本21 2021-2 短歌の友人 穂村弘
この本に書いてあるとおり、同じひとつの短歌でも、実際に短歌を創作する歌人が読んだ場合と、そうでない者が読んだ場合、その〈読み〉にはあきらかな差がある。
本書の著者穂村弘は歌人である。したがって本書は歌人側から見た短歌の解体新書だ。
それはそれは微に入り細を穿って徹底的に分析をしている。たまげてしまった。ここまでマニアックに分析されるのを見てると思わず笑いがこみあげてくる。それは、愉快、という意味合いにおいての笑いだ。決して揶揄や皮肉なんかじゃなく。物事は突き抜けると笑いに行きつくのかもしれない。
多少学術的に過ぎるきらいがあるにしてもそれはそれでよし。不明でありながらもじゅうぶんに楽しめた。
私は個人的に短歌をとても偏愛している。また、穂村弘の批評性や着眼点にいつも新鮮な刺激を頂戴している。彼の語彙とそれらの使われ方、繰り出す表現力の反射神経なるものに尊敬の念を抱く。武田砂鉄はあざといけれど、穂村弘は誠実さがある。いや、誠実というのとはちょっと違うな。なぜなら彼はちょっとヒネているからだ。穂村弘という人は、白い毒を内包している感じがする。それは真摯なアティチュード。こと短歌については何をかいわんやだ。
そんな穂村弘の、時には真っ直ぐ、時には斜め方向からくる視点満載の本書はたいへんに読み応えがある。学術論文とも見紛うペダンチックな部分もある気がするけどそんなことは些末な事だ。要は穂村弘が「何を語るか」である。
そのような意味では穂村弘はこの本の中で、短歌について「これでもか」というほど語っている。語りまくっている。でもおそらく、まだ語り足りないだろうと推察する。それをひしひしと感じる。そしてこちらとしても、まだまだ彼の「短歌論」を読んでいたい想いだ。不思議な力に誘われているような気持ちで。
前衛であれ現代であれ近代であれ、文語であれ口語であれ穂村弘はそれぞれの短歌を、平等に愛をもって読み続け、そして自らも詠み続けるのだろう。世の中を通して短歌を読むのか、短歌を通して世の中を見てるのか、どちらなんだろう。いずれにしても。
我々は新しい歌を作らなくてはならない。新しいオモチャのような歌を。それは人間が存在しない世界に向けての歌になるかもしれないのだから。
215頁
短歌は五七五七七で出来ている。その中ですべてを説明しきれるかといえば、それはNOだ。舌足らずな説明は、おおかたは読者の想像力に委ねられる。すなわち読む者の頭の中でいくらでも話を広げられるということ。たった一行の三十一文字がやもすると長大な物語として機能する。プルーストの小説みたいに。
いつも何かしらの謎や暗号めいたものを残してひとつの短歌は去ってゆく。決してうしろを振り返ることはない。
たとえば本書に引かれている小島ゆかりの一首はこうだ。
寝不足の頭ばかりが大きくて朝のミルクをわつとこぼせり
冒頭の「寝不足」はまだいいとして、「頭ばかりが大きくて」ときたら、いったい何事かと思う。おまけにそのせいで「朝のミルクをわつ」とこぼしてしまうのだ。
寝不足と大きい頭との関係性。大きい頭と朝のミルクとの関係性。
そしてそのミルクをわつとこぼしてしまうという、思いがけない惨事。
この歌の意味を知ろうとする為にいったいどこから質問をすればいいのだろう。大きい頭って何か。
このシュールな文芸を「不親切」だと見なして、まったく興味を覚えない人と、「これはおもしろいぞ」と興味を抱く人とに人類は分かれるような気がする。
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