見出し画像

世界が「信用レス」へと向かう時代に、日本のハンコ文化を考える

先日、「ハンコ議連」の会長を務める竹本直一氏が科学技術・IT担当相に就任した。行政手続きのデジタル化と書面に押印する「ハンコ文化」の両立を目指すという同氏の考えに、「日本は本当にデジタル化できるのか?」という不安の声が上がっている。

一方で、世界はすでに「サインレス」のさらに先を行く、「トラストレス」の方向に向かっており、ハンコに代表されてきた「信用」のあり方自体が大きく変わろうとしている。ハンコ文化を通じて、日本が進むべき道について考えてみた。

ハンコ文化で損をする日本

 住民登録、銀行口座開設、保険契約、事業登録、請求書作成――日本ではさまざまな手続きに印鑑が必要とされてきた。役所や銀行まで出向いて書類に押印したり、書類を印刷してそこに押印して、またスキャンして送り返したり・・・すべてがオンラインでスピーディに処理される時代、日本では世界的に稀な伝統作業が継続されている。

 特に僕のように海外で生活している場合、ハンコ文化は不便この上ない。ビジネス契約など、デジタル署名で済まされないケースも多く、PDF→プリントアウト→押印→スキャン→メール送信という面倒なプロセスを粛々とこなさなければならないし、印鑑をなくしてしまった場合など、帰国して印鑑を作り直さなければならないことになる。

 大きなプロジェクトならともかく、少額の小さなプロジェクトになると、事務作業の煩雑さを考えて二の足を踏んでいるうちに、結局やらずじまいになってしまうこともある。おそらく日本でビジネスをしたいと思っている外国人でも、「ハンコ文化」のためにあきらめてしまったケースもあるのではないだろうか?

 日本のクライアントと仕事をしている以上、僕は日本に食わせてもらっているし、できるだけ日本のためになりたいと思って仕事をしている。こういう無駄のためにビジネスをあきらめなければならない状況は、本当に残念だ。

 ちなみに、ハンコの起源を調べてみたら、なんと5000年前のメソポタミア。それがヨーロッパや中国にも伝えられ、日本にも渡ってきたらしい。しかし、5000年の時を経て、未だに人々の日常生活に根づいているのは、日本のみではないだろうか?

世界最先端の電子国家との根深い差

 そもそもはんこは何のために存在するのか? それは5000年前から存在する「個人認証」の形で、その人の信頼性を証明するものだ。しかし、デジタル化が急速に進む現在、個人認証の形は大きく変化している。

 世界最先端の電子国家と言われるエストニアに目を転じると、個人認証の形は常に新しいテクノロジーを取り入れながら変化し続けている。ここでは行政手続きに加え、医療、学校、ビジネスなどがほぼすべて共通の電子認証(本人確認)と電子署名ツールでデジタル化されており、それが実際の国民生活にあまねく浸透している。

 同国でICチップを搭載したIDカードが導入されたのは2002年のこと。実に17年前だ。これはパソコンにつないだ専用のカードリーダーに差し込み、暗証番号を入力することで電子認証と電子署名を行う機能を持つもので、現在の普及率はほぼ100%。これにより電子投票、確定申告、住民登録、年金や各種手当の申請、自動車登録、国民健康保険、出生届、学校への入学申請、銀行口座開設、病院の診療履歴へのアクセス、会社登記などが可能となる。 

 2007年になると、今度はSIMベースの電子認証が導入され、IDカードやカードリーダー、パソコンなどがなくても外出先からスマホだけで簡単に各種電子サービスを利用できるようになった。そして2016年にはこれがアプリベースに進化し、専用のアプリをダウンロードすることで、スマホやタブレットなど複数の端末から利用できるようになった。さらに、2018年12月からは「Suica」のような非接触式のIDカードが配布され、公共交通機関などでもこのカードが利用できるようになったという。

 人口130万人の小国では導入しやすさが日本とは違うのかもしれないが、エストニアが最先端のテクノロジーを常に国民のユーザーエクスペリエンス(UX)の向上に利用している一方で、日本は数千年前のUXを保持している。この差は実に大きい。

世界は「トラストレス」へ。変化する信用の形

 個人認証のデジタル化が進むと、今度は「信用」そのものの形にも変化が現れる。そもそもこれまでの「信用」は、政府や会社や銀行といった第三者から評価されたり担保を得たりするものだったが、デジタル化で個人の行動の記録が残ってしまう現在、第三者の信用担保よりも本人の行動そのものだけで信用を判断される時代になりつつある。

 例えば、「アマゾン」や「楽天」に代表されるBtoCや、「メルカリ」「Airbnb」などのCtoCの取引などで、売り手と買い手がそれぞれ評価され、その人や会社の「信用」がストックされていくシステムも信用のあり方を変えているし、ブロックチェーンにより分散化した情報管理が進むと、さらに当事者間の直接取引が増え、その人の行動自体が信用と直結するような社会になっていくという。

 多くの国で現金による取引をなくす「キャッシュレス化」が進んでいるが、現在はさらに支払うという行為がなくなる「ペイメントレス化」の動きが広がっている。これも実は信用が変化する一つの好例だ。

 例えば、オランダのスーパーマーケット「アルバートハイン」では、実験店舗でレジを通らずに買い物できるシステムを導入した。顧客は入口で銀行カードや支払い機能つき携帯をスキャンし、商品をかごに入れ、出口で買ったものが表示されるモニターをチェックし、金額などがあっていればそのまま外に出るという仕組みになっているのだ。万引きすれば、その行為も記録として残る。トラストレスの社会は本人のやったことがすべてなのだ。

 さらに付け加えると、「レポートレス」という動きも始まっている。これはテクノロジーを使って確定申告などの手続きをどんどん省略していこうというもので、例えばエストニアでは、アプリベースの配車サービス「Taxify」を仕事で利用すると、その料金はそのまま税務当局に経費として報告されるシステムがあるのだという。レシートを集めて、期末に集計する作業が省かれることになる。個人認証がデジタル化されると、こうした便利なサービスも可能になってくるのだ。

やりたいことありき「コンセプトドリブン」が時代を変える

 テクノロジーの進化を受け、既存の習慣や概念までもがものすごいスピードで変わる中、オランダやエストニアでは、それをいち早く日常生活に取り入れようとする。取り入れてみて不都合があれば、その都度改善が試みられるし、新しいテクノロジーが生まれれば、またそれを取り入れてUXを改善する。

 オランダやエストニアは小国で、自然災害も少なく、新しいことを導入しやすい素地があるのかもしれないが、リスクを恐れて慎重になるよりも「まずやりたいことありき」というコンセプトドリブンなメンタリティがかなり大きいような気がする。

 例えば、オランダの運河。アムステルダムをはじめ、オランダの古い街は運河の景観が美しいことで知られるが、その美しさを保つために柵はつけられていない。柵がないと子供が運河に転落する恐れがあるが、それは子供に着衣泳を学ばせることで対処している。まずはやりたいことがあって、それに付随するリスクは、別の対策をとるということの一例のように思う。

 エストニアの電子認証も「IDカードを落としたら?」「スマホを盗まれたら?」「お年寄りにも使えるか?」「都市部と地方の格差は?」と様々なリスクが考えられるが、まずはコンセプトドリブンで導入を前提にグイグイと計画を進め、それを実現させるためのリスク対策を付随させている。IDカードの普及率がほぼ100%というから、地方にもお年寄りにも浸透しているのだ。工夫と対策次第で、本当に必要な人に届くサービスになり得る。

ハンコを温存するのなら・・・「超日本的UX」の提案

 コンセプトドリブンでスピーディに変化する世界は、日本の二歩先を歩いている。一歩先を経験して初めて消費者が二歩先を受け入れられるということを考えると、日本はまず、ハンコを止めて一歩先に進まなければならないと思う。

 竹本・IT担当相は、「電子認証とハンコを両方使えるようにする」という考えらしいが、これは業務を煩雑化する上、地方やお年寄りのデジタル化が進まず、ますます格差を広げる可能性もある。だから、僕は電子認証を導入する一方で、書面での押印をなくすというトレードオフが必要だと思っている。

 もし、それでもハンコを温存したいというなら、いっそのこと、ハンコをIT化するというのはどうだろう? ハンコにチップを埋め込んで、必要な個人情報をそこに入れる。パソコンの画面にICハンコを押印するだけで、いろいろな入力作業を省き、電子認証がなされる。

 紙も電子ペーパー化して、契約書の「割印」もICハンコで行う。その契約書の内容は第三者には見えないが、自分と相手が持っている契約書を合わせると、割印のところがキラリと光り、契約書の内容が現れる――世界のデジタルインフラに乗りながら、ディテールは日本文化を温存する。その開発に任天堂などの協力を得られれば、もしかしたらすばらしい超日本的UXが誕生するのかもしれない。 

 日本は世界が熱狂するような楽しいモノを数多く生み出してきたと同時に、5000年に及ぶハンコ文化を温存してきた特殊な国。せっかくなら、新しくて楽しい日本的UXが生まれることを期待したい。

編集者/Livit代表 岡徳之
2009年慶應義塾大学経済学部を卒業後、PR会社に入社。2011年に独立し、ライターとしてのキャリアを歩み始める。その後、記事執筆の分野をビジネス、テクノロジー、マーケティングへと広げ、企業のオウンドメディア運営にも従事。2013年シンガポールに進出。事業拡大にともない、専属ライターの採用、海外在住ライターのネットワーキングを開始。2015年オランダに進出。現在はアムステルダムを拠点に活動。これまで「東洋経済オンライン」や「NewsPicks」など有力メディア約30媒体で連載を担当。共著に『ミレニアル・Z世代の「新」価値観』。
文・構成:山本直子
フリーランスライター。慶應義塾大学文学部卒業後、シンクタンクで証券アナリストとして勤務。その後、日本、中国、マレーシア、シンガポールで経済記者を経て、2004年よりオランダ在住。現在はオランダの生活・経済情報やヨーロッパのITトレンドを雑誌やネットで紹介するほか、北ブラバント州政府のアドバイザーとして、日本とオランダの企業を結ぶ仲介役を務める。

読んでいただき、ありがとうございました。みなさまからのサポートが、海外で編集者として挑戦を続ける、大きな励みになります。