世にもおもしろい狂言 (茂山 千三郎)
たまたま、いつも利用している図書館の書架で目にはいったので読んでみました。
古典芸能について素養があるわけでもなく、強い興味があったわけでもないのですが・・・。
本書は、京都の大蔵流狂言師茂山千三郎氏による狂言入門書です。
現役の狂言師自ら、軽妙な語り口で、狂言の楽しみ方や歴史・登場人物のキャラクタ等を分りやすく説明してくれます。
狂言は能と同じ舞台で交互に演じられることが多く、幽玄な能とコミカルな狂言という異なる芸質の対比が相乗効果を生み出してきたようです。
このあたりの能との対比について、著者は以下のように説明しています。
(p76より引用) 五番立プログラムの中で、能にはさまれ、能と同じ舞台で演じられてきた狂言は喜劇です。ただおもしろおかしく滑稽なだけでなく、皮肉や風刺がきいています。能の登場人物が観る人の憧れや夢を体現しているのに対し、狂言では登場人物を観客に近い存在として描きたいと考えたのでしょう。ですから狂言ではほとんどの人物が「この辺りに住まい致す者でござる」と名乗ります。いわば〈隣のおっさん〉を主要な登場人物とすることで、能との対比が生まれたわけです。
狂言の興りは室町時代。以来、650年を経て今に伝えられています。
狂言が脈々と人々の支持を受け続けた礎として、狂言のもつ懐の広さを感じました。狂言は、演じる側の自由度も、また観る側の自由度も広げたのでした。
(p78より引用) 狂言の世界では、有名人が起用されなくなったと同じように、名前というものが排除されていきます。それはおそらく、固有名詞をつけることによって、その名前がすでにもっているイメージに役がつきまとってしまうからです。
・・・その邪魔な感覚をさけるために「太郎冠者」「主人」「大名」など、ただ立場を教えるだけにとどめようとしたのです。
それによって演じる側の可能性をふくらませ、もういっぽうでは観る側の可能性も広げました。役に普遍性をもたせるという発想のおかげで、狂言は広い世界を獲得したのです。
狂言が支持を受け続けたもうひとつの理由は、ストーリーの底に流れる「人間肯定」の姿勢でした。庶民に根付いた芸能として、ありとあらゆる庶民生活の営みを基本的な世界観としてもつことは極々自然のことでした。
(p153より引用) 狂言は、人間の描き方に余裕があるんです。「まあ、それもええやろ」と人間の欠点や弱点を認めています。観客が舞台上の登場人物に共感できるのは、つねに狂言に「人間を肯定しよう」という姿勢があるから。だから僕は、狂言は人間肯定劇だと思っています。
他方、伝統芸能としての重み・深みも「型」として脈々と伝えられています。
(p125より引用) 狂言では、「型」を広い意味でとらえています。狂言がただの喜劇でも、ただの芝居でもなく、狂言として存在できるのは型があるから。型こそ狂言の命です。
型とはなんなのかといえば、時代を経てくり返し演じられる中で、洗練され形づくられていった演技の様式です。
「型」は、650年の歴史が削ぎ落とし磨きこんだ表現形式ということです。そして、「型」の研磨という営みはいまでも現在進行形なのです。
ともかく、私は、狂言については何も知らなかったので、本書に書かれていることはすべて新しい情報でした。その中でも「へぇ~」と思ったのが「すっぱ抜く」の語源についてです。「すっぱ」は狂言の役名でもあります。
(p95より引用) すっぱは、詐欺師、騙りの者です。・・・
ちなみに「政治家のスキャンダルを新聞がすっぱ抜いた」などと使う、「人の秘密を暴いて公にする」という意味の「すっぱ抜く」は、このすっぱからきています。
もうひとつ、難易度の高い狂言の楽しみ方が紹介されていました。
(p160より引用) 本当に笑われているのは誰なのか。この視点が、『萩大名』にかぎらず、狂言の見方の幅を広げます。
狂言における「視座の転換」ですね。
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