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私は矢沢永吉を知らない。

私は矢沢永吉を知らない

少なくとも、そう言ってよいほど、彼のことを知らない。
「キャロル」でのデビュ―当時を思い出せる
いわゆる“矢沢世代”にしては、
尊敬する糸井重里さんの「成りあがり」も読んでいないし、
カラオケで歌える歌だって1曲もない。

しかし、そんな私も
「ドキュメント矢沢永吉~70歳 最後のレコーディング」には
胸打たれる言葉があり、
自身を省みる瞬間を手にできた。

矢沢永吉自ら「最後になるかもしれない」と言うオリジナルアルバム
「いつか、その日が来る日まで...」のレコーディング風景などで
構成されたこの番組には、
スーパースターでもなく、
父親でも夫でもない、
矢沢永吉という70歳手前の、一人の人間の思いが
あふれていた。


矢沢永吉の言葉(以下、順不同)

■(1)
「音楽って深いよ。こんな40年以上もやってるのに、
まだ発見するようなこと、いっぱいあるんだもん」。


このときこの言葉は私のなかで、
一つの道を究める芸術家や職人たちが発した
さまざまな言葉とダブった。

これは広告の文章、コピーだって同じだ。
提出したコピーに対する指摘に
「そうだった」「こうすればよかった」という発見があって、
勉強することが、未だになくならない。

もちろん矢沢永吉の言葉とはレベルが違い過ぎるが、
何かを生む仕事に共通することなのだと思う。そして、
すべての仕事は、何かを生む、
とすればそれは、もちろん万人に共通する“発見”だ。


■(2)
「飲み会やったときにバイクの話になるじゃん、男だから。
男っていうのは“カッコマン”なのよ。
カッコつけてなんぼ」。


バイクにひとかけらも興味のない私は、この種の
話題には加われないが、
それが男だからであるかどうかは別として
つい“カッコマン”になってしまうのはなぜだろう。
それを卒業して、“カッコ”つけることの無意味さを
知ったとき、
純粋に概念としての「大人」になれるかもしれない。


■(3)
「ダサいこと、貫いて、貫いて、貫いたら、これ
カッコよくなっちゃいますよね」。


そこに私は「継続は力」という、使い古された至言を浮かべる。
仮に新味がない、と言われても「継続は力」なのだ。
30年以上、コピーライターをやっている私に、
それは嘘だ、と言わせるのは酷だ。

「日本経済新聞」朝刊の文化面には毎朝、一般人の、いや
一般人ながらレアな趣味を究めたり、
独自の活動をひたすら行う方々のエッセイがある。
私はこれを読むたび、「なぜそんなモノを集めるの?」
「なぜそこまで執着できるの?」なんて
疑問を抱く一方で、ちょっと風変わりな行いに見えていたことが、
いつしか世間に認められていくプロセスたどりながら、
まさに「貫いて、貫いて、貫く」力の凄さに感嘆する。
その思いは、先日の崎陽軒の「シウマイ弁当」の食べ方の順番や
美味しく食べる方法を調査・研究している方の執拗なこだわりを
読んだ後でさえも、同じだ。

そして、どんな仕事でも「貫いて、貫いて、貫く」先に
必ず何かが待っていると信じる。


■(4)
「年をとることもそんなに悪いことじゃないよね。
年をとることは、そんなに怖いことでもないよね。
っていうようなアルバムになってくれたら」。


自分が成熟した実感を、もし得ることができたら、
それこそ人生の至福ではないか。

矢沢永吉は、恐らく70歳を迎える自分自身の成熟を
感じとったに違いない。そんな満足感を感じた言葉だ。
私も、成熟を待つのではなく、積極的に変化して
つかんでいきたい、と思った。


■(5)
「もう映画だよ映画、と思った、あの18歳。」

これは、高校を卒業した矢沢永吉が、
トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、
夜行の最終列車で広島から上京する際に、
東京駅へ向かうはずが横浜駅で途中下車する
有名なエピソードを表している。
まだ東京には行けない、という思いを胸に下車したとき
矢沢永吉は、自らを映画の主人公に投影していた。

しかし、考えてみれば人は、多かれ少なかれ、
自分が映画の主人公になったような気になりながら、
人生を歩むのではないか。

地面を這いつくばるようなときは、なにくそ、と思いながら、
何らかの成功を勝ち取ったときは、やったぜ、と喜びながら。
それを未来に向ければ、イメージトレーニングにもなる。


■(6)
「あまりにもTOO現実」。

という言葉は、前述の「映画だよ、映画」だった自身の10代と
現代の空気を比較して言い放たれた。
それは、無難な将来設計で人生を歩む現代人への
一つの批評だ。

「TOO現実」の根幹に“コスパ重視”があるような気がする。
選挙の投票率の低さも、一票を投じるカロリーと時間の消費に
比して、明確に世の中が変わる実感がないからだ。
しかし、「変わる」という実感は、
目に見えぬ毎日のなかで少しずつ動いている何かが
ある日、結果となって現れることで生まれるのではないか。
わずかなわずかな「変わる」を実感する一人として。


■(7)
「教えるものなんか、ありゃしないよ、
自分であがけ」。


紹介した以外にさまざまな言葉を放ち続けた
矢沢永吉から放たれたのは、こんな言葉だった。
確かに人生とは、教えられてどうなるものでもない。
人は、他人のようには生きられないのだ。
だから矢沢永吉は言う。

自分であがくしかない、と。

しかし、できるなら、あがいてでも目標に近づきたい。
このnoteはYouTubeで矢沢永吉の歌を聴きながら書いた。
改めて聴いた曲のなかには、まぎれもなく「人間」がいた。

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