはナイフとフォークを持つ自分の手を眺めて自分の手が重くなるのを感じたり、素肌の冷たさをたもったまま体を重ねたり。

これらは現実に即していない。体験の描写では決してない。いうならば、表現のための表現である。だから自己完結。風景を見て描いた絵ではなく、風景画ばかりを見てそれらの文化体系を模倣して描いた絵。現実は描かず表現を描く。故に、共感として伝わってくるものがない。

これが最初の感想である。

しかし、こうとだけ言ってしまうと、この作品がただリアリティに欠け、自己満足の表現に堕している作品のように思えるが、決してそうではない。
以上の感想はあくまで表面的な、表現技法についてのものであるが、次に内容について考え出すと、考えれば考えるほどこちらは悩んでしまう。

大枠としてはボーイミーツガールの恋愛小説である。

あらすじ

彼(この作品の中心人物。名前は明らかにされず、常に彼とだけ書かれる)は遭難する気がしたので山を降りる。谷底で杳子に会う。行先を見失っていたらしく、彼は彼女を連れて山を降りる。
後日、駅で偶然彼を見た杳子は突撃する。そのまま二人は喫茶店へ。連絡先は交換せずに毎回時間だけを決めこの喫茶店で会うようになる。
ある日、杳子は店に入れずうろうろしている。いつもの席に人が座っていたから入れなかったらしい。「別の席に座ればよかったじゃないか」と彼は言うが、杳子にそれはできない。彼女は自分を病気だという。いつもの席じゃないと出会えない気がした、別の席はどれを選んでいいか分からなかったと言う。

彼は彼女の性質について理解しようとしつつ、同時に訓練として毎日違う公園で出会うことにしたり、彼女との付かず離れずの関係を維持し続ける。やがて肉体関係もむすぶ。
ある日、杳子は自分の姉が昔病気だったと蔑むような口調で語る。彼女の話す姉の病気はまるで今の杳子そのものである。

杳子が部屋に引き篭もって会わなくなり、電話での付き合いになる。いつも受話器を取るのは彼女の姉である。杳子を呼んでもらうが杳子はいつも出るのに時間がかかる。ある日、杳子の家に行くことに決まった。彼女の家は初めてである。
家に着き、出迎えたのはやはり姉だった。彼女は彼を杳子に合わせるより先に彼を応接間へ通し、杳子に入院するように言って欲しいと彼に頼む。彼は杳子の部屋へ行き彼女と、姉の話、病気の話、病院の話をする。

あらすじは以上である。

最後、杳子は「明日、病院に行きます。入院しなくても済みそう。そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なことよ。でも、薬を呑まされるのは、口惜しいわ……」
と言う。
物語最後の呟きは
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」


杳子とは

はっきり言って、この作品は読みにくい。
文体がそうであり、展開もそうである。「意味」が分からない部分がたびたびある。

たとえば杳子はあらすじにも書いた通り、彼女の順序でその通りにしないと不安で動けなくなる性質をもつように見えるが、その他にも、谷底で怖くなったのは高所恐怖症だからと言う。そこでこんな会話がある。

「いいですか、高いところに立つとすくむのが、高所恐怖症ですよ」
「ええ、でも、平たいところにいる時に感じるんです。ときどきなんですけど、どうして立っていられるのかわからなくなって……」

P36

「ほんとうに、そう感じるんですか」
と聞くと、
「ええ、わたし、嘘を言ってるようですわ」と答え「わたし、自分の病気のことをひとに喋ると、いつでも嘘をついてしまうんです」と言い添える。

この時点で全ての信用が剥がれる。彼女の病気に関する記述は、高所恐怖症にせよ、方向音痴にせよ、真実ではない。彼女は自分の性質を自分で分析して言葉で説明することができないのである。

また杳子の病気に対する分析は、彼もまた行う。

「重症の方向音痴だよ、君は」
「そうね、方向音痴ね」
「というより、選択音痴だな」
「そう、選択……音痴」

P51 セリフのみ抜粋

たちすくむ、道を失う、この他にもまた、彼女は人前でものを食べることが苦手という特性をもつ。
弁当は隠して食べ、次にステーキを食べる場面でも「あたし、だめ、できない。こんなむづかしいこと」と弱音を吐き、「食べなさい」と彼に言われ無理やり食べるが、結局「もう。カンベンして……」と哀願し終わる。

疑問なのは彼女の病気に一貫性がないことである。じゃあ、その病気とは何かと問われると一口に言いずらい。


登場人物

この作品に登場するのは三人きり。
杳子、彼、杳子の姉。

この三人は面白い関係性を持つ。

彼は杳子と同じ性質を持つ人間である。
第一章「高所恐怖症」ゆえだと説明する杳子が谷底で感じていた奇妙な感覚は、彼視点の描写でも同じように描かれている。このとき彼は杳子と同じように感じていたのである。
杳子は物語の中でついには引きこもってしまうが、実は彼自身も同じことをしている。

あの頃の彼自身も、かならず尋常な状態にあったとは言えない。夏休みからもう学校にも出ないで、ほとんど家にひきこもりだった。ひどい時には、十日もつづけて食事時以外は自分の《子供部屋》に閉じこもって、退屈を知らなかった。言ってみれば、これも自己没頭という病である。しかしこの健康な病いも昂じてくると、外のことにたいする甚だしい冷淡さをもたらした。

P32

杳子と彼は現在、同じである。

そして杳子と姉もまた同じである。
あらすじで書いた通り、姉は過去、精神的な病の中にいたが、その姿は今の杳子と実に似ている。

「あの人、家から駅まで歩いて十分ほどの道を、三十分かけても駅に行きつけなくて、梟みたいな目をして家にもどってくるのよ。いい、角をたった三度曲がるだけの単純な道よ。道順を言わせると、ちゃんと言えるのよ。

P108

「道順を言わせると」作中、何度も道順を正確すぎるほど事細かに口では説明できたのは杳子であった。姉はまさにその姿に重なる。

「ひと月もすると、あの人、とうとう自分の部屋の中にこもりきりになってしまったの。いま、あたしが陣取っている部屋よ。(中略)家族が、父と母とあたしが、一緒になってあの人の生きる邪魔をしてるっていうのよ。寝てるうちに、枕もとにきちんと脱ぎそろえておいた着物の、重ね方をちょっと変えたとか。知らないまに、スカートのウエストをすこし細くして、あの人の腰の感じを太くしようとしたとか。

P111

「お風呂のほうは、どうしてもはいろうとしなかったわ。それだもんで、五日もすると夏のことだから部屋の中に臭いがこもりはじめて、

P112

物語も終盤になってひきこもる杳子は、やはり姉に風呂に入ってないことを責められる。

杳子と彼が現在同じなのに対して、杳子と姉は時間をずらして同じである。

ここに、



杳子—彼

という関係ができている。

つぎにこの関係がどのように結ばれるのか、物語の中でどのように出来上がってくるのかをみていきたい。

彼=読者

最初に結論として書いた通り、私は杳子を小説と捉えた。
杳子なる人物が小説という不可思議なもののメタファーとしてあるというだけの話ではない。つまり『杳子』なる作品の主題的人物杳子は作品内存在であり、かつ作品そのものであるのだ。

ここで「彼」は読者である。

この小説は第一章が他のどの部分よりも印象的だ。

まず、彼が杳子を見つける彼視点で始まり、この節が終わると一行空白があり、今度は同じシーンを杳子の語る回想として杳子目線で語られ直す。この節のあとも一行空け最後は一緒に山を出るため橋を渡るシーンがある。彼視点・杳子視点とは言ったが、それぞれの節の中でも視点は目まぐるしく入れ替わる。

最初、彼視点での節であるが、冒頭は、

杳子は深い谷底に一人で座っていた。

P8

である。彼はまだ登場していない。ただ杳子のみがぽつんといる。
作品は、杳子が産まれると同時に存在している。作品が産まれると同時に杳子が存在している。
しかしそれだけでは不十分である。作品だけで存在する作品などない。
読者が必要である。描写はすぐに彼の説明に移り、彼が杳子を見出すのだ。杳子は彼=読者をはじめにつくり、そのとき初めて小説は本当に存在する。

この第一章はころころ彼視点と杳子視点が入れ替わるようにみえるといった。それは彼らが自己と外世界の境界を見失っていることを意味する。彼女の病気がそうであると同様に、彼もまた同じ渦中にあることを意味する。

そして、これが杳子の本当の性質だ。

杳子と相対した者は、杳子的性質になる。
この谷底で、彼は杳子がそうであるように生命と非生命の違いが見えなくなる。この性質は物語終局でも示される。
姉が杳子を前にすると杳子になることに不思議を覚えているのだ。

「私たち、姉妹どうしのことになると、とたんに二人とも二十歳頃の精神年齢に戻ってしまうんですよ。(中略)ふだんは子供の世話で娘時代の気分どころじゃないのに、廊下なんかで妹とふいに顔を合わせると、すうっと二十歳の頃の気分に戻ってしまうことがあって……。ええ、私が二十歳ならあの子は十一のはずで、また喧嘩にもなりようのないはずなんですが、それが二人とも同じ年頃の娘みたいに、双子みたいになって睨み合うんですよ」

P146

姉は「二人とも」というが杳子は現に大学生で「二十歳頃」そのものである。以前に杳子は姉の病気の時期を「ちょうど今のあたしと同じ年の時」と言っている。
やはり姉の方が杳子に寄って変化しているのだ。

なぜ、杳子にこのような力があるのか。

杳子は、世界中の人間を杳子風にしてしまうのか。誰しも杳子に会えば杳子になってしまうのか。
そうではない。

杳子はただ鏡に過ぎない。

「あたしを観察してるのね、あなた。勝手になさい。だけど、あなたがあたしを観察すると、あたしも自然にあなたを観察することになるのよ。どちらかだけということはないのだから……

P132-133

そして小説とはそういうものである。

人間は実際、共感などできない。

目の前の人が足をぶつけたとき、その痛みを共有することはできないが、我々は過去自分の足をぶつけたことがあり、その痛みが目の前の人のそれと同等であると決めつけ、他人の痛みを想像するのである。これが共感といわれるものである。共感とは相手の感覚をこちらも感じているわけではなく、似た境遇を自分の中に探し出し思い起こさせるものである。だから目の前の人が、宇宙人に光線銃により腕に五次元の穴を開けられていても、その感覚は想像できず共感する言葉を持たない。

小説を読んだときに感動したり、面白がったりするのも同じで、小説自体の面白さに心を動かしているわけではなく、自分の経験の中にそれに相当するものを探り出しそのときの感情を復元しているのである。一つの恋愛小説に共感し感動する人と、理解できずつまらないと判定する人がいるのはそのせいだ。

杳子はそういう存在である。

杳子の鏡的性質は第一章から描かれる。

その時、彼はふと、鈍くひろがる女の視野の中を影のように移っていく自分自身の姿を思い浮かべた。というよりも、その姿をまざまざと見たような気がした。

P13

まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女に向かってまっすぐに歩き出した。

P14

まるで鏡を見つけたように、杳子を見つける。

そして第一節と第二節が、彼視点(=読者視点)と杳子視点と二度繰り返されるのもまた鏡の性質を表現する。

杳子は鏡、彼女が小説であると捉えると、つまり、このシーンで彼は杳子と出会うことで杳子と同一化しているのではなく、杳子を見て、自分の中の何かを鏡に映して見ているのである。

彼が杳子に見るのは、全て彼の内側にある何かである。
先に引用したものも含め以下も部分は、その前提を作り上げている。

あの頃の彼自身も、かならず尋常な状態にあったとは言えない。夏休みからもう学校にも出ないで、ほとんど家にひきこもりだった。ひどい時には、十日もつづけて食事時以外は自分の《子供部屋》に閉じこもって、退屈を知らなかった。言ってみれば、これも自己没頭という病である。しかしこの健康な病いも昂じてくると、外のことにたいする甚だしい冷淡さをもたらした。

P32

「ノイローゼなら僕の方が上手です」

P148

杳子と出会い、彼女の性質をもらったわけではなく、杳子に出会うより前から彼にはその素質があったのである。

杳子の姉もまた同じ構造の中にいる。

姉の説明する杳子が、病的であるのは彼女がそうであるからだ。

その症状を説明する杳子をみて、彼は思う。

 同じようなことを病んでいるはずの杳子の、いったいどこに、そんなひややかな現実感覚がひそんでいるのだろう。そんな目をもっているとしたら、なぜ自分の病いを同じように見つめないのだろう。

P109

鏡は鏡を見ることができない。
作品内杳子は過去の姉をも写しているのである。

この小説の主要な登場人物が三人きり。杳子の他には、同じ性質を持つ「彼」と「杳子の姉」の二人しか登場しない、というのは、この作品をどうにか作品として成立させるのに必要な条件なのである。

「学校にはちゃんと行ってるわ」
「慣れた道だからね。それは別として、その道から逸れる時はどうなの。たとえば、学校の帰りに、ちょっとデパートに寄ってみようなんて思うことはあるだろう」
「最近は、あなたに逢いにくるほかは何処にも出かけないようにしているから、わかりません」
「かりに学校の友達と喫茶店で待合せるとしたら」
「たぶん、大丈夫だと思います」
「それなら、なぜ……」
「なぜって……、あなたが待っていると思うと、はじめてあなたに出会った時みたいに、まわりの感じがよそよそしくなって、あんな遠いところで落ち合うなんてとてもうまくいきそうにないって思えて、家を出る時からもうおかしくなるの」
(略)
杳子の言うとおりだとすれば、彼女をいま病気につなぎとめているのは、ほかならぬ自分自身じゃないか、と彼は思った。

P61

ある種、その通りであろう。

P92の「杳子の病気の深みと完全にひとすじにつながりあったように思う瞬間がある」
P98の「彼は杳子の病気とまた一本の線でつながってゆくような気がした」

など。いくらもあげる必要はなかろう。彼も薄々は気づいているのだ。
杳子は何者でもない。彼女は、いくつかの解釈が可能な素材でしかない。その素材の中に、もし自分を見つけることができたときそれは杳子の一つの像となる。だから杳子の病気は表面的で、根は探そうにもない。


姉=小説

杳子と横の線で結ばれる彼は読者であった。
縦の線で結ばれる姉は、かつてのあらゆる小説である。

姉はが上記のものであるというのは、杳子の病気の正体から読み取れる。
というより姉の登場により初めて杳子の病気に意味が描かれる。

170ページまであるこの小説の中で、姉の存在が最初に知らされるのはP111杳子が過去の姉を説明するシーンである。彼が姉に初めて接触するのがP133で電話の取り継ぎ。会話がなされるのはP139において。杳子が五日くらい風呂に入ってないと話す。対面するのはP143で、応接まで彼と姉は二人で杳子について話す。そしてP161で彼は姉の本当の姿を知る。

姉の本当の姿。それは反復を続ける「健康」な人の姿である。

杳子と二人会話しているところへ姉はケーキと紅茶を運んでくる。
盆に乗せたそれらを机に並べ、並べ終えるとテーブルから顔を離して全体を見わたし、杳子のカップを少し左にずらす。また顔を起こして確認して直そうとする。
「病気見舞いだとお思ってちょうだい。それじゃ、ごゆっくり」と彼に挨拶を残すと、頭を深く下げ、扉の方へ軀をまわす。扉のところまで来ると、敷居をまたごうとして右手の棚の上の花瓶に目を止め、片手で花のさし加減をなおす。花瓶にむかってうなずくと部屋を出る。

姉が出た後、杳子は「ごらんなさい」と並べられたケーキの上のイチゴを指し示す。それから彼の前のカップの中心。そして彼のケーキのイチゴ、そして自分のカップの中心。
それは「正確に矩形」になっている。彼はそれに気づき「姉にたいしてか、妹にたいしてか」おぞ気をふるう。

「そんな意地の悪いことをするもんじゃないよ。無意識にやったことじゃないか」
「無意識だから気味が悪いの」

そして杳子は姉が部屋に入ってから出て行くまでの行動を全て口で説明した。同時に彼は杳子は姉が入ってきて部屋にいる間ずっと壁だけをみていたことを思い出す。

「見てなくたって、わかるのよ。いつだって、何もかも、おんなじなんですもの。学校のお友達がたまに遊びにくる時も、あたしの御飯をここに運んでくる時も、いまあなたが見たのと同じことが、そっくりくりかえされるのよ。花をいじるのも同じ。あの花はあたしの領土への、あの人の橋頭堡なのよ。それもと架橋かな、病気の姉妹の……」

P162-163

と言いついには顔を覆って泣き、つぎには姉を罵り始める。

「いいえ、あたしはあの人とは違うわ。あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰り返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、御飯の食べかた……(中略)それが健康というものなのよ。それが厭で、あたしはここに閉じこもってるのよ。あなた、わかる。わからないんでしょう。そんな顔して……」

P163

健康=完璧な繰り返し

「いまのあたしは、じつは自分の癖になりきってはいないのよ。あたしは病人だから、中途半端なの。健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じ事の繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。そうなると癖が病人の場合よりも露わに出てくるんだわ。そんな風になったら、あなたはあたしに耐えられるかしら……」

P166

病人=中途半端

完璧な繰り返しとは、もう読み終えられた小説ではないか。そこからは何ら新しい行動は生まれ得ない。ただ読み返され、同じことが繰り返される小説。杳子はそうなることを恐れいてるのではなかろうか。

病気の状態、何かを写す鏡である状態こそ、唯一の生きた小説の姿である。しかし行動が固定化されただ反復されるだけの、ある種の遺産となってしまった小説はすでに死んでいる。

しかし、169ページにまで至って、杳子もいよいよ読み終えるときに近づく。

 杳子は一刻の時も惜しむように窓辺へ行って、三分の一ほど開いたカーテンをレースの上に引き、濃くなった暗さの中に白く顔を浮かせて、壁ぎわの長椅子いすに軀を沈めた。
 どうせ続かない釣合いをひと思いに崩してしまおうと、二人は軀を押しつけあい、ときどき息をひそめてはまだ釣合いの保たれているのをいぶかり、やがて釣合いの崩れ落ちる喜びの中へ放流に耽りこんだ。
 軀を起こすと、杳子は髪をなぜつけながら窓辺へ行ってカーテンを細く開き、いつのまにか西空に広がった赤い光の中に立った。

P169

日も暮れる。
そして杳子は明日病院へ行くことを約束する。

「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」

P170

とつぶやく杳子を見て、彼の目に

物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。

P170

ように見える。「しかしそれ以上のものはつかめなかった。」


終える小説

杳子とは小説である。小説はいつか読み終えられる。
彼という読者を得てもいつか閉じられる。

P117の杳子の手紙に書かれた彼の
「しっかり歩くには、あなたの困りはてたような、すこしおかしな顔」

P163の杳子の「あなた、わかる。わからないんでしょう。そんな顔して」と言われ繰り返される「いつかの《おかしな》顔」

これはまさにこれを読んでいる読者である私の顔ではないか。彼という読者は同時に私である。

「そうね……。あなたには、あたしのほうを向くとき、いつでもすこし途方に暮れたようなところがある。自分自身からすこし後へさがって、なんとなく希薄な、その分だけやさしい感じになって、こっちを見ている。それから急にまとわりついてくる。それいて中に押し入って来ないで、ただ肌だけを触れ合って、じっとしている……。いつも同じだけど、普通の人みたいに、どぎつい繰返しじゃない」

P167

という杳子の彼に対する感想は、本と読者の触れ合いそのものである。

癖を恐れる杳子に対して、彼のいう、

どんなに反復に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ

P164

という言葉は、彼女の救いになっただろうか。

最後の一文で本は閉じられる。

帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じになって細っていった。

P170

蛇足

小説は鏡であるといった。
今回のこの感想も例に漏れず、そうである。「杳子」に出る杳子を「小説」そのものであると読んだのは、私が日頃そういう考えを好きでしているからである。
じっさい、杳子は小説として書かれたであろうか。
それは不明である。読者各々の読まれからによるだろう。
しかし、読者の頭の中にあるものが映るという鏡として杳子が存在していることは確かなように思う。残る「妻隠」も本書の解説によると似たテーマを持っているそうである。「杳子」を読み終えてそうとう時間が経っているが、なかなか手が出ない。

にゃー