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古今亭志ん朝の口調で読む芥川龍之介「鼻」(2)。~劣等感との闘い

人並み外れて長く垂れ下がった「鼻」を持った僧侶・内供ないぐ
顛末を描いた芥川龍之介の小説を、二代目古今亭志ん朝の口調で綴る
2回目は、この僧侶の涙ぐましい鼻との闘いを描く。

■長い鼻が短く見える方法
まず内供の考えましたのが、自分の長い鼻を見た目より短く見せる方法だったようで。

人のいない時を見計らってね、鏡へ向って、こう、いろんな角度で顔を映しまして、それはもう熱心に工夫を凝こらして見た。どうかするってぇと、顔の位置を変えるだけでは気がすまなくなって、頬杖をついてみたり、あごの先へ指をこうあてがったりして、そりゃもう穴があくんじゃないかってぇくらいに鏡を覗いてたそうですな。ただ、そこまでしても、自分で満足するほど、鼻が短く見えたなんてぇことは、ただの一度もない。それどころか、苦労して鼻に何かするほど、かえって長く見えるような気になってくるもんだそうですな。そんな調子ですから、この内供、鏡を箱へしまいながら、いまさらのようにため息をつきまして、仕方がないから、元の経机きょうづくえへ、観音経かんのんぎょうを読みに帰った、なんてことが言われておりまして。

■長い鼻を捜索?
そうかと思いますと、この内供ってぇ方は、もう絶えず、よその人の鼻てぇものも気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説そうぐこうせつなんてことを言いまして、お坊さんの供養のために何かこう解説をするんですが、これがよく行われる寺だったそうで。境内には、坊さんの住まいが、もう長屋みたいにつながって、湯屋では寺の坊さんたちが毎日湯を沸かしているなんてんで、そこへ出入りする坊さんの類もとにかく多かったそうでね。内供はそんな坊さんたちの顔を、そりゃもう根気強~く見て回ったそうで。それが、一人でもいいから自分のような長い鼻のある人間を見つけて、安心したかった、てんですから、もう必死ですな。普段、お寺で見慣れている坊さんの顔なんぞ、あってなきが如しでね、毎日見慣れている紺の水干も白の帷子かたびらも目に入りません。まして柑子色帽子かむじいろぼうしや、椎鈍しいにびの衣なんぞは、目に入らないどころじゃない、はなからない。言ってみれば、ただ、鼻だけを見ていたというわけで。しかし鍵鼻なんてのはあっても、内供のような長い鼻なんてぇのは一つも見当らない。もう、見当らない、見当らない、見当らないで、それが度重なるにつれて、内供はまた、だんだんと気分が悪くなる。そのうち、人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで、年がいもなく顔を赤らめたってぇますが、実は「あれ、気分が悪くて赤くなったんだよ」なんてことまで誠しやかに言われておりまして。
(続く)


※芥川龍之介の著作権は消滅しています。


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