見出し画像

飛騨の鬼神 両面宿儺と武振熊命との戦い 飛騨八幡伝説

両面宿儺討(りょうめんすくな)伐の為、飛騨入国の地を訪れた難波根子建振熊命(たけふるくまのみこと)が、戦勝祈願した場所が10カ所ある。

「飛騨の神社」(飛騨神職会)によると、飛騨の国の中津原・乗政・森・上呂・山之口・宮・石浦・高山に鎮座する各八幡神社は、それぞれ武振熊の祈願伝説を伝えている八幡神社。

もう二つ社桐山(丹生川神社)、久々野(無数河)で一部伝承を含めると合計10社。
(『飛騨の霊峰 位山』2003年、『飛騨の鬼神 両面宿儺の正体飛騨』2002年参考文献)

再調査の上、更新する可能性があります。


01,下原八幡神社(しもはらちまんはらじんじゃ)

〒509-1613 岐阜県下呂市金山町中津原字佃

主祭神 
応神天皇(おうじんてんのう) 品陀和気命(ほむたわけのみこと)品陀和気命は、応神天皇である。

社格等 旧郷社

創建 
377年(仁徳天皇65年) 両面宿儺討(りょうめんすくな)伐の為、飛騨入国最初の地を訪れた難波根子建振熊命(たけふるくまのみこと)が、

応神天皇の御霊を奉祀して戦勝祈願した最初の場所。この場所が、下原八幡神社の起源であると伝えられる。

また進軍の各所において同様に祭祀された場所、中津原をはじめ、
乗政・森・久津・位山・一宮・石浦・高山等の八幡宮を後に、「飛騨八幡八社」と言う。

1689年(天正17年) 再建する。

1872年(明治5年) 下原村・中原村・上原村の郷社となる。

摂末社
神明神社
春日神社
天満宮
山神
稲荷神社

両面宿儺討(りょうめんすくな)の「根子(ねこ)岩」

殿の左側の注連を廻らした大岩を、昔から猫の形に似てもいないのに「根子(ねこ)岩」といっている。

武振熊がこの大岩の上に八幡様を勧請されたので、難波根子武振熊命の「ねこ」から来た由来である。

02,森水無八幡神社(もりみなしはちまんじんじゃ)

509-2202 岐阜県下呂市森1321

主祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
猿田彦(さるたひこのかみ)
応神天皇(おうじんてんのう)
御食津神(みけつのかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのかみ)
事解男命(ことどきおのかみ)
早玉男命(はやたまのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
大己貴命(おおなむちのかみ)
埴山姫命(はにやまひめのかみ)
興津彦命(おきつひめのかみ)
注、官制中の『神名帳』には、御食津神・猿田彦神はない。(神名帳とは、延喜式、国内神名帳である。)

創祀時期は不明。
ある一説では下呂郷湯之島村に鎮座のあった猿田彦命を祀る神社が現在地に遷座、「松森神社」と改称。

『斐太後風土記』によると創始は第16代仁徳天皇の時代。

八幡八社説に岳崇拝による祭祀、農耕祖神の祭、道祖神祭など神事が多い。

由緒が雑多で不確定。

神社は戦国末期まで、年6回の祭礼。

三木良頼により八幡神が合祀され、「八幡神社」と改称。

金森氏に及んで例祭は年1回となり、社領は召上。

当時八幡神社の祭礼、一宮水無神社と、久津八幡宮とともに飛騨の三大祭と言われた。

元禄検地で、1反6畝歩の境内除地があり、下呂郷中の「総社」と言った。

明治維新(1869)村社

明治40年に神饌幣帛料の供進指定

明治41年には神社会計指定

明治42年近隣の11の神社11社を合併合祀

(土田吉左衛門編集『飛騨の神社』飛騨神職会発行)(引用データー)を参考。

03,乗政八幡神社(のりまさはちまんじんじゃ)

〒509-2311 下呂町乗政字森1011番地

祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
火産霊神(ほむすびなのかみ)
白山三柱神(はくさんみはしらのかみ)
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
大山祗神(おおやまつみのかみ)

創建
『斐太後風土記』によると、第16代仁徳天皇の65年、両面宿儺追討の際、武振熊命(たけふるくまのみこと)が中津原をはじめとして、

官道のところどころに応神天皇の尊霊を祭祀した、「飛騨八幡八社」の一つであると言われている。

古来飛騨国内における有名社

応永年中三木氏の崇敬厚い元禄検地には、境内除地を受けた。

千古不伐の森として杉・桧などの古木が茂っていた。

第二次大戦後、伐採、境内縮小、旧観を失う

明治維新村社

明治40年神饌幣帛料の供進を指定

明治42年には区内6社を合併合祀

大正6年には神社会計指定。官制廃止後、単立神社

(土田吉左衛門『飛騨の神社』飛騨神職会発行を参考)

04,位山八幡神社 (くらいやまはちまんじんじゃ)

〒509-2501  岐阜県下呂市萩原町山之口1272番地

主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)

摂末社祭神
氏子出身靖国の神霊(うじこしゅっしんやすくにのしんれい)

創建年代は詳しくは不明。仁徳天皇六十五年、飛騨国両面宿儺追討の勅命を奉じた武振熊命(たけふるくまのみこと)が、

この地に応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝を祈願された場所で、祭場遺跡とあるとされている。

里伝によれば、宮坂の現地と、森の幅、上馬瀬戸にあった三社を合併合祀

明治維新に村社列格。

大野郡久々野郷に属し、一宮神領として一村区一神社であった。

昭和三十一年に、社名位山八幡神社と改称

創建以来記録は少なし、棟札、文政十年、嘉永元年、大正二年などに拝殿を

再建程度のみの記録

05,久津八幡宮 (くづはちまんぐう)

〒509-2518 岐阜県下呂市萩原町上呂2345番地の1

主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
春日大神(かすがのおおかみ)

摂末社祭神
大雀命(おおささぎのみこと)
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
大山祇神(おおやまずみのかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
磐長姫神(いわながひめのかみ)
菅原道真(すがわらみちざね)
久久能智神(くくぬちのかみ)
美魂神社(みたまじんじゃ)

由緒由来
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、
時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。

この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。

それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。

その後、室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。

その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。

また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。

(説明版より抜粋)

06,久々野八幡宮(くぐのはちまんぐう)

〒509-3214 岐阜県高山市久々野町無数河1442番地

祭神
譽田別尊(ほむたわけのみこと)

由緒由来
御名は譽田別尊、仲哀天皇の皇子。御母は神功皇后なり。

皇后胚孕の御身を以て韓国を征平し給ひ、班師の時、筑紫の宇美にて天皇を誕生し給ふ。

天皇御宇の間文学工芸を興し、皇威内外に輝し給へり。

後聖武天皇の御代八幡大神と奉称す。

当神社勧請年代未詳。寛延元年閏十月再建。古来当区の産土神なり。

07,若宮八幡神社 (わかみやはちまんじんじゃ)

〒506-0825 岐阜県高山市石浦町3204番地

主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)仁徳天皇(にんとくてんのう)

摂末社祭神
建御名方命(たけみなかたのみこと)
菅原道真(すがわらみちざね)

由緒
口碑に曰く仁徳天皇六十五年難波根子武熊振熊命に勅あり。

両面宿儺を誅伐せしめ給ふ節当地に先帝の御霊と今帝の御稜威を奉齋せしめたらむ。
(斐太後風土記より)

飛騨一ノ宮棟札の文詞云。長木は石浦若宮の杉なり云々(飛州誌)

08,櫻山八幡宮 (さくらやまはちまんぐう)

〒506-0858 岐阜県高山市桜町178番地

主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)

摂末社祭神
熱田大神(あつたおおかみ)
香椎大神(かしいおおかみ)

仁徳天皇(377年頃)創建

室町時代の大永年間、京都の石清水八幡宮を勧請。

その後戦乱の時代で一時荒廃。

元和9年(1623)江名子川から発見された御神像を応神天皇の御神体とし社殿を再興神領寄進。

高山の安川以北を氏子と定め、神事を管理高山府の総鎮守府とした。

明治4年(1871)郷社に指定、明治同8年に大火にあう。秋葉社を除いてほとんど焼失。
明治33年に御社殿を復興

昭和7年に県社に指定

同26年に式年大祭再興

昭和43年屋台会館完成、昭和51年に総檜造りの本殿並びに拝殿・神門・瑞垣の御造営。別表神社加列。

昭和55年社務所参集殿を改築

昭和56年5月飛騨国中300余社の神社を招請、式年大祭を再興し今日に至る。

狂人岩は、地表から突き出て見えるかのようで、両面宿儺を討伐した証とも言われている。

古代人々は、まだ本殿や拝殿が存在しない時代に、神々の存在を感じるための場所として岩を崇拝の対象とし、神事を行っていた。

そのような古代の儀式の場は神聖視され、汚すことは絶対に許されなかった。

09,鎮西八幡神社 (ちんぜいはちまんじんじゃ)

〒506-2134 岐阜県高山市丹生川町桐山字野方302番地

主祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
摂末社祭神

創祀未詳なれども、上代国賊宿禰討伐の節武振熊命此の地に屯して祈願せし跡地なりと伝ふ。

境内に祈願座(ノリクラ石)と称する平盤の巨石を存す。

仁徳天皇六十五年国賊両面宿儺なるもの皇命に従はず國中横行掠奪を事とせしかば、老功臣難波根子武振熊命をして誅討せしめらる。

宿儺は三野國より斐陀に逃がれ密かに当地日面出羽ヶ平の岩窟に匿る。

武振熊野命之を追ひ此の地に来り先帝応神天皇の御霊を奉祀祈願したる跡地に当八幡神社を奉斎したりと伝ふ。

里伝に後白河天皇保元年間源為朝の一族日留為賢此の地に来り在住岩清水八幡大神を奉請し、鎮西八幡宮と称せんと為賢の故跡を存す。

通称八郎垣内と称す。飛州志には比留殿屋舗と記せり。

斐太後風土記所載北道遊簿に云ふ両山之間遙見一村。曰はく桐山。

其の間総称して呼八郎垣内と呼ぶと俗に伝ふ。

鎮西八郎為朝密かに此の地に伏す。八幡祠を置き以て恢復を祈る。

復其の地所伝頗る詳云々。殿内に崇徳天皇御物及び為朝公の木像を蔵す。

その他当神社境内出土の石器多数を存す又、六條判官為義公鎮西八郎為朝公比留冠者為賢公の三神御霊の奉祀あり。

其の為朝公の画像軸を蔵す。

明治の初年に至るまで陰暦八月八日は例祭日にしてこの日は郷内遠近の氏子崇敬者鳥毛打、獅子舞、太々神楽等各部落は競って妙技の神賑行事を奉仕する慣例なりしが、近来断絶せり。

10,飛騨一宮水無神社 (ひだいちのみやみなしじんじゃ)

〒509-3505 岐阜県高山市一之宮町大野郡宮村字石原5323番地

主祭
神御歳神(みとしのかみ)

摂末社祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
三穂津姫命(みほつひめのみこと)
応神天皇(おうじんてんのう)
高降姫命(たかみねひめのみこと)
神武天皇(じんむてんのう)
須沼比命(うぬまいのみこと)
天火明命(あめのほあかりのみこと)
少彦名命(たかてるひめのみこと)
高照光姫命(あめのくまひとのみこと)
天熊人命(あまてらすすめおおかみ)
天照皇大神(とようけひめおおかみ)
豊受姫大神(おおどしのかみ)
大歳神(おおやぎのみこと)
大八椅命

由緒由来
古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867)神位を授けられた記事にはじまる。

中世鎌倉時代には社領は付近18ケ村に達し、社家12人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。

江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、明治4年5月14日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって10年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。

昭和21年2月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。

社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。

この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。

この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。

(由緒書より)

12,まとめ

時代から考えてみると古墳時代。

巨石がある場所には、武振熊命が勝利祈願として訪れた場所ではないかと思われる。

どの神社も現地に行かないとわからないことが多い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?