エッセイ 時間軸の目盛り
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。私にとりまして、note2年目、2025年 令和7年最初の投稿となります。
私は以前から、自分自身の、血液型を基本とした「座標軸」を持っているという話をしてきました。数学の座標軸とはちょっと違っていて、3本の軸があるにはあるのですが、それぞれ「横軸」「縦軸」「時間軸」と名付けています。「横軸」は性格軸とでも言いましょうか、真ん中にO型を配置して、右にA型、左にB型、Oの裏にAB型を配置したものです。縦軸は社会の階層を表したもので、日本でしたら、上から天皇、政治家、資本家が並び、下の方には、社会的弱者がひしめくことになります。そしてきょうテーマとして掲げる時間軸は、時間の流れを表すものなので、一番わかりやすいと言えばわかりやすいのですが、例えば、年号で簡単に表すことはできますが、年号だけではなかなか実感が伴いません。そこで、もう少し具体性を持った目盛りを時間軸につけられないかと考えたのです。
見回してみれば、世の中にはいくらでもありました。史跡、遺跡の類です。最近ドラマで話題となった軍艦島なども大きな目盛りと言えなくはありません。あれをいつの目盛りと考えるかは議論が分かれるところでしょうが。もっともっと小さな目盛りもあります。『背くらべ』という私の好きな童謡がありますが、子どもの成長を目で見て感じられるように、柱に毎年傷をつけていくという歌詞。あの柱の傷も小さな、その家の時間軸と言えると思います。一休さんの「門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」では門松がまさに、時間軸の目盛りとなっています。
我が身を振り返ってみれば、私の作品の中にも時間軸の目盛りは登場していました。『沈黙は金、なのでしょうね』の中の高2の時のクラスメートの寄せ書き、卒業アルバム。『傷』のいまだに足に残る釘の傷跡、『怪談 油が淵』の花菖蒲などは「生きた目盛り」と言ってもいいかもしれません。伊羅間智男氏の作品にも時間軸の目盛りを発見することができます。『英霊たちの本音』の靖国神社の桜も「生きた目盛り」でしょう。今は石碑しか残っていませんが、『禁断の羅生門』に登場する羅生門。こういう具体的な目盛りを想定することによって、無味乾燥になりがちな年号という数字に血肉が付いて来ると思うのです。
考えて見れば、今まで書いてきたnoteの記事ひとつひとつが、私の時間軸の目盛りとなっているのかもしれません。そしてまた、私の記事を読んでくださる方々の時間軸の目盛りの一つとなることができたら、これにまさる喜びはありません。そのことを願いながら、今年一年書き続けていけたいと思っております。