演者からみた落語論
■柳家三三:第二部「芸談」
これまで噺家の芸談と言えば、
八代目文楽の「明烏」の甘納豆を食べる場面は云々、
四代目橘家圓喬の「鰍沢」の雨の描写が云々、
などという
大名跡の芸の演出の凄さを語ったり、
立川談志が「現代落語論」で落語を「業の肯定」と
語ったのに代表される、
落語というmonologue playを
文化として評論する視点が代表的だった。
そんななかで柳家三三(さんざ)師の
演者として見た落語論が新鮮だった
(先月の『セブンカフェ』)。
三三師は、
「八つぁんとご隠居さんが話をしているビジョンが
噺を語る自分の目の前にあって、
自分はスピーカーとして口を動かしている」
と語った。
この「ビジョン」は「スクリーン」と言い換えるとより分かりやすい。
そこでは「自分がこうしてこうやって」と雑念が入るとダメ、
なのだとか。
アマチュア落語家としての私
私にとって、こんな落語の話は初めてだった。
噺家は、舞台に再現され、観客が頭脳にイメージする
落語というスクリーンにおける登場人物を、
スクリーンの側で演じ分ける俳優のような存在だと思っていた。
高校時代に古典落語研究会に入り、
社会に出て「社会人落語協会(JARA)」に籍を置いた私は、
いまはなき「上野本牧亭」の高座でもアマチュアとして落語を演った。
しかし、一貫して、あくまで、落語を映すスクリーンの中の登場人物を
演者として演じ分けることが落語であると信じていた。
これは、プロの噺家さんにぜひとも訊いてみたい、
落語について、これまでなかった視点をつきつけられた。