「僕は、あらゆる職業の人間が、基本的な人間として畏れをもたなければならないと思っています。ところが、このところ政治家が、自分の仕事にそうでない。妙に大きいことを言う。畏れを感じない人たちが言い始めるのが、伝統とか文化とか、歴史とかについての『美しい言葉』です。言ったことが実現しなくても責任は問われない。その間、細かな現実で苦しむ弱い者は、何もしてもらえない。」
今月3日に亡くなられた大江健三郎さんのこの言葉が
今週の「サンデーモーニング」で紹介されていました。
■「畏れる」ものをもつ
「畏れ」にはもちろん単純な
「恐れ」の意味もありますが、
「敬い、かしこまる気持ち」
という意味の方を強く感じます。
この表現をさらにくだけば、
自分を活かしてくれている何か、
人として失ってはならない道徳
に対し礼を失することなく
行動する。
とでも訳しましょうか。
これを、それぞれの仕事で
自ら決めて行え、
と言われたのだと、
私も肝に銘じます。
■「美しい言葉」にも責任をもつ
この「美しい言葉」には、
いわゆる「美辞麗句」という意味が
含まれている気がします。
「内容の乏しい真実味のない言葉」
を指しますが、
例えば「アベノミクス」は
異次元の金融緩和による初期の
経済刺激以降は、ほとんど成果がないにも
関わらず日本経済を変えた
という“大きな”文脈で使われます。
岸田さんの「新しい資本主義」も
資本主義に「新しい」という
“美しくも大きな”
言葉を付けた以上、
資本主義の構造に踏み込んで初めて
内容が伴うはずですが、
「成長と分配の好循環」というキーワード
すら新しくはなく、予算配分を変えたり
ある種の分野の予算額を増やしたり、
旧態依然の施策ばかり。
*
「美しい言葉にも責任を持つ」と
書きましたが、
極めて抽象的な
「美しい言葉」だからこそ、
責任をもつには
一貫した強靭な覚悟が必要になりますが、
それが極めて難しいから
「美しい言葉」には嘘が伴い、
嘘をつき続けねばならない可能性が
あるからこそ
使うこと自体が危険であると、
言わざるを得ません。
「平和を守る」、もそうですね。
いまは守ろうとして戦争しようとしている
ような気配です。