08 川上・上北山陵墓騒動
1、川上村 金剛寺の不可思議な光景・・3つのモノが語るものは?
南帝自天皇陵
宮内庁河野宮の墓標、
尊秀王の墓とある。
この光景は不可思議な感じです。
どの表示が正しいのでしょうか?
川上村の伝承から見ると・・・・
長禄元(1457)年12月2日の夜、赤松の家臣により、神璽を奪われ、2つの御所が襲撃され、自天王は18歳の若さでこの世を去り、忠義王は御所で討死、
あるいは、その場は死地を脱したものの、川上村の高原で最期を遂げたと伝えられています。
郷士たちは赤松の家臣から自天王の首と神璽を取り返し、自天王の首、忠義王を金剛寺に手厚く葬りました。
その後、二人の供養をするために、後南朝菩提所を設けました。
であるならば、お墓の名前も自天王、忠義王の名前を並べるのが普通です。
おかしいことに、宮内庁の墓標が、「河野宮」がなっているのです。
そして自天王の墓だけは、ひとつだけ外に出ている。
2、金剛寺「後亀山天皇玄孫 北山宮」→金剛寺「後亀山天皇玄孫 河野宮」の陵墓変更
当時、金剛寺の墓は、明治15年宮内省に、後亀山天皇玄孫 北山宮に治定されていた。
上北山村小像の瀧川寺住職 林水月が、宮内省に働きかけをしました。
その結果、明治45年 瀧川寺が北山宮の陵墓、金剛寺が河野宮となりました。
その以後、
金剛寺は「後亀山天皇玄孫 河野宮」となり↓
瀧川寺は「後亀山天皇玄孫 北山宮」となったのです。↓
3,忠義王(二ノ宮、河野宮)の墓と5つ墓塔の謎
忠義王(二ノ宮、河野宮)の墓へ向かう階段の途中には、5つの墓塔があります。
これら5つの墓塔は、まるで寄せ集めのような印象を与え、無造作に扱われてきたかのように見えます。
実は、これらの墓塔は北山宮と河野宮の兄弟の墓塔と同じ場所に置かれていたものであったが、明治時代の墓地指定の際に、この場所に移された可能性があります。(明治45年の宮内省による陵墓治定で)
この5つの墓塔は、長禄の変に殉死した遺臣たちの墓塔も含まれていると推測される。
4,ある日、陵墓騒動勃発! 川上村民は怒り、林水月(海音)を恨む。
明治45年 宮内省は突如として「北山宮(自天王)墓を上北山村小橡に、河野宮墓を川上村神之谷にする」と発表しました。
川上村には、昔から村民は金剛寺にある自天王と忠義王の墓として供養してきました。
それが、今まで供養してきたお墓が、突如として忠義王の墓だけということになったのです。
大騒ぎになり、川上村民なかには「これは上北山村の陰謀だ」と竹槍を持って、林水月(海音)のいる瀧川寺まで押しかけようとしました。
長老たちは、その後いく度も上京、撤回を働きかけたが、宮内省は1度決めたことは変えられない、と跳ね付けました。
川上村民は諦めずに、大正時代まで陳情書を書き続けました。
これには宮内省もまいったのでしょう。
大正5年(1916)に「多年尊秀王ノ為メ祭祀奉修ノ段奇特ニ付」という理由で村に5000円を下賜しました。
「お金で解決」しようとしました。
村民は満足した訳ではないが、『尊秀王ノ為メ』とあることにせめて心を慰め、陵墓騒動を収めようしとしました。
5、宮内省に働きかけした瀧川寺住職林水月(海音)とは?
この住職は、上北山村西原の寳泉寺住職でもあり、上北山村小像瀧川寺住職でもありました。
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